第3話



 星空の下を帰る。


 組んでた頃はこうやってよく帰った。

 シザが、説教を車の中で聞く気になれないと嫌がったからだ。

 だから話がある時は夜風に当たりながら、わざと時間を掛けて話しながら帰った。


 今日の出動はどうだったとか、お前の戦い方はこうだったとか、

 そんなことを話しながら。


 今日はそんな話題もない。深夜で、この辺りは人通りもまばらだ。

 穏やかな夜だった。


「ユラが言ってただろ。

 ラストの曲。特別思い入れがあるって。

 ダニエル達と話してたんだ。お前絡みなのかなって」


 旧市街の静かな夜景の中で、シザは小さく笑った。


「僕のことじゃないんです」


「ええ?」




「養父が特に好んだ曲だった」




「養父……って」

 アイザックは立ち止まった。

 シザには今ドノバン・グリムハルツという養父がいるが、

 シザはこの男を養父とはあまり呼ばない。ドノバン、と大概呼び捨てにする。

 シザが養父と冷たく呼ぶのは一人だった。


「ラ・カンパネラ」


 美しく響く。


「僕の少年時代の、ユラと疎遠だった頃にもう聞いた記憶がある曲なんです。ユラは幼い頃にすでにこの曲を会得していて、特に得意だった曲の一つですよ。

 でも、養父に暴力を振るわれてから、ユラはこの曲を弾かなくなった。

 弾かなくなったというより……弾けなくなったんです。

 あの男を思い出すからでしょう」


「そんな曲を……」


「そうです。あれだけ弾いた公演の最後に、持って来た。

 一番精神的に弾くのが苦しくて、弾き切るのに全身全霊を込めて立ち向かわなければならない、そういう曲を。

 ユラ・エンデというピアニストの、あれが凄い所です。

 普段は優しくて穏やかな人ですが……ピアノに触れると変わる」


「んじゃお前も、相当昔に聞いた限りだったのか」

「はい……。僕が大学寮に入って不在の時は弾いてたんだと思いますが。

 家に戻った時もこの曲は聞かなかったので、子供の頃以来でした」


 雰囲気のある街並みを通り過ぎ、大きな橋に差し掛かった。


「昨日ユラと話して、この三カ月自分の中に渦巻いていたものが、

 全部消えました。怒りとか、嘆きとか……そういう類いのものが。

 すっかり慣れ親しんだそう言ったものが無くなった所に、

 ユラへの愛情だけがいつも通り残って」


 シザは旧市街から見える、都心の方へ目を向けた。

 都心から旧市街を逆に見ると、密やかな光にぼんやりとレンガ色の街並みが浮かび上がり雰囲気があるが、こちらから見る首都ギルガメシュはひたすらにまばゆい。


 橋の欄干に寄る。


「正直いつも通り過ぎて、若干怯えてます。

 ユラに会いたいけど。

 会ったら自分のエゴばかり押し付けそうな気がして。

 ユラはそれでもいいとは言ってくれるでしょうけど、

 ……あの人は昔から、僕のすることに一度も怒ったことが無い」


「お前だってそれは同じだろ」


「いや同じじゃないですよ。何度も言ってる通り、あの人は小さい頃から僕を一途に想ってくれてましたけど、僕は情の薄い兄だったんです。

 ユラも、ユラのピアノも嫌いで、近づいて話しかけられると邪険にしていた記憶もちゃんとある」


 橋の縁に少し体勢を崩して凭れ掛かった。


「先輩の奥さんのことを聞いてもいいですか」

「俺の元嫁か?」

「離婚なさってから、彼女は今はどうしてるんですか」

「ま、あんまお互い干渉しないようにしてる。

 よくあるだろ。別れたり離婚した後もいい友情が残るって。

 普通に会う連中もいるけど。俺らの所は会ってない。

 憎み合って別れたわけじゃないし、嫌いになったわけじゃねえけど。

 ダラダラ会うくらいなら俺は別れたくなかったし。

 そういうことは結婚してた頃から俺は言ってたから、だからあいつも連絡とかはして来ないな。

 でも俺の予想じゃあいつは、人生色々楽しむ奴だから。

 数年も経てば新しい恋愛もしてると思うぜ」


「そういうの考えるとやっぱり、少しは寂しいですか?」


「ん~~~~~~~~~~~。

 寂しいとは違うかもなあ。別にカッコつける気ねえけど、

 俺と離婚したからには次は絶対幸せになれよとは思ってるしさ。

 まあ別れた男をいつまでも引きずるような女じゃないのは分かってるんだけど」


「じゃあ、嬉しいんですか?」


「嬉しいだけじゃねーけどさ~~~~~。

 わっかんねえよ! 複雑なの! ただざっくりとあいつには幸せになって欲しいとは思ってる。それだけ!」


「複雑ね……」


 アイザックがそう言うと、振り返っていたシザは小さく笑った。


 それは、分かるよ。



 自分の中に「愛してるよ」以外の言葉が何にも浮かばなくて

 昨日から途方に暮れてる。

もっと何かを伝えたいのに、全然言葉にならない。

 

 ユラの中には、あんなに色鮮やかな、音色が溢れているのに。

 自分の中には何もない。



「お前がなんか憂いてるのは分かるが。

 逃げんなよ、シザ」



 アイザックは後ろから声を掛けた。


「お前はプライドがエンシャント・タワーより高い奴だから。

 何でも自分が弱気になりそうだと、克己心で察して選ぼうとしてた道と逆に行こうとするとこがある。 

 マズい現場であればあるほど前に出ようとしたりするし。

 自分で持て余すような愛情を抱えれば、わざとユラを手放して自由にしようとするし」


 シザは背を向けたままだ。


「……それって悪いことですか?」


「悪かないけど。お前とユラは単なる恋人同士じゃない。

 兄弟の要素も持ってる。

 踏ん切り付けねえと、大きなズレが起きて、取り返し付かなくなるぞ。

 いつものお前なら今回みたいなの、瞬く間に帰国手配整えるはずなのに、

 アリア・グラーツなんかに勢いで負けてんのは、

 その辺りが理由だろ。

 要するに恋人として迎えるのか、兄貴として迎えるのか、どっちにすればいいのか分かんなくなってる」


「……。僕はユラ以外と付き合ったことがあります」


「んん?」


「勿論お遊びではなく、恋愛感情も少しはあったと思います。

 好きだったし、ユラ以外の人を好きにならないといけないと思ってた時期に、

 何人か女性と付き合いました。必死になって。

 当然、別れましたけど。

 ……だけど喧嘩別れしたわけではないので、彼女達のこれからの幸せや、僕じゃない誰かを選んで幸せになることを、全然願える。

 でもユラは……」


 シザは瞳を伏せた。


「……弟として、この世の誰よりも幸せになって欲しいですけど。

 彼が他の誰かを選ぶことは、喜ぶ自信がないです。

 昔はそういう自信があった時期もあるんですが。

 ユラが選ぶならどうにもならないのは分かっていますけど、

 出来れば、……自分を選んで欲しいと祈ってしまう」


 アイザックは頬のあたりを指先で掻いた。


「……それって悪いことなのかよ?」


「どうかな。分からない……」



「普通の男はみんなそうだ。

 好きな奴には自分を選んで欲しいって思ってる。

 変なことじゃねーよ。

 お前独占欲をまるで汚物みたいに言うことあるけど。

 愛を語っておきながら独占欲一つも見せねえ奴の恋愛なんか、

 お遊びじゃねえか。

 恋愛が進んだら普通プロポーズすんだぞお前。

 相手の指に指輪を嵌めたり、自分と同じ名前に変える国だってある。

 あれって完全に独占欲じゃねーか。

 どこのカップルも結婚式じゃ幸せそうにそんなことしてるよ。

 

 誰かのものになるとか、好きな相手なら、そう悪いもんじゃねえよ。多分。


 そら今回はそこを逆手に取られてとんでもないことになったけど。

 だけど今回のことは連邦捜査局の方が間違ってんだ。

 あいつらは間違ったやり方で法を振りかざしただけなんだから、

 あんな連中に詰られただけで、不安になるんじゃねーよ!

 シザ!

 普通はデートの場所だとか、

 倦怠期が来ないようにあれこれ考えたりだとか、

 特別な日に何を贈ろうかだとか、

 そんなことを悩むもんだ。  

 お前は七年前からユラを愛していいのかどうかなんて次元で悩んでる。

 

 いいんだよ!

 ユラがいいって言ってんだから!

 いい加減前に進め!」



 アイザックが語気荒く言い切ると、美しい景色も見ず、橋の向こうへと歩いて行く。

「相変わらず言いたいことを言ってくれる人ですね」

 シザは若干呆れるようにそう言ってから、もう一度橋の縁に凭れ掛かる。

 服の中から指で引っかけるようにし、チェーンに掛かった二つの指輪を取り出した。

 

「……先に進もうと思った矢先に前を塞がれたんですよ」


 それで進めなくなった。

 

(どうも僕はそういう運命にあるみたいだ)


 進もうとすると必ず困難が訪れる。

 底意地の悪い運命の神が現れて、苦難を課す。

 シザが大学生になる頃にはすっかり信仰というものを持たなくなったのには、そういう理由がある。

 こういう運命を自分や自分達兄弟に幼い頃から課して来た神の慈悲を、全く信用出来ない。


 だからシザの場合、神の代わりに星があった。

 神よりは実際の目に見えて、太古の昔から人の手の及ばない領域に存在して来たもの。


 星を讃える言葉はない。

 星はただ、願う。


 遠くにいる愛する者や、

 自分の運命の幸運を願う。


 何かに依存し、救いを求めて祈るより、

 星が瞬くその夜に、願いたいと思えれば、願ってみる。

 そのくらいの方が自分に合っているのだ。


 星を見上げて想うのは、

 愛することを知ってからはただ一人しかいないけど。




(ユラも今頃星を見てるのかな)




 自分を想ってくれているだろうか?


 シザは夜風に吹かれながら、そっと目を閉じた。



【終】

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