第8話

朝の配信と“先延ばし”判定


 朝のキッチンは、すでに撮影スタジオだった。リングライト、三脚、ミキサー、そしてアリエル。エプロン姿でフライパンを振りながら、スマホに向かって満面の笑みを投げる。

 「みんなおはよう! 今日は“モデルの朝ごはん”特集、#エンジェル飯!」

 コメント欄が滝のように流れていく。〈肌つやヤバい〉〈朝から天使〉〈マネの声も聴きたい〉


 私はカウンターの端でノートPCとスマホを並べ、裏方の現実作業を回していた。スケジュールの差し替え、メールの返答、案件の優先度付け。マネージャーって、いわば社会との接続端子だよな……。


 ポケットが震える。〈050-…〉不明番号。昨夜もかけてきたやつだ。

 通話ボタンに親指を置きかけて――私は一拍置いてから、留守電に切り替えた。今は配信中だし、あとで聞けばいい。

 同時にInstagramのDMがピコンと鳴る。差出人は非公開アカウント、メッセージは一文だけ。〈昨日、スタジオで見かけた気がして〉

 ……誰だ? メグミ? いや、偶然かも……。

 私は既読だけつけて、フラグアイコンを赤にして“後で返信”フォルダへ放り込む。


 視界の隅で、薄いゲージがチリ、と揺れた。

 《+30.0 → +29.7》

 「……は?」思わず小声が漏れる。

 背後からアリエルのささやき。「“先延ばし”は軽減点。逃避分類。基本のキだぞ」

 「いや、いま仕事中だし合理的な判断で――」

 「合理的なら“いつ・どう返すか”まで決める。未定は逃避、ね」

 痛いところを突かれて、私は喉を鳴らした。たしかに……。


 配信のアリエルは、こちらの動揺など知らぬ顔で華麗にオムレツを返す。

 「質問来てます! 朝のスキンケアは何してますか?」

 「光合成。以上!」

 〈草〉〈葉緑素生えててワロタ〉コメント欄が爆笑で埋まり、私は思わず苦笑いしつつメールに戻る。


 受信箱に“チャリティ・イベント”の件名。ファンの高校生からだった。

 〈地元の図書館に本を寄贈したくて、告知を手伝ってもらえませんか〉

 私は即座にテンプレを開き、機械的に返しかけて指を止める。テンプレじゃ伝わらない。

 打ち直す。

 〈素敵な活動ですね。必要冊数と締切、告知の想定媒体、問い合わせ窓口を教えてください。こちらで事務所PRと調整します〉

 送信。すぐに「ありがとうございます!」の返信が弾けた。


 HUDがふっと光る。

 《+29.7 → +30.5》

 ……上がった。 胸の奥に小さな熱が灯る。アリエルが片目をつむり、配信の合間に囁く。

 「いいね、“人の目的を進める”は加点高め。続けて」

「了解、ボス」


 私はタスク管理ボードに指を走らせる。

 ・チャリティ:PR部へ橋渡し/稟議フォーム作成(今日中)

 ・不明050:昼休みに折り返し時間確保(12:30)/要件メモ欄作成

 ・DM:送信者の属性チェック→仮返信草案作成(昼まで)


 “いつ・どう返すか”を決めた瞬間、ゲージが**+0.2**跳ねた。

 《+30.5 → +30.7》

 プランを立てるだけでも前進扱いか。仕組み、よくできてるな……。


 「はいカット!」アリエルが配信を締め、スマホを三脚から外す。

 「今日の君は良い。“先延ばし”で削ったぶん、計画で戻した。で、さっきの050、昼にかけ直すって書いたよね?」

 「……書いた」

 「ならOK。“後回し”じゃなく“段取り”。世界が似て非なる二つを見分けられるかで、ゲージは変わる」


 私は深く息をつき、冷めかけたコーヒーを一口。

 逃げない方法は、たぶん“いま決めること”。

 スマホの通知はまだ点滅している。けれど、その光はさっきほど怖くなかった。


 「じゃ、ブートキャンプ行こうか。午前は事務所で運用会議、午後はスタジオ搬入」

 アリエルがウインクする。

 「今日は“前に出る”練習日だ、マネージャーくん」


午前十時、白い会議室。壁一面の月間スケジュールと案件ボード。私とアリエルの向かいに座ったのは、事務所PR兼マネ統括――篝(かがり)。眼鏡の奥の視線が鋭い。


 「まず前提。きらめきの裏側は段取りと信用です」

 低く通る声で、篝はチェックリストを置く。


 - 現場での挨拶動線:入口→制作→音声→照明→美術→キャスト。

 - 差し入れルール:個包装、アレルギー表示、冷蔵保管可。

- SNS:控室や台本の写り込み禁止、機材映り込みも×。

- 貸衣装:飲食禁止、座る時は上着を脱ぐ。

- 炎上回避:冗談でもNGワード一覧(別紙)。

- 緊急連絡網:遅延・病欠の一次連絡は“現場チーフ”のみ。


 アリエルが手を挙げる。

 「NGワード一覧に『光合成』って入ってる?」

 「入っていません。入れるべきですか?」

 「やめてくれ」私は小声で制した。


 篝は淡々と続ける。

 「それから。最近、スタジオ周りに“怪しい男”の出入りが増えています。警備は強化中。身分証、パスの携行は必須。不審者を見たら追わず、報告――いいですね?」


 背中に冷たいものが走る。外部要因、という言葉が頭をよぎった。


 「では実技。メール運用の即応テスト」

 篝がノートPCを回す。受信箱の最上段に赤字件名――〈本日14:00→13:20集合に前倒し/控室変更〉。差出人はスタジオ制作。

 「この変更を“関係者全員”に10分で通してください。内容の齟齬が出たら失格」


 喉が鳴る。私は深呼吸し、配信準備中のアリエルに目で合図。

 「アリエル、撮影前の食事は12:00に前倒し。衣装は到着後に着替え、リハ直前まで飲食禁止」

 「了解、マネージャーくん」


 私は連絡先を三系統に分けて送る。①事務所内部LINE(アシ・スタイリスト・ヘアメイク)②制作側の共有アドレス(Bccで文面統一)③アリエル個別カレンダーの時間ブロック。

 件名に【緊急】を付け、本文冒頭に変更点を箇条書き、末尾に既読(確認)リアクションを指定。

 送信――5分。LINEに既読がばらばらと付く。ヘアメイクからスタンプ、制作チーフから「反映しました」の短文。

 HUDがふっと光った。《+30.7 → +31.5》


 「……よし」

 篝が腕時計を見て頷く。

 「悪くない。書く順番がいい。変更点→理由→影響範囲→ToDo。現場は文章の“構造”しか見ませんから」


 アリエルが親指を立てた。

 「ほら見たか。俺のマネージャー、顔は地味だがメールは強い」

 「顔の評価は要りません」と篝。即答が鋭い。


 その時、衣装担当から電話。〈貸出コートが1点レンタル不可に〉

 私は即座に代替案を三つ返す。社内ストックの同系色/ブランド側に“色違いで可否”確認/画角外なら私物で代替。

 「どれでも行けます。現場の絵に合わせて選んでください」

 通話を切ると、HUDが**+0.3揺れた。《+31.8》**。


 篝が資料最後のページを指で叩く。

 「最後に。差し入れは今日、あなたの裁量で用意してみてください。現場の温度を見る良い訓練です」

 「えっと、仮眠用のカフェインゼリーと、小さめのおにぎり、常温の水……ですかね」

 「良い選択です。音声は飲み物重視、照明は塩分、ヘアメイクは糖分。配分に気をつけて」


 アリエルが私の肩を軽く小突く。

「忘れ物はない? マネージャーの基本は“先回り”だぞ」

 「先回り、ね……」


 篝は資料を閉じ、短く微笑んだ。

 「では現場で。信用は一日で作れませんが、崩すのは一瞬です。よそ見しないこと」

 「肝に銘じます」


 会議室を出る。扉が閉まる寸前、篝の声がもう一度。

 「それと――不審者を見つけても“追わない”。あなたは前に進む役です」


 廊下に出ると、HUDの《+31.8》が小さく脈打った。

 段取りで、人を支える。まずはそこからだ。

 私はバッグの中身をもう一度確認し、スタジオ搬入のチェックリストを開いた。午後、試されるのは“前に出る勇気”だ。


 午後、スタジオの搬入口は戦場だった。台車、ケーブル、銀色の機材ケース。私は差し入れの段ボールを抱え、通行の邪魔にならないよう壁際を進む。

 HUDは**《+31.8》**。このまま平常運転でいければ――


 角を曲がった先、廊下の照明が白く反射する。

 そこに彼女のシルエットが浮かんだ。ゆっくり歩いてくる長い髪、衣装の裾がふわりと揺れる。

 神崎 遥。

 心臓が、不規則に跳ねた。喉が詰まる。足が勝手に後ろへ下がる。


 やばい、まだだ、準備が――

 非常階段の扉に手が伸びる。逃げ道を作る、その瞬間。


 空気がバチッと弾け、廊下の時間がねじ切れた。視界が白反転――


 天上裁判所。

 観衆のざわめき、白銀の天秤、あの冷たい石床。両腕に抱えていた段ボールは、なぜか一緒に転送されて足元にどすんと落ちた。

 「段ボール同伴って新しいな」隣でアリエルが額に手を当てる。


 裁判官の低い声が、天蓋から降る。

 〈被告人・日向一樹。“逃避”の反応あり。自動招集による第一警告を宣告する〉


 胃が締まる。私は言い訳を探すが、喉は砂漠みたいに乾いて声が出ない。

 〈説明する。“遭遇を回避する行為”は、過去の再演を固定化する。未成熟の再発芽である〉

 ……見られてた。全部。


 アリエルがひらりと一歩前に出る。

 「裁判官殿、逐次訓練中でして。初回は情状酌量を――」

 〈量刑は科さぬ。ただし、本日の義務を付与する〉

 空中に金文字が浮かぶ。


 > 本日中の課題

 > ① 自発的に三名へ声をかけよ。

 > ② 各々に“具体的な支援”を一つ以上実施せよ。

> ③ 逃避の兆しが出た際は、10呼吸の後に行動を選択せよ。


 〈不履行の場合は再招集。加えて、現在値から**−3**〉

 HUDが目の前で数字をはじく。《+31.8 → +28.8》

 「うわぁ……」思わず尻込みする。観衆の一部が「おお……」と同情とも娯楽ともつかぬ声を上げた。


 アリエルが小声でつつく。

 「CM明ける前に戻ろう。段ボールの保冷材、そろそろ限界だし」

 「今CMじゃない!」

 〈戻れ〉裁判官が短く告げ、鉄槌が一度だけ鳴った。


 世界がはじけて、同じ廊下。

 落とした段ボールはまだ揺れている。遥の足音が近い。

 HUDは**《+28.8》**のまま、脈打つように点滅。


 アリエルが私の耳元で囁く。

 「逃げるか、やるか。十呼吸」

 ……一、二、三―― 肺に冷たい空気を満たし、ゆっくり吐く。

 四、五、六―― 掌の汗をズボンで拭う。

 七、八、九―― 非常扉から手を離す。

 十。


 私は段ボールを持ち直し、廊下の中央に一歩出た。

 「通路、少し空けます! ケーブル、まとめます!」

 声が出た。スタッフが「助かります!」と返す。HUDが**+0.6**跳ねた。


 遥の影が視界の端を通り過ぎる。顔は見ない。今は、まだ。

 アリエルが静かに頷いた。

 「そうそう。まずは前に出る。それが今日のルールだ」


 私は深呼吸をもう一度。

 逃げなかった。次は、役に立つ。三人。具体的に。

 HUDの数字が、かすかに心臓と同じリズムで明滅していた。


搬入口の渋滞は、相変わらず小さな混乱の塊だった。私は段ボールを台車に載せ替え、視界を素早く走査する。三人に声をかける。具体的に役に立つ。十呼吸の後、選ぶ。


 ――まずは足元。照明ケーブルが通路を横切り、スタッフが何度もつま先を引っかけていた。私はガムテを口でちぎり、ケーブルを扇状に束ねてから、養生マットで跨がせる。

 「この動線、ここでまとめます!」

 「助かる!」黒Tの音声がニッと親指を立てた。HUDがふっと光る。《+28.8 → +29.6》。


 ケーブルの山を片付けていると、アリエルが横目で私を見て小さく頷いた。

 「いいね。先回りで“危険源”つぶすのは点高い」

 よし、一人目。


 次に、通路の先でADの若い女性が台本と進行表を抱えて困っているのが目に入る。

 「どうかしました?」

 「え、あっ……控室の変更で並びが崩れちゃって、出演者移動の導線が……」

 私は進行表を覗き込み、さきほど篝から叩き込まれた“挨拶動線”を思い出す。

 「制作打ち合わせのメール、読みました? 集合が13:20に前倒しですよね。だったら、先にBチームを上げて、Aの衣装替えをその間に。移動はこの通路を一方通行にして、戻りは裏階段へ回すのが早いです」

 「……それ、いけるかも!」

 ADがインカムでチーフに連絡すると、すぐに「採用!」の返事が来た。HUDが跳ねる。《+29.6 → +30.8》。

 「二人目クリア。テンポいいじゃん」アリエルが口角を上げる。


 あと一人。 エレベータホールに向かおうとすると、壁際でエキストラの若者が台本を見つめて青ざめていた。

 「大丈夫?」

 「す、すみません……セリフが飛びそうで。人前が苦手で、息が浅くなって……」

 胸の奥に、稽古場でハルカがやっていた呼吸の光景が蘇る。私は右手を自分の腹に当て、彼にも同じように促した。

 「四つで吸って、四つ止めて、八つで吐く。肩じゃなくてお腹を動かす。声は“息の上に乗せる”だけ」

 彼はおそるおそる真似をし、二回目、三回目で顔色が戻っていく。

 「……少し、落ち着きました」

「いい感じ。じゃあ、その一行を“相手の目”に投げる。声量より、届かせる気持ち」

 若者は小さく頷き、口を開く。驚くほど自然に台詞が出た。

 「できた……ありがとうございます!」

 HUDが温かく明滅する。《+30.8 → +32.3》。


 「課題達成」耳元でアリエル。

 「まだ終わりじゃない。“前に出る”モード、続けよう」

 私は肩の力を抜き、差し入れの段ボールを開けて各部署に配り歩く。

 「長丁場になります。常温の水と塩分ゼリー、置いておきます」

 「気が利くね!」照明の兄さんが笑い、音声は「マイク前は水助かる」と手を振る。数字は細かく**+0.1、+0.2と積み上がり、HUDは《+32.7》**で安定した。


 その合間、ふいに背後を柔らかな香りが通り過ぎる。振り返らない。視界の端、銀のイヤリングが一瞬だけ光った――遥だ。喉がわずかに強張るが、私は十まで呼吸して、今やるべき段取りへ視線を戻した。

 逃げない。焦らない。今日は“支える日”。


 アリエルが私の肩を軽く叩く。

 「三つの能動、満点。ついでに俺のリハ入り時間も五分前倒ししておいてくれ」

 「もうカレンダー反映済み」

 「優秀〜。ほら、ゲージ見ろ」


 HUDは穏やかな光で鼓動していた。−3の穴は埋まり、わずかにプラス。

 たぶん、正面から向き合う練習はこういうところから始まる。


 廊下の端で「フォトセッションいきまーす!」の声。私は台車のブレーキを外し、通路を開ける。

 あと一歩。次は、“言葉”だ。


夜十時過ぎ。撮影は無事に終わり、スタジオ前の喧噪もようやく薄れていた。私とアリエルは駅へ向かう歩道橋をのぼる。冬の風が頬を切り、下を走る車のライトが白い筋になって流れていく。

 HUDは**《+32.7》**のまま、穏やかに脈打っていた。今日は前に出られた。マイナスは取り返した。――その矢先、ポケットが震えた。


 〈050-…〉またあの番号。

 私は一瞬、親指を止める。十呼吸。逃げ道を作らない。

 一度スワイプして留守電へ落とし、すぐに再生する。風の音と、少し迷いのある女性の声。


 『……もしもし、違ってたらごめん。ミライリンクのスミレです。――日向くん? 昨日、スタジオであなたにすごく似た人を見たの。人違いかもしれないけど……どうしても、あの日のことが忘れられなくて。もし、もし本当にあなたなら――話せないかな。私、ずっと気になってることがあるの』


 鼓膜の裏がじんと熱くなる。スミレ先輩。

 歩道橋の金網越しに見える交差点、信号の赤。遠いクラクション。胸の奥で、何か硬いものが軋んだ。


 「……“あの日”、だって」

 隣でアリエルが小さく呟き、私の顔色を覗き込む。私は頷くこともできず、ただスマホを握り直した。


 HUDがふわりと揺れる。数値は動かない。画面の端に薄く〈選択待ち〉の表示。返すか、逃げるか。今はまだ、保留。

 アリエルが欄干にもたれ、風に前髪を揺らした。


 「逃げたら、また法廷に呼ばれる。知ってるな?」

 「……ああ」

 「でも、どのタイミングで、どんな言葉で向き合うかは“君が選ぶ”。そのために戻ってきた。――折り返す?」


 喉が渇く。唾を飲み込む音が自分でもわかった。

 ハルカの前に、まずスミレ先輩。職場。あの日。俺の死に、誰かの影。

 歩道橋を渡る風が一段と強くなり、コートの裾を翻す。親指が発信ボタンの上で止まった。指先に汗がにじむ。


 十呼吸。

 ――一、二、三。

 肺に冷たい空気を巡らせ、目を閉じる。

 ――四、五、六。

 あのロビーの光景、缶コーヒーの苦味、先輩の横顔。

 ――七、八、九。

 逃げない。

 ――十。


 私は目を開け、親指に力を込め――


 夜景が一瞬、強く滲んだ。

 HUDは静かに光ったまま。数値は、まだ動かない。


 (つづく)

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『死んだら天国裁判でした〜俺を地獄送りにするのはやめてくれ! @ren-dreaming

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