『葡萄鹿の子の病気、そしてその治し方』

スナコ

『葡萄鹿の子の病気、そしてその治し方』

悪い事してんのは、おにぃちゃんだと思う。

酷い事してんのは、おにぃちゃんだと思う。

だから、仕方ない。苦しくても、仕方ない。


ぎりぎりぎり。ぎりぎりぎり。

腹に馬乗りになられ、鹿の子の細い指が自分の首に食い込み締め上げている状況に、真砂の思考は混乱の渦に投げ込まれてぐるぐると回っていた。状況は理解できている、が、理由が理解できない。

自分達兄弟の天使である、可愛くて幼くてか弱い妹が。粗暴な甦の子や自分を嫌っている高砂ならまだしも、よりによって、暴力から一番縁遠く清らかなはずの鹿の子が、自分の首を締めている。全体重を乗せた、本気で殺さんばかりの、容赦のない力で。

なんだ、なんなんだこれは、悪い夢か?

そうでない事は、首に絡む指の感触が、何より息ができない苦しみが教えてくれる。くる、苦しい、胸が、痛い。

酸素が入ってこない事で、肺が痛みを訴え出している。まずい、これは本当にまずい。

「がっ・・・のご・・・!ぁなっ・・・!」

生理的な反応で生まれた涙が滲んで、輪郭をなくしぼやけた視界の向こうにいる彼女に、懇願する。やめて、離して、酸素を返して、と。

すると、

「ああ、やっと」

満足気な、嬉しそうな、笑み。この状況にそぐわない表情を、確かに認識した、その瞬間。


やっと鹿の子を、見た。


そう聞こえた気がした、のは、事実なのか。それとも酸素が行き渡らずに、誤作動を起こした脳が作った幻聴だったのか。わからない。思考にまで白黒のノイズが混じり出してきている今の自分には、とても判別なんてできそうにない。

ぱっ、と。突如として鹿の子の手は真砂の首から離れ。それに伴い塞がれていた気道は開き、一気に雪崩れ込むようにして入ってきた酸素に、真砂は溺れるような感覚に陥って盛大に噎せた。

ぜけぜけ、と、嫌な音を立てながら荒い呼吸を繰り返す。吸って吸って、吐いて、また吸って。普段、意識などせずに、極自然に毎秒当たり前に繰り返していた行為を、こんなにも意識した事が。そして今までそれらを、何にも阻まれる事なく当たり前にこなせていた事実に対して、こうまで感謝した事があったろうか?

眦から涙がぼろぼろ落ちて、熱い軌跡を頬に刻んで、顎から離れて落ちていく。悲しい訳じゃない、嬉し涙でもない、生理的に生まれたそれを、煩わしいと拭う余裕すら今の自分にはない。

まだ呼吸は整わない、というのに、冷たい手に左右から頬を挟まれて。小さなその手の冷たさに心臓を縮こめている内に、強引に顎を持ち上げられた。

その先にあったのは、我等が天使の顔。あどけなくて無垢な、可愛い笑顔。

細めた目が、自分と揃いの紫の目が、まっすぐに自分のそれを覗き込んできて。・・・沈黙にいたたまれなくなって、思わず視線を逸らした。その瞬間、

べろり。

「!?」

頬骨から目尻にかけてを、ぬめってざらついた、生温かい物が這った。未知の感覚に、反射的に身を引いて逃げようとして、

「、」

阻止された。頬を挟んでいた鹿の子の手は、その細腕からは想像もできないような力でがっちりと万力のように離れずに、自分の顔をその場に留めるべく固定されていた。

そして、戻した視線の先に、真砂は信じられない物を見た。間近なんてものではない。至近距離に迫った、鹿の子の顔・・・近すぎて、もはや肌色と髪の黒しか見えない左側の視界と、

「ひっ、ぃ」

ぺろ、ぺろぺろ。視界の端に、にゅるりと蠢く、赤黒い何か・・・それが鹿の子の舌である事、自分の目尻を中心にした右半分の顔はそれに舐め回されている事を理解し。訳がわからない恐怖に、真砂は小さく引き攣った悲鳴を漏らした。

目尻から、頬に。頬から、目尻に。ぐり、と舌先を目尻に押し込まれる事もある・・・涙を、舐め取っている?

理解が追いつくのと、ほぼ同時に。舌が、顔が、離れた。顔にかかっていた生温かい息がなくなり、唾液で濡れた右半分が空気に触れて寒くすら感じるのを、安堵に満ちたありがたい気持ちで受けていると。

「おにぃちゃん」

いつものように・・・いや。いつもの数段、甘えにとろけた声音で呼ばれた。平静のそれとは明らかに違う、甘えた響き。「お願い」の、サイン。

彼女の「お願い」は、絶対だ。彼女は、一人では何もできないから。誰かが助けてやらねば、生きていけないから。呼びかけに応えるのは自分達兄弟の義務であり、当然の事で、呼吸のように自然な事だった。彼女を助ける事を、期待に応える事を。面倒に思った事なんて一度だってないし、疑問を抱いた事もない。

いつもならば、すぐに返事をしてやれただろう。・・・でも、でも。

恐、い。わからない、意図が読めない。鹿の子は、自分達の天使は、一体どうしてしまったのだろう?

「もうね、高にぃちゃんのために泣いちゃ、だめよ」

「・・・へ?」

間の抜けた声が、やけに遠くに聞こえる。今のは、自分の声か?・・・いやそんな事より、は?何?高砂が、なんだって?泣く?

理解が追いつかず、再び思考が渦に放り込まれる。ぽかんと口を開けて自分を見上げてくる、そんな兄に向けて、鹿の子は花のように笑って、

「おにぃちゃんが泣くのはね、鹿の子のためだけでいいの」

未だ流れたままの、左の頬を濡らし目に浮かぶ涙を、鹿の子は指先で愛おしげに拭って。

「高にぃちゃんなんか、忘れさしてあげる。ね、だから鹿の子のためだけに、泣いて?」

にっこり、と。あどけない顔に、心からの笑顔を浮かべて、言葉を降らせた。

・・・いつものように、清らかで愛らしい、天使に例えられるにふさわしい笑顔。けれど、なぜか強烈な違和感と寒気を拭えずに、真砂は一人大きく震える体を抑える事ができなかった。



『ほしいのは、その目』『こっち、こっち』

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