第4話 初めての夜
美穂は松本のペースに振り回されっぱなしだった。初っ端からこっぴどく怒鳴られ、身体を乱雑に触られ自己肯定感が早くも取り壊されそうになる。
「ねえ、松本さん。私ね、モカっていうの。モカ。せめてモカって呼んでくださいよぉ」
美穂はブスとかお前、テメェと松本に呼ばれるのが嫌で仕方なかった。
「ああん?この頭空っぽのバカ女に名前なんてあんのか」松本は不機嫌そうに言いながらも顔は笑っていた。いけるかもしれない。美穂は諦めなかった。
「松本さ〜ん。お願いしますよぉ〜。モカって呼んで」引き下がらなかった。
「しかたねえな。おい、モカ。返事しろ」そう言って松本は美穂の頭を軽く叩いた。
「はぁ〜い、モカです。松本さん、ありがとう」美穂は髪の毛を直した。
「ねえ、松本さん。モカね、稼がなくちゃいけないの。どうしっても。たくさん、たくさんね」
「それがなんだって言うんだよ、ああ?」
しまった、余計な事を言うんじゃなかった。美穂はすぐに後悔した。
「借金でもあんのか、こら」
松本の口調が厳しくなる。この手の話ってご法度なのかな?心臓のドキドキが止まらない。どうしよう、話題をかえなくちゃ。
「ううん、何でもない。借金なんてないよ。ないない。ちょっと言ってみただけ。ただ買い物とかブランドバッグとかがあるだけ。それだけ、それだけ」
「ああ、そうか。俺はがっついた女が嫌いなんだよ」
松本はあっさりと引き下がってくれた。美穂は安堵した。よかった、助かった。突っ込まれたりこれ以上怒鳴られたりしなくて。
「お待たせ致しました」テーブルにピザとポッキーが運ばれて来た。美穂はそれらの品を見て驚いた。
え、これが3万円?どうみても冷凍食品を電子レンジで解凍しただけであろう薄くて小さなピザに1袋分しかグラスに盛られていないポッキー。
「このボッタ店が」
松本は皿を見るなりこう吐き捨てた。美穂も松本の言葉に同感だった。松本はそれらに一切手をつけようとしないし、見向きもしなかった。
「おい、これはテメェの食う分だからな。エサだ、エサ。鳥のエサよりひでえな。俺はこんなの食わん。食えたもんじゃねえ」
美穂はいただきますとだけ言って口をつけた。もしこれを残したら松本に何をされるかわからない。絶対に怒鳴られるだけじゃ済まされない。美穂は急いで片付けるように食べた。空腹だから少しはおいしく感じられたがきっと通常時に食べたらどうってこともない味か不味く感じるんだろうなと思った。
予想した通りの冷凍食品の味だった。美穂はよく噛まずに流し込んだ。たぶんここで食べ物をとる人は居ないだろうなと美穂は思った。
店内を見渡すと少しずつ客が入って来ていた。
まあまあ繁盛している店なんだな、これなら稼げそう。この松本という客は毎日来るみたいだし特にこいつにそんなに気を遣わなくても良さそうだな。だってさっき、りりっていう子が松本の席に着くのを断っていたくらいだし。
美穂はポッキーをつまみながら店内の様子を見てから松本を見た。どこで売っているのだろう?と不思議な色をしたスーツ。よく見ると明るい青紫色だった。普通のサラリーマンではないな。紺色のワイシャツ、赤地にペーズリーの柄のネクタイ。悪趣味のオンパレードだ。どれひとつ取っても既製品として独立して売っているのなんて見た事がない。
もしかしたらオーダー品なのかな。美穂はそんな事をぼんやりと考えていた。お酒を早いペースで飲み頭が痺れている。早くも酔っ払っていた。
このすぐに怒鳴り触り魔の松本に場内指名されても嬉しくなかった。こんな調子だからきっと店の女の子達にも嫌われているだろうしな。
「ねえ、松本さん。ピザおいしかったぁ。ごちそうさまでしたぁ」思ってもない事を言った。12時間振りの食事だった。
「おい、モカ。お前、俺の女になれよ。かわいがってやるぞ。毎日、毎日、イヤってほど抱いてやる。他の女が嫉妬するぜぇ。お前は毎日、毎晩俺が突っ込んでやるからガバガバになるぞ」ガハハハ!と下品に松本は笑い声を上げた。
こんなくそオヤジに抱かれたい女なんてこの世に存在する訳がない。そう思いながら美穂は曖昧に笑ってみせた。
「おい、笑って誤魔化してんじゃねえよ」
「もーう。みんなにそう言っているんでしょ〜。やだぁ。松本さんたら」
だるい、この酔っ払いが。美穂は呆れたがこれで時給が貰えるんだからと割り切った。
早く解放されたい、美穂は時計を見た。まだ1時間半しか過ぎてない。もうこうなったらヤケだ。どうでもいい。
「松本さんって絶倫なの?そんなに勃ちがいいの?」
こいつはどうせやる事しか頭にない助平オヤジだ、下ネタを美穂は振ってみた。
「当たりめえだろ。昔はなAV女優とも同棲してたんだぞ。セックスマシーンの男優相手に酸いも甘いも噛み分けている玄人を俺は相手にしていたんだからな。そんな女達が俺を離さなかったんだからな。毎晩、毎晩その女は悲鳴上げてたんだぞ」
絶対嘘だ、美穂は内心白けていたが「へえー」と相槌を打った。背が低くて、二重顎、目はとても小さな一重まぶたのつり目、唇も薄くて小さな口、何の特徴もない不細工な顔のこのクソジジイにしか見えなかった。
もしかしたらおだてて調子に乗らせてボトルを空けて作り話だか何だか知らない自慢話を聞いていればいいんじゃないかという気になって来た。
「ええ~、すごい、もっと聞かせて」
思ってもいない事を美穂は甘えた声で言った。
それから延々と松本の自慢話が始まった。初体験は松本が小学4年生の時、近所に住む26歳の美容師だった。中学生の時に音楽教師と3年間関係を持ち続けた。高校の時は学年のほぼ全員の女子を喰った。先程のAV女優との同棲の話、ソープに行きソープ嬢全てをお持ち帰りし四股かけていた事。どうせ全てが作り話だろう、妄想だろう、こんな不細工な男に股を広げる女なんて絶対に居ないだろうと思いながら美穂は聞いていた。
ほとんどの話の内容を聞かずにへえーとか、ええ~、そうなのぉ、すご~い、信じられないと適当に相槌を打っていればこいつは黙らない。勝手にひとりで喋らせておけばいい、コツを掴んだ美穂はお酒を飲み進めた。
自慢話に夢中になっている松本は饒舌で機嫌がよく美穂の身体を触る事もなかった。始めからこうしていればよかった、美穂はどうしてもっと早く気が付かなかったのだろうと少しだけ後悔した。
あっという間に6時間が経過し、松本だけの接客で初日が終わった。最初の1時間半は地獄だったが無事に勤務を終えた。午後1時が閉店。
簡単に終わりの挨拶をし「本日も皆さんお疲れ様でした。アフター行く方は各自でよろしくお願いします。はい、解散」あっさりとしたものだった。
美穂は着替えようとしたら肩を後ろから叩かれた。振り返るとエプロンをつけた地味な中年女性が立っていた。
「新人のキャストさんだよね?店の男の人、吉田メンバー長があなたの事を呼んでる」
ぶっきらぼうに言われた。吉田メンバー長?
「え?誰」
「ほら、あの金髪の髪が長い人」
美穂の目が輝いた。吉田さんっていうんだ。私の事を呼んでるって何だろう?でも寮の案内とか日払いの件かな、従業員だもんね。美穂は期待しないでいた。
「お疲れ様です」美穂は吉田に声をかけた。
「モカちゃん、お疲れ様。どうだった、初日?初っ端から松本さんにあたっちゃったね。中には辞めちゃう子も居るんだよ。でもうまくやってたね。はい、これ、今日の給料。ボトルも4本入れてくれたし、食べ物も頼んでくれたし、場内指名は千円バックだけどその後は指名計算になるから2千円バックね。結構稼げたんじゃない?」
美穂は封筒の中身を見て驚きを隠せなかった。4万7千円!こんなにもらえるの?!
時給3千5百円の6時間だから手数料引かれて2万円いかないくらいだと思っていたので嬉しかった。指名とボトルのキャッシュバック分が大きかったのだろう。自分でもよくやったと少し誇りに感じた。初めて自分の力で稼いだ、予想を上回る金額の大きさに興奮していた。
「モカ、寮に行く前にちょっと寄ってほしい所があるからついて来て」
美穂は黙って吉田の後に続いた。タクシーを拾い後部座席に2人で並んで座った。吉田は車内でずっと黙っていた。15分もしない内に吉田がここでと言って精算をした。
茶色の割と新し目の高級そうなマンション、9階建てのオートロックの建物。吉田は鍵を差込み自動ドアを開けた。ここは私の寮なの?でも寮に行く前に寄ってと言われたし。美穂は何もわからなかったが質問をせずに吉田について行った。
吉田も吉田で何も言わない、無言のままだった。慣れた手つきでマンションのドアを開けて玄関に入り美穂もその後に続き、吉田は美穂が中に入るとすぐさまドアの鍵をかけた。
「靴脱いで入って。その辺に座って」
美穂はここが吉田の自宅だと気づくのに時間がかかった。あまり生活感のない部屋。
黒を中心とした家具、黒いテーブルの上にはワイングラスがひとつ、吸い殻が数本残っている灰皿が置いてあった。
「あのここって」
「俺の家」
え?なんで?話が済んだらすぐに寮に案内してもらえるんだろうなと美穂は考えていた。
「飲み直そ」
吉田は美穂の手を引いてソファに座らせた。吉田は新しいグラスを二つテーブルに置き冷蔵庫からワインを出した。
「まだ1時半だよ」吉田はそう言ってグラスにワインを注いだ。
京都の人魚姫 和泉かよこ @kayokoSof
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