自分は〜〜だ、と決めつけることの不幸

島尾

何何な人

 自分はクズだ、と卑下している人を見た。昔は今よりもっとダメだとかどうのこうの言っていた。

 かく言う私も数年前は他者に対して相当自己卑下をしていた。私は弱いんです、というアピールだったのだろうか。今日、昔の私のような人を見た感想である。

 自分は天才だ、と言い張る者には関わりたくないと思う。何か特異な現象が起きない限り。自分はクズだ、と言い張る者には、天才自慢する輩よりかはましだが、やはり関わりたくないと思う。それらはあまりにも極端であり、鋭く、他者を傷つけているのではないか。よっぽど仲良し又は不仲でない限り、極端な発言は控えるのが良いと思う。

 しかし、極端な者が人類史に名を残すことも多い。これは、平凡すぎる者は他者と区別がつかなくなり、集団に常に属していないと身も心も(蛾のように)保護色になるということだろう。平凡すぎという極端に陥るのもまた良くない。

 天才と平凡の間またはクズと平凡の間ならば良いのだろうか。まあまあ頭いい、とか、ちょっとバカ、という人になれたとして、そここそが良いと考えることは、他の極端者や平凡者の存在を無視することになるかもしれない。これは別の意味で罪深い。

 何何な人である、ということ自体が必ずしも正しいとは限らないだろう。何人もの人からその人を見たら、見え方はそれぞれ違う。また、自分個人の中でも陰陽さまざまな感が渦めいていたり、あるいは無我の境地に達したりと、一定ではない。何何な人であるという決めつけが、私やその人やそれ以外の誰かに苦しみをもたらすかもしれない。自分はクズだと言っていた人と話していたIという人は、全然何とも思ってないような雰囲気であり、とりあえず他人と話すことに安堵感のようなものを抱いているのかもしれない。

 やはり自然体でいることが一番良い。自分を歪ませて虚偽の自分をさらすより、ただの自分を他者に見せてその他者から歪みを与えられるほうが、のちの自分の造形を美しくするかもしれない。しかし(材料の応力歪み曲線のグラフを見れば分かるように)、自分が破断してしまうと、その破片をなるだけ多く回収してさまざまな方法で修復しなければならないので、壊れそうだと認識したら人間集団と距離を取ることが求められるだろう。

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自分は〜〜だ、と決めつけることの不幸 島尾 @shimaoshimao

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