初恋

中野唯

第1話

 とても、綺麗だと思った。

 

 周りと比べて特別磨かれている訳じゃない。特別な装飾があるのでも、一際目立つ存在でもない。

 失礼な発言だという自覚はある。俺がこんなことを言ったと姉が知れば、恐らくそれはもう激しく怒り三日は口を聞いてくれなくなるだろう。


 それでも、彼女を一目見た瞬間に分かった。


「お久しぶりです。百合さん」


 終ぞタメ口で話しかける関係にはなれなかったが、敬語のままでもいいのではないかと開き直って此処へ来た。

 そうでもしないと、俺は自分を許せなくなってしまう。


「中々会いに来れず、すみません。姉が行けばそれでいいかなとも思いまして……」


 卑怯な言い草だ。優しいあの人であれば「なんで来なかったの」なんて頬を膨らまして、俺に詰め寄ってくれるのを見越してこう言ってるのだから。

 それでもやはり、とうにインクの切れたペンを今でも持っている俺が会うことは、到底許されないと思うのだ。


「俺、結構有名な会社入れたんですよ……って、姉ちゃんから聞いてるか。そういや、成人のお祝いで頂いたネクタイ、どうですかね。似合ってます?」


 自分からはあまり身に着けようと思わない、明るい青色。この場に於ては不適切であろうと、この人に会うのにこれ以外はあり得ない。

 俺が子供のころ水色を好んでいたのを覚えてくれていたのか、姉の前で「派手だなぁ」なんて憎まれ口を叩いて照れ隠ししたのを覚えている。

 無理に口角を上げたものだから思わず喉が絞まって、ネクタイどころか襯衣ごと握りしめて堪える羽目になった。


「結構……調子も良くてっ……自分で言うのもなんですけど、かっこいい大人ってやつ、やれてるんじゃ……ないかなって……」


 天気は快晴。暦の上では秋であるにもかかわらず、腕に掛けたジャケットすら煩わしく感じていた程の暑さはしかし。胸から込み上げる熱い奔流に搔き消されていた。

 一時は彼女を憎みすらした俺が、流していいものではないだろう。乾いた石畳に増える薄墨色の水玉模様は、ぼやけた視界でも鮮明に認識できた。


「多分、貴方の理想の男性……割と今の俺なんじゃないかなって……ははっ、調子乗ってますかね」


 なんとか堪えて顔を上げれば、思い浮かぶのは昔の彼女。

 当時の俺にとって五つ上のお姉さんというのは、親や学校の先生よりも大人で。姉と同い年なのに全く別の性格と考え方は、級友の外国人留学生よりも異質なモノで。有名な女優やアイドルよりも、素直な言葉をかける難易度が高い存在だった。


 それが大人になればどうだろう。女性にとっては大きな隔たりが各年代にあるのかもしれないが、男からしてみればその程度。

 高校から社会人に至るまで、幾人かと付き合っていたらしいことは姉から聞いている。嫉妬しなかったと言えば嘘にはなるが、どんな彼氏も長続きはせず不満は尽きない。写真を見る際は先入観に気を付けて判断しても、彼女の理想像には及ばない者ばかりであった。


 これなら叶うのではないかと思った。


 俺としても初めは第二の姉だと思い慕っていたし、本当の弟のように可愛がられていた自覚もある。だが逆に、学生の時分における五年の差はそれはもう甚大で、俺は彼女の弟にしかなれなかった。

 身長が伸びるよう気を使い、元々優れていた運動神経に感謝しつつ勉学にも励んだ。それでも幼い頃の印象は強かったのか、成人式を迎えた弟は男ではなかったらしい。

 であれば残すは経済力。彼女が三十歳になる前にある程度の貯えを作り、男女の関係を意識させる。


 そう考えていた折の訃報。姉から聞いたその瞬間は、衝撃で呆然とするばかり。

 だが冷静になった俺に溢れるは、驚くことに悲しみではなかった。

 これだけ想っている人がずっと近くにいながら、理想とは程遠い男に現を抜かしていたから。俺なら今までの恋人達のように不満は抱かせなかった、もっと幸せにしてやれた。

 身勝手で賎陋な感情が、どうしても止められなかった。


 無意識のうちに見下していた彼女の恋人は泣いていた。姉も、他の彼女の友人らも。

 乾いた頬で参列し線香を上げていたのは、俺一人。三年後の墓参りが初めてであるのも同様だろう。


「だいすきです、初恋でした」


 人生初めての告白は、口の中にのみ響くような小さな呟きにしかならず。気づけば俯き、合わせた両手をただ見つめるだけ。

 自嘲の笑みと共に大きくついた溜息を反動として立ち上がると、墓石の掃除に取り掛かった。足元の水玉模様にも水をかけて塗りつぶし、線香を上げ花を供え今一度手を合わせる。形式的な動作を行っている間は無心でいられた。


 立ち上がり懐からペンを取り出す。中学受験の合格祝いであったそれは、大人が持つには少々不格好な代物。

 元々はこれを置きにここまで来たというのに、女々しい弟の手は伸びてはくれない。


 息を吸い、大きく開けた口から吐き出す。不思議と陰鬱な気持ちは消え、穏やかな気持ちで燦々と照らす太陽を見ることができた。

 ペンを翳すと、傷のついた金具部分は今でも輝いていた。


 いつ、手放せるかな。

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初恋 中野唯 @n4k4n0yu1

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