白い花

無邪気な棘

白い花

白い小さな花がひっそりと咲いていた。


花はそっと、風に揺れた。


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2022年2月24日、凍てつく風がカイツ地方の荒野を吹き抜ける中、オワリヤ連邦の軍勢がイセミノウ共和国の国境を越えた。


空を切り裂く巡航ミサイルの咆哮が響き、遠くの地平線で主要都市が炎に包まれる。


オワリヤの指導者はこれを「特別軍事作戦」と呼び、カイツ地方に住むオワリヤ系住民の解放とイセミノウの「非ナチ化」を掲げていた。


しかし、イセミノウの民にとっては、それはただの侵略に他ならなかった。


夜が明けると、T90戦車とBMP3歩兵戦闘車両の重々しいエンジン音が大地を震わせ、15万人のオワリヤ軍がカイツ地方になだれ込んだ。


極超音速ミサイルが空を支配する一方で、地上では泥濘に足を取られた戦車が唸りを上げ、イセミノウの抵抗勢力が森や廃墟に身を潜めて応戦していた。


カイツ地方の小さな村に住む17歳のエリナは、家族と共に農家の地下室に隠れていた。


窓の外では、オワリヤ軍の戦車が街道を進み、土煙を巻き上げる。


ラジオからは「我々は解放者だ」と繰り返す声が流れていたが、彼女の心は疑念で揺れていた。


昨日、兄がイセミノウの民兵として戦場へ旅立ったばかりだったからだ。


炎に照らされた空を見上げながら、エリナは思った。


「この戦争は誰のためのものなのか?」


一方、オワリヤ軍の若き戦車兵、ヴィクトルは、T90の操縦席で額に汗を浮かべていた。


上官の命令に従い、カイツ地方の制圧を進めるが、砲撃で廃墟と化した村々を目にするたび、彼の信念は揺らぎ始めていた。


「これが正義なのか?」と自問しながら、彼は引き金を引く手を一瞬だけ止める事があった。


この戦争の行方はまだ誰も知らない。

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凍てつくカイツ地方の戦場に、新たな風が吹き始めた。


2022年2月末、イセミノウ共和国は国民に呼びかけた。


「我々の祖国は危機に瀕している。18歳から45歳までの全ての者に武器を取れ!」


動員令が下され、街角では涙を呑み込む母親が息子を送り出し、工場労働者が銃を手に戦線へと向かった。


若者も老人も、男女問わず、イセミノウの民は自らの土地を守るために立ち上がった。


一方、西側欧米諸国は迅速に動きを見せた。


会議室では首脳たちが地図を広げ、イセミノウへの支援を決定。


対戦車ミサイル「ジャベリン」や携帯型防空ミサイル「スティンガー」が次々と輸送機に積み込まれ、カイツ戦線へと送られた。


貨物機の轟音が夜空を切り裂き、武器の箱がパラシュートで降下する光景は、まるで希望の雨のようだった。


さらに驚くべきことに、国境を越えて義勇兵が集まり始めた。


ヤリエカの退役軍人、ウーランドの志願者、遠く日本からも来た若者。


彼らは「自由を守るため」と口々に語り、イセミノウの旗の下に結集した。


カイツ地方の森では、義勇兵たちが現地民兵と肩を並べ、オワリヤ軍の戦車を迎え撃つ準備を整えていた。


泥濘の中で対戦車ミサイルを構える彼らの瞳には、決意と恐怖が交錯していた。


エリナの村にも変化が訪れた。兄が去った後、彼女自身に徴兵の召集令状が届いたのだ。


17歳でまだ対象外だったはずが、戦況の悪化で例外は許されなかった。


母は泣き崩れ、父は無言で彼女に古びたライフルを手渡した。


「生きて帰れ」とだけ呟いて。


エリナは震える手で銃を握り、村を出てカイツ戦線の前線へと向かった。


そこで彼女が見たのは、義勇兵と地元民が混ざり合う混沌とした戦場だった。


遠くでT90戦車が砲撃を放ち、ジャベリンがそれを迎え撃つ。


爆発音が耳をつんざいた。


オワリヤ軍のヴィクトルもまた、戦況の変化を感じていた。


義勇兵の奇襲で部隊が混乱し、補給線が伸びきった彼らの戦車は燃料切れを起こし始めていた。


西側の武器で武装した敵は予想以上に手強く、ヴィクトルは初めて死の恐怖を味わった。


「俺たちは本当に勝てるのか?」


同僚の死体を見下ろしながら、彼の心はさらに揺らいだ。


カイツ地方の戦いは、もはやオワリヤとイセミノウだけのものではなくなっていた。

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時は12年前、2010年の秋に遡る。カイツ地方の空は灰色に染まり、冷たい風が枯れ葉を運んでいた。


イセミノウ共和国の国境に近いこの地で、突然の砲撃が静寂を切り裂いた。


イセミノウ側からのものとされる大砲の咆哮が続き、オワリヤ系住民が暮らす村々は恐怖に包まれた。


家屋が崩れ、煙が立ち上る中、人々は逃げ惑った。


だが、それだけでは終わらなかった。


正体不明の武装勢力がカイツ地方に現れ、オワリヤ系住民への迫害を始めた。


黒いマスクを被った彼らは、夜陰に紛れて家々を襲い、住民を連行した。


抵抗する者には容赦なく銃口が向けられ、ある夜には、村の広場で老人が射殺される姿が目撃された。


血が石畳を染め、叫び声が風に消えた。


オワリヤ連邦はこれを「民族浄化の兆候」と非難したが、イセミノウ政府は関与を否定し、「過激派の仕業」と主張した。


真相は霧の中だった。


数ヶ月後、事態はさらに混迷を極めた。


今度はカイツ側から反撃が始まったのだ。


正体不明の武装勢力がイセミノウ人を襲撃し、村々を焼き払った。


ある朝、川沿いの集落で134人が無残に殺害され、遺体が岸辺に打ち上げられた。


生存者は「カイツの復讐だ」と囁き、イセミノウ側は「オワリヤの工作員が裏で糸を引いている」と糾弾した。


双方の憎悪は深まり、カイツ地方は血と涙で塗りつぶされた。


この一連の事件は、2022年の「特別軍事作戦」の遠因となった。


オワリヤ連邦は「我々の同胞を守るため」と主張し、イセミノウ共和国は「カイツの過激派が我々を挑発した」と反論した。


だが、12年前の武装勢力の正体は依然として明らかになっていない。


あの砲撃と襲撃は誰の手によるものだったのか?


真相を知る者は沈黙し、歴史の影は戦争の炎をさらに煽っていた。


2022年、エリナが戦場で手に持つ古びたライフルは、かつて父が2010年の襲撃から家族を守るために使ったものだった。


彼女の瞳には、12年前の記憶が焼き付いている。


母が泣き叫び、村が燃える中、父が銃を手に立ち尽くした姿が。


一方、ヴィクトルはオワリヤ軍の訓練で「カイツの悲劇」を教え込まれていた。


カイツの同胞達の死が、彼に戦う理由を与えていたのだ。


だが、彼らが知らないのは、両者の記憶の裏に隠された真実だった。

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2010年の秋、カイツ地方で血が流された後、イセミノウ共和国のヤレスキー大統領は世界に向けて声を上げた。


焼け焦げた村の瓦礫を背に、彼は憤怒に震えながら宣言した。


「この悪辣非道な殺戮行為は、オワリヤ連邦による仕業である。我々の民を虐殺し、カイツを不安定化させるための策略だ!」


彼の演説は国際社会に波紋を広げ、イセミノウの国民は怒りに燃えた。


しかし、証拠は曖昧で、正体不明の武装勢力が誰に操られていたのかは依然として不明だった。


対するオワリヤ連邦のリューチン大統領は、冷徹な表情で反論を繰り出した。


首都の広場に集まった群衆を前に、彼は力強く語った。


「カイツ地方のオワリヤ系住民に対する迫害は、イセミノウの重大な戦争犯罪だ。我が同胞達が虐殺され、無垢な民が連行されたこの暴挙を、我々は決して許さない。断固として対決する!」


彼の言葉に、オワリヤの民は喝采を送り、国境に軍隊が集結し始めた。


その後、12年間にわたり、両国は非難の応酬を続けた。


カイツ地方では小競り合いが絶えず、緊張は高まる一方だった。


イセミノウは国境に防衛線を築き、オワリヤは軍事演習を繰り返した。


国際社会は調停を試みたが、双方の憎悪は収まるどころか増すばかり。


そして、時は流れ、2022年2月24日、ついに均衡が崩れた。


オワリヤ連邦は「特別軍事作戦」と銘打ち、イセミノウ共和国への全面侵攻を開始した。


リューチン大統領はテレビ演説でこう述べた。

「我々はカイツの同胞を解放し、イセミノウの非ナチ化を成し遂げる。これは正義の戦いだ。」


一方、ヤレスキー大統領は焼け跡の首都から叫んだ。


「オワリヤの侵略を許さない。我々は最後まで戦う!」


巡航ミサイルが夜空を切り裂き、T90戦車が国境を越えた瞬間、12年前の傷跡が再び血を流し始めた。


エリナは徴兵され、戦場でライフルを握りながら、父が語った2010年の記憶を思い返していた。


「ヤレスキーは我々を守ると言ったが、何も変わらなかった。」


と父は死ぬ前に呟いた。


その言葉が、彼女の心に重くのしかかる。


一方、ヴィクトルはオワリヤ軍の戦車の中で、リューチンの演説を信じて戦ってきた。


だが、カイツの廃墟で見た子供の遺体に、彼は初めて大統領の言葉に疑問を抱いた。


戦争は双方の指導者の意地と信念をぶつけ合う舞台と化していた。


ヤレスキーは西側の支援を頼りに抵抗を続け、リューチンは軍事力で全てを押し潰そうとする。


しかし、12年前の真相はまだ埋もれたままだった。

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2023年2月、戦争が始まってから一年が経とうとしていた。 


オワリヤ連邦の戦車兵ヴィクトルは、幾多の戦闘を生き延びていた。


T90戦車の操縦席で、彼は幾度も死の淵をかすめながらも、カイツ地方の泥濘を突き進んできた。


その日、雲一つない青空が広がり、敵からの攻撃も途絶えていた。


整備された戦車は順調に進軍し、エンジンの唸りが大地を震わせる。


ヴィクトルは初めて、束の間の安らぎを感じていた。戦争の喧騒から遠く離れたような、静かな瞬間だった。


小休止の命令が下り、戦車が停止した。


ヴィクトルは砲塔のハッチを開け、外の空気を吸い込んだ。


目の前には美しい緑の木々が広がり、鳥の囀りが風に乗り、青い空がどこまでも続いていた。


彼は疲れた身体を伸ばし、空を見上げた。


すると、上空に大きな鳥が悠然と飛んでいるのが目に入った。


ブゥーンという奇妙な音を立てながら、それは徐々に高度を下げてきた。


「珍しい鳥だな」と一瞬思ったその瞬間、ブゥーン!という激しいプロペラ音が耳をつんざき、鳥が急降下してきた。


次の瞬間、ヴィクトルとT90は激しい炎と爆風に包まれた。


自爆ドローン。


イセミノウ側が西側から供与された最新兵器だった。


金属の破片が飛び散り、戦車は大破。


地面には、上下に引き裂かれたヴィクトルの亡骸が横たわっていた。


血と油が混じり合い、緑の草を赤黒く染めた。


さっきまでの静寂は跡形もなく、鳥の囀りに代わって遠くの砲声が響き始めた。


ヴィクトルの部隊は混乱に陥った。


同僚は、燃え盛る戦車の残骸を見て立ち尽くした。


「ヴィクトルが!」


と叫んだが、言葉は風に掻き消された。


自爆ドローンの襲撃はこれが初めてではなく、イセミノウの抵抗勢力が新兵器を手に戦術を変えてきた証だった。


オワリヤ軍の進軍は順調に見えたが、こうした奇襲が彼らの補給線を脅かし、士気を削いでいた。


遠くカイツ戦線では、エリナが義勇兵と共に塹壕に身を潜めていた。


彼女の手には、ドローン操縦士から渡された通信機があった。


「目標を破壊した」と報告が入り、エリナは小さく頷いた。


ヴィクトルの顔を知らない彼女にとって、それはただの「敵の戦車」だった。


だが、戦争の歯車は確実に二人を交錯させ、そして一方を葬った。


リューチン大統領は前線の損失報告を受け「敵の卑劣な新兵器」と歯噛みした。


一方、ヤレスキー大統領は西側諸国にさらなる支援を求め「我々の反撃が始まった」と宣言した。


戦争は新たな局面を迎え、技術と犠牲が絡み合う泥沼へと突き進んでいた。

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2023年春、カイツ地方の広い草原は戦場と化していた。


地平線の向こうから、敵の榴弾砲の発射音が絶え間なく響き、時折、激しい轟音とともに砲弾がエリナの頭上を飛び越える。


塹壕に蹲る彼女の耳には、遥か後方の味方陣地に着弾する爆発音が届いていた。


戦場の至る所で、AK74やAK12のフルオート発射音がこだまし、敵と味方の銃撃戦が絶えなかった。


土と硝煙の匂いが鼻をつき、エリナは塹壕の底でじっと身を潜めていた。


隣にいたベテラン兵士のアンドレイが、ポケットから煙草を取り出した。


だが、火をつける前に手を止め、再びポケットに戻した。


エリナが顔を上げて言った。


「遠慮しないで。私なら大丈夫だよ。」


アンドレイは苦笑いを浮かべ、目を細めた。


「いや、なに。未成年の前で煙草なんて吸えねえよ。それに女性だしな。」


エリナは一瞬驚いた後、優しく微笑んだ。


「大丈夫だってば。それに私、今は女性じゃないよ。戦士だもの。」


その笑顔は、戦場の暗闇に一瞬の光を灯したようだった。


だが、その刹那、すさまじい閃光と爆風が二人を飲み込んだ。


敵の砲弾が塹壕に直撃したのだ。


土と破片が舞い上がり、耳がキーンと鳴る中、アンドレイは爆風で吹き飛ばされ、頭に傷を負った。


それでも奇跡的に生きていた。


彼はふらふらと立ち上がり、血と汗で濡れた顔を拭いながら叫んだ。


「エリナ!何処だ!!」


周囲を見回すと、少し離れた地面に、真っ赤に染まった肉塊が転がっていた。


アンドレイの足が震え、彼はその場に崩れ落ちた。


「そんな…。」


エリナは即死だった。


彼女の身体は砕け散り、ただ一つ、父から受け継いだ古びたライフルだけが、奇妙にも無傷で残されていた。


アンドレイは膝をついたまま、茫然とその銃を見つめた。


エリナの笑顔が脳裏をよぎり、彼の目から涙が溢れた。


「戦士だって言ったじゃないか…。」


彼の手が土をつかみ、悔しさと無力感が胸を締め付けた。


遠くでは榴弾砲の音が続き、戦場は容赦なく動き続けていた。


エリナの死は、ほんの一瞬の出来事でしかなかったが、アンドレイにとって、戦争の重みがさらに深く刻まれた瞬間だった。


イセミノウのヤレスキー大統領は前線の報告を受けていた。


「カイツ戦線でまた犠牲者か。」


彼の声は疲れ果てていたが、西側からの支援を頼りに反攻を続ける決意は揺らがなかった。


一方、オワリヤのリューチン大統領は、草原での進軍が停滞していることに苛立ちを隠せなかった。


自爆ドローンや砲撃で失った戦車と兵士。


その中にはヴィクトルも含まれていたが、彼にとってそれはただの数字でしかなかった。


エリナの父の銃は、アンドレイの手によって回収された。


それは後に、彼女の故郷の村に届けられることになる。


戦争はまだ終わりを見せず、草原の果てで血が流れ続けていた。

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2024年2月、ヤリエカ合衆国の首都は新たな時代の幕開けを迎えていた。


大統領選挙で「ヤリエカファースト」を掲げるウナラド=グランドが勝利し、彼は大統領執務室に堂々と腰を下ろした。


就任早々、彼は側近のマイケル=コーウィックを国家情報局(NIA)の長官に指名した。


ある日の午後、グランドはコーウィックを執務室に呼び寄せ、革張りの椅子に凭れながら口を開いた。


「マイク、例の件は順調かい?」


コーウィックは冷静に頷き、書類を手に答えた。


「えぇ、万事順調ですよ。オワリヤもイセミノウも、双方共に消耗しきっています。そろそろ潮時かと。」


グランドは目を細め、笑みを浮かべた。


「なら、他国も交えて和平交渉としゃれこむか。」


彼の声には、勝者の余裕が滲んでいた。


時は流れ、2024年4月。スイスのジュネーブに、冷たい春風が吹き抜ける中、オワリヤ連邦のリューチン大統領が専用機から降り立った。


険しい表情の彼は、戦争の重圧に耐えてきた指導者そのものだった。


一日遅れて、イセミノウ共和国のヤレスキー大統領が到着。


疲れ果てた顔に決意を宿し、彼はジュネーブの土を踏んだ。


同日、フランスとの首脳会談を終えたグランド大統領が、自信に満ちた笑顔で現地入りした。


スイスのシュヴァルツ首相が中立国のホストとして彼らを迎え、歴史的な和平交渉が始まった。


会議室では、緊張が空気を支配していた。


リューチンは「カイツは我々の同胞の土地だ」と主張し、ヤレスキーは「侵略者には何の権利もない」と一歩も譲らなかった。


グランドは両者の間を取り持ちつつ、「戦争の終結が地域の利益」と繰り返した。


シュヴァルツ首相は静かに耳を傾け、調停役に徹した。


交渉は平行線を辿り、時に罵声が飛び交い、机が叩かれた。


だが、半月に及ぶ長い議論の末、疲弊した双方はついに妥協の道を見出した。


2024年4月末、ジュネーブ協定が締結された。


オワリヤとイセミノウはカイツ地方を手放し、新たな独立国家「カイツ共和国」が誕生したのだ。


オワリヤ、イセミノウ、そしてカイツの三国は平和条約に署名し、地域の安定を約束した。


調印式で、リューチンは硬い表情でペンを握り、ヤレスキーは震える手でサインした。


グランドは満面の笑みで彼らを見守り、シュヴァルツは安堵の息をついた。


戦争は終わり、カイツの草原に再び静寂が戻った。


戦場で命を落としたエリナの故郷では、彼女の父のライフルがアンドレイの手で返された。


村人たちは和平の報せを聞き、涙を流しながらも未来を語り始めた。


アンドレイはエリナの墓前に立った。


「お前が戦士だったから、ここまで来れたんだ。」


と呟いた。


一方、ヴィクトルの死はオワリヤ軍に小さな波紋を残しただけだったが、彼の故郷では、母が息子の遺品を抱きしめて泣いていた。


ジュネーブ協定は、ヤリエカ合衆国の外交的勝利として世界に報じられた。


グランドは「平和をもたらした大統領」として称賛され、コーウィックは静かに次の計画を練り始めた。


しかし、カイツの独立が本当に安定をもたらすのか、それとも新たな火種を生むのか。


それはまだ、誰にも分からない未来だった。

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2024年5月、ジュネーブ協定からわずか一カ月後、カイツ共和国は新たな一歩を踏み出した。


暫定政権から民主的な政権へと移行するため、大統領選挙が実施された。


焼け跡と希望が交錯する中、投票箱が開かれ、親ヤリエカ派のヤマゾフが初代大統領に選ばれた。


彼の勝利は、カイツの未来をヤリエカ合衆国と結びつける運命を決定づけた。


選挙直後、ヤリエカのグランド大統領はヤマゾフを招き、首脳会談を開いた。


ジュネーブの冷たい会議室とは異なり、今回は温かな笑顔と握手が交わされた。


密室での交渉の末、二人は重大な合意に達する。


カイツが誇る豊富なレアアース。現代技術に不可欠な天然資源。を、優先的にヤリエカに供給するというものだった。


グランドは満足げに頷き、ヤマゾフは新国家の存続を賭けて署名した。


その裏で、動きが始まっていた。


レアアース鉱山を「警備」する名目で、ヤリエカの国家情報局(NIA)から工作員と戦闘員がカイツに送り込まれた。


彼らは黒い装備に身を包み、静かに鉱山地帯を掌握した。


その姿は、12年前の2010年にカイツ地方を襲った正体不明の武装勢力と瓜二つだった。


オワリヤ系住民を連行し、イセミノウ人を虐殺したあの影。


全てはヤリエカの仕掛けた通りになった。


戦争を煽り、双方を疲弊させ、カイツを独立へと導いた陰謀の果てに、彼らは資源と支配を手中に収めたのだ。


ヤリエカは巧妙に仕組まれた戦争の真の勝利者だった。


グランドは執務室で葉巻を燻らせ、コーウィックは冷たい目で次の計画を見据えた。


リューチンは敗北感に苛まれ、ヤレスキーは和平の裏切りを知らずに息をついた。


戦死したヴィクトルは自爆ドローンに散り、エリナは砲弾に砕かれたまま、真実を知ることはなかった。


アンドレイがエリナの墓に供えた父のライフルは、ただ静かに錆びていくだけだった。


かつて戦場だったカイツの草原には、焼けただれた土と荒廃が広がっていた。


だが、その片隅に、白い小さな花がひっそりと咲いていた。


風に揺れるその花は、血と涙で染まった歴史を見届けた唯一の証人だった。


戦争の犠牲者たちが眠る大地で、花はただ黙って揺れていた。


それはまるで、知られざる真実を語る最後の声のようだった。


(終)

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この物語をウクライナで命を落した、ロシアの人々、ウクライナの人々、そして、全ての人々に哀悼の意を表し、ここに捧げる。



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