第20話(後編)――「アウレリア島の暮らしとコヨーテの夜」

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章②)の【登場人物】

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章第20話)【作品概要】です。

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(1156年9月中旬の朝。アウレリア島ログハウス)


 最初の夜が明けた。アウレリア島の朝は、海の匂いから始まる。


 ラフィーナが目を覚ますと、鼻先にふわりと塩と潮の香りが入り込んできた。窓の外からは、波が砂を撫でるやわらかな音と、低く鳴く海鳥の声が聞こえる。ログハウスの天井は丸太の筋がむき出しで、夜の間に温まった木の匂いが、まだ部屋の中に残っていた。


 寝台から足を下ろすと、素足に板の冷たさがじかに伝わる。板の隙間には細かな砂が入り込んでいて、歩くたびにしゃり、と小さな音がした。昨夜、慌ただしく運び込んだ荷物が部屋の片隅に積まれている。杖と、アレクのマントと、胸元ではガーディアン・コアが心臓の鼓動に合わせて、微かにひんやりと震えていた。


 外に出ると、眩しい光が一気に目に飛び込んでくる。海面の反射が、まるで砕けたガラス片を撒き散らしたようにきらきらと輝いていた。鼻の奥にまで入り込む潮の匂いの向こうに、ほんのりと甘い草の香りが混じっている。裏手の牧場から、草を噛む音と、牛か羊かわからない低い鳴き声が聞こえた。


「おはよう、ラフィーナ」


 井戸のところで、すでにカランが上半身裸で釣瓶を引いていた。汗と潮風と革帯の匂いが混じって、野営地とは少し違う、どこかのどかな匂いになっている。彼の胸元でも、銀の鎖に下げたガーディアン・コアが淡く光っていた。


「おはよう、カラン。水、冷たい?」


「冷たすぎて歯がきしむくらいだ。けど目は覚める」


 カランは笑い、桶から両手ですくった水をそのまま頭からかぶった。冷水が肌を走る音がばしゃりと響き、飛び散った滴がラフィーナの頬にもかかった。塩気のとれた清々しい水の匂いが、鼻の奥を通り抜ける。


 少し遅れて、ヤニがあくびを噛み殺しながらログハウスから出てくる。髪は布でざっくり束ねただけで、いつもの軽装の上に、今日は牧場用にと見つけた古い麻の上着を羽織っていた。


「おはよう。ねえ、聞いた? 夜明け前に『ワォン、ワォン』って変な吠え声」


「聞いた。あれはコヨーテだな」カランが海の向こうを顎で示す。「本土のと少し声が違うが、多分同じ類いだ」


「近くに来たら、畑を荒らされる前に追い払わないとね」


 ヤニは表情を引き締め、弓を持つ指を軽く伸ばした。皮の弦に残る感触が、まだ指先に残っているようであった。


 朝食は、島にあった食料庫のおかげで、それなりに人間らしいものになった。ログハウスの脇の石造りの小屋には、干し肉と干し魚、干し草の束、塩の俵、乾燥させた豆や穀物がきちんと積まれていた。


 ラクシュミほどではないが、ヤニは火を起こし、鉄鍋に水を張って豆と麦を入れた。ぐつぐつと煮立つ音が、静かな朝に小さなリズムを刻む。鍋から立ち上る湯気は、豆の香ばしさと塩の匂いを運んでくる。ラフィーナが味見をすると、舌の上には素朴な甘みと、少しだけ足りない香りが残った。


「島の草で、何か香りづけできないかな」


「じゃあ、探してみよう」ラフィーナはそう言うと、畑の隅へ駆けていった。


 畑には、見慣れない葉の野菜がいくつも植えられていた。葉を一枚ちぎって指で揉むと、香りがむっと立ち上がる。胡椒に似た辛みのあるもの、レモンに似た爽やかな香りのもの。ラフィーナは鼻をひくひくさせながら、いくつか摘んで持ち帰った。


 刻んだ葉を鍋に入れると、湯気の匂いが一気に変わる。さっきまでの素朴な香りに、爽やかな苦みと刺激が加わり、腹の奥からぐう、と音が鳴った。


「うん、こっちの方がずっとおいしい」ラフィーナは目を輝かせた。


 木椀に注がれたスープは、見た目こそ地味だが、口に含むと優しく、しかし確かな力をくれた。豆のほくっとした噛み応え、麦のやわらかな歯ごたえ、香草のほろ苦さ。塩加減もちょうどよく、飲み込むたびに、喉の奥を温かな筋が通り抜けていく。


「こういう飯の方が、長く戦える気がするな」カランは椀を傾けながら言った。「油っぽい肉ばかりだと、剣が重くなる」


「肉は夜のお楽しみに残しておきましょう」ヤニが笑った。


 日が高くなると、牧場と周囲の見回りが始まる。 


 牧場には牛が二頭、羊が十数頭、角の小さな山羊が三頭、のんびりと草を食んでいた。近づくと、獣たちは一瞬ぴくりと耳を立てたが、すぐにまた草に鼻を戻す。人に慣れているのか、逃げ出そうとはしない。毛並みには潮風と草の匂いが混じり、撫でると指の間にほのかに脂が残った。


「この牛、搾ればミルクが出るはずだ」カランが手のひらで乳房の重みを確かめる。「搾り方までは知らんが」


「やってみるから、押さえていて」ラフィーナはスカートの裾をからげ、木桶を抱えてしゃがみ込んだ。


 手で乳房を包み、下へ絞ると、ぴゅっと白い筋が桶の底に当たる。軽やかな音とともに、甘い乳の匂いが立ち上がった。一度コツを掴むとリズムは早くなり、桶の中で白い液体がだんだんと深くなっていく。ラフィーナの前掛けには、跳ねたミルクの滴がいくつも白い点を作った。


「うわ、手があったかい」ラフィーナは笑いながら手を開いた。掌には、牛の体温がじわりと残っていた。


 午前中は、畑の草取りと、牧草の刈り集め、木柵の修理で終わった。汗は背中を伝い、布の下で肌に張りつく。土と汗と獣の匂いが混じった、自分たちなりの仕事の匂いが、三人の周りに薄く漂った。


 島の空気は甘いだけではない。午後になると、それは牙をむく。


 その日の夕暮れ、最初のコヨーテの群れが現れた。


 赤く染まり始めた空の下、牧場の外れから、細く長い遠吠えが聞こえてくる。「ワォン、ワォン」と、少し甲高く鼻にかかった声である。皮膚の裏側をなぞるようなあの声に、羊たちが一斉に顔を上げた。草を噛む音が止まり、空気がぴんと張り詰める。


「来たな」


 カランは腰の剣に手を伸ばし、柵のそばに歩み寄った。ラフィーナは胸元のガーディアン・コアを握りしめ、ヤニは無言で弓を手に取った。指先が弦に触れると、さっきまでの牧場の娘の顔が消え、狩人の目になる。


 低い藪の陰から、灰色の影がひそりと姿を現した。コヨーテはオオカミより一回り小さく、痩せているが、目はぎらぎらと光っている。口許からは唾液が糸を引き、鼻先をひくひくと動かしながら、羊の匂いを味わっていた。


「数は……五、いや六」ヤニがささやいた。「先に頭を落とす」


 弦が鳴る音は一度きりだった。ひゅ、と空気を裂く音の後、群れの先頭のコヨーテがくぐもった悲鳴をあげて倒れ込む。矢は目と目の間、頭蓋の付け根に深く突き刺さっていた。血の匂いが一気に拡がり、湿った鉄のような香りが鼻の奥を刺した。


 残りのコヨーテたちは、驚いて一歩退いたが、そのまま逃げはしなかった。むしろ唸り声を低く深くした。背中の毛を逆立て、牙をむき出しにして、じりじりと左右から回り込もうとしている。


「いい度胸だな」


 カランは木柵を飛び越え、前に出た。剣を半身に構え、足裏で土の固さを確かめる。足元の草は血を吸って湿り、独特の青臭さと鉄の匂いを混ぜ合わせていた。


「ラフィーナ、ここから先、柵の内側には一匹も入れるな」


「わかった」


 ラフィーナは小さく頷き、杖を握り直した。ガーディアン・コアが胸元で冷たく光る。その冷たさが、逆に心を落ち着かせた。


「光は我が眼に、護りは我が腕に」


 守護者との戦いで覚えたばかりの詠唱を口にすると、杖の先に小さな光の盾がいくつも生まれた。コヨーテの足元に滑り込むように浮かび上がり、動きをわずかに鈍らせる。眩しさに目を細めた一匹が、距離感を誤ってカランの間合いに踏み込んだ。


 銀の刃が横薙ぎに走る。骨を断つ手応えと共に、硬いものを斬った感触が腕に響いた。獣の体が地面に叩きつけられ、土が湿った音を立てる。熱い血飛沫がカランの頬をかすめ、海風に乗って鉄錆の匂いがまた強くなった。


 二匹目が横から飛びかかる。が、ヤニの矢がその耳の根元を貫き、空中で体勢を崩した。落下したコヨーテは、ラフィーナの足元まで転がってきた。黄色がかった眼が、まだ完全には死んでいない光で彼女を睨む。


 喉の奥がきゅっと縮こまるような感覚。それでもラフィーナは目をそらさなかった。杖を構え、残った一匹の前に立ちはだかる。


「ここからは、入れない」


 低く呟いた瞬間、足元の光の盾が一枚、前にせり出した。突進してきたコヨーテがそれに正面からぶつかり、鈍い音を立てて弾き飛ばされる。苦鳴と共にその身体が宙を舞い、地面に背中から落ちたところへ、カランの剣が静かに突き立った。


 静寂が戻ったとき、耳に入ってきたのは、羊たちの不安げな鼻息と、海の方から絶え間なく続く波の音だけであった。喉にはまだ血と汗の味が残っている。ラフィーナは深く息を吐き、胸元のコアにそっと触れた。冷たさはそのままだが、どこか誇らしげに光っているように見えた。


「上出来だ」カランが笑った。「柵の内側、傷一つない」


「コヨーテの肉って、食べられるのかな」ヤニが弓を肩に掛け直しながら言う。「匂いが強そうだけど」


「試してみる価値はあるな。だめなら、干して他の獣の餌にすればいい」


 夕食の時間、ログハウスの中は煙と香りで満たされた。


 コヨーテの肉は、確かに匂いが強かった。皮を剝ぎ、脂身を徹底的に削ぎ落とし、香草と塩、少しの酸っぱい果汁に長く漬け込む必要があった。火にかけると、最初は鼻を突くような獣臭が立ち上るが、やがて香草と脂の焦げる匂いが勝ち始める。煙は目にしみるが、腹は抗いがたく鳴る。


 鉄串に刺した肉が、炭火の上でじゅうじゅうと音を立てる。脂が落ちるたびに火が一瞬大きくなり、そのたびに香りが一段階濃くなる。肉の表面にはこんがりとした焼き目がつき、内側はまだ柔らかさを残している。


「いただきます」


 三人が同時に手を合わせ、肉を口に運んだ。


 最初のひと噛みで、舌の上に獣の強さが広がった。少し筋っぽく、牛や羊より荒々しいが、香草と塩がその荒さを包み込んでいる。噛むごとに肉汁がじわりと溢れ、苦みと旨みが混ざり合った濃い味が喉を通り過ぎていった。


「悪くない」カランが短く言った。「少なくとも、腹を壊す味じゃない」


「これをおいしいと思えるかどうかが、冒険者の境目かもね」ヤニが笑い、もう一切れ串から引き抜いた。


 パン代わりに、畑から抜いてきた根菜を薄く切って炙ったものも並ぶ。表はぱりっと割れ、内側はほっくりと甘い。その甘さが、獣肉のしつこさを和らげてくれた。昼間に搾ったミルクで作った即席の温かい飲み物は、表面に薄い膜を張り、口当たりは柔らかい。脂の多い肉の後に飲むと、舌を優しく洗い流してくれる。


 外では、夜の海が静かにうねっている。波が砂を撫でる音、遠くの岩に当たって砕ける音。時折、どこかでまたコヨーテが吠えた。だが、その声はもう、さっきほど胸の奥をざわつかせはしなかった。


「しばらくは、こんな暮らしが続くのかな」


 ラフィーナが串の先を見つめながら呟いた。指先には昼の土の感触がまだ残っている。爪の間には、牧場の草をちぎったときの青い色が少しだけ残っていた。


「悪くないだろう」カランが言う。「朝は畑、昼は牧場、夕方は獣退治。夜は腹いっぱい食って寝る」


「それに、魔物もいるなら、退屈はしなさそうね」ヤニが目を細める。「コヨーテだけじゃなくて、森の奥のやつらも、そのうち顔を出すはず」


 ラフィーナは胸に下げたガーディアン・コアに触れた。冷たい石の感触の奥に、ほんの少しだけ、守護者たちの戦いの記憶が残っているような気がした。それは恐怖ではなく、自分が一度、生きて勝ち抜いたという確かな手応えである。


「ここで、もっと強くなれる気がする」


 ラフィーナは小さく笑い、窓の外の夜の海を見つめた。 


 波の匂いと、焚き火の煙、獣肉の香りと搾りたてのミルクの湯気。五感のすべてが、この島の暮らしを刻みつけていく。アウレリア島での日々は、休息でありながら、次の戦いへ向けた静かな鍛錬でもあった。

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