第十二章――「ラフィーナの武者修行」

第1話(前編)――「カカオの森と光の盾」

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章②)の【登場人物】

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十二章第1話)【作品概要】です。

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(1156年9月下旬の朝。アウレリア島ログハウス)


 朝の潮風が屋敷のテラスを抜けていき、食卓の果物の香りと混じった。朝食を終えたラフィーナは、最後の一口のパンを飲み込むと椅子から立ち上がった。


「アレクが言っていたカカオの木、そろそろ実り頃ね。行きましょう、カラン、ヤニ」


 3人は籐の籠を肩にかけて、アウレリア島の奥へと歩き出した。湿った土を踏むたび、足もとから柔らかい抵抗が返ってくる。空気は重たく、肌にぴたりと貼りつくような熱気がある。遠くで、見たことのない鳥の高い鳴き声が、森の奥行きを知らせていた。


 しばらく進むと、湿った緑の壁の向こうに、黄や橙、赤紫の楕円形の実が、木の幹にびっしりと張りついた一帯が現れた。幹から直接ぶら下がるカカオの実の群れは、どこか異国の装飾のようである。


「うわ……これ、全部?」


 ヤニが目を丸くする。手を伸ばして実をつかむと、表面はごつごつとした筋に覆われ、指先に湿った苔の粉がうつった。茎をひねり切ると、ぷつりと繊維がちぎれる感触が掌に伝わり、切り口から白い汁がじわりと滲み出る。


 ラフィーナも籠を足もとに置き、黙々と実をもぎ始めた。重さのある実が腕にずしりとのしかかる。ひとつ、ふたつと籠に放り込むたび、乾いた音とともに、かすかに青くて渋い香りが立ちのぼる。それは、ローストされる前のカカオが持つ、生の苦味の予告のようであった。


「だいたい……1人100個は採ったわね」


 汗で襟足に張りついた髪をかき上げながら、ラフィーナが周囲を見渡した。カカオの木の列が途切れた先、湿った空気の中に、ぽっかりと四角い影が浮かんでいる。


 そこだけ、葉の色が不自然に薄い。蔦に半ば呑み込まれた石造りの祠であった。苔むした石段は雨に洗われて黒光りし、開け放たれた入口から、ひやりとした空気が流れ出てくる。島の蒸し暑さとは別の、地下室のような冷たさである。


「……感じるわね、あの“向こう側”の気配」


 ラフィーナは籠を入口脇に置き、足音を殺して祠の中へ入った。


 内部は狭いが、意外なほど明るかった。天井の割れ目から差し込む光が、中央の石台の上にだけ白く降り注いでいる。そこに置かれていたのは、見覚えのありすぎる物だった。


 エターナル・オーブの入口にあったものと同じ、あの地図である。滑らかな黒い板の表面に、大陸と海、山脈と森が、淡い光を帯びて浮かびあがっている。指先を近づけると、かすかに静電気のような震えを感じた。


「エルデン地方……ソゴル……ドラゴンの森」


 ラフィーナはゆっくりと息を吸い、知っている地名を探していった。指先が、濃い緑で塗られた一点の上で止まる。“ドラゴンの森”という古い文字が浮き上がり、かすかに赤みを帯びて脈動した。


「行くのですか?」


 背後でカランが問う。ラフィーナは振り向かず、唇だけで笑った。


「ええ。森の主が誰か、確かめておかないとね」


 指が地図に触れた瞬間、板の表面が水面のように揺らめき、ひやりと冷たい感触が皮膚を呑み込んだ。足元がふっと軽くなり、土の匂いも熱気も一度に遠ざかる。


 視界が暗転し、次の瞬間、3人は別の大地に立っていた。


 そこは、湿ったアウレリア島とは対照的な、重い森の沈黙に支配された場所であった。頭上には高く伸びた針葉樹の枝が重なり合い、空の色は細い隙間から青黒く覗くだけである。足もとには、黒く焦げた倒木がいくつも横たわっていた。


 鼻を刺すのは、湿った土と腐葉土の匂いだけではない。どこかで火が消えたばかりのような焦げた匂いと、鉄のような金属臭が混じっている。舌の奥に、古い灰が張りついたような苦味さえ感じられた。


「……前に来た森とは違う。静かすぎる」


 カランが囁く。鳥も、虫も鳴かない。聞こえるのは、3人の靴底が落ち葉を踏みしめる音と、遠くで時折、木が軋むような低い音だけである。


 森の奥へと進むにつれ、焦げ跡は濃くなった。木の幹には深く抉られた爪痕が並び、その表面は熱でガラス質に変わっている。足元の土もところどころ黒く溶け、凍った波のように固まっていた。


「巨人の足跡は……見当たらないな」


 ヤニが、以前の戦いを思い出すように呟く。その代わりに感じるのは、もっと重く、古いものの気配であった。


 やがて、森がふいに開けた。


 円形に焼け落ちた空間の中心に、それはいた。


 大地そのものが形を持ったかのような巨体である。黒鉄色の鱗が重なり合い、ところどころに暗い赤の筋が走っている。首は長く、しなやかに曲がり、金と琥珀を混ぜたような瞳が3人を見下ろしていた。


 ドラゴン。


 息を吸うたび、その胸郭の奥が赤く灯り、吐息とともに、鼻孔から赤い火花が砂煙のように散った。周囲の空気が、じりじりと皮膚を焼く。


「森の主……らしい歓迎ね」


 ラフィーナは、喉の奥が乾くのを自覚しながら、耳たぶにそっと触れた。そこには、硬い感触が潜んでいる。指先でつまみ出すと、細い針金ほどの長さの棒が、するりと耳の中から抜け出した。


「伸びて」


 小さく囁いた瞬間、棒は空気を吸い込むように伸びた。ミスリルで覆われたエルクウッドの芯が、一息でラフィーナの身長より少し長い棒へと変わる。銀青色の表面が、森の薄い光を冷たく弾き返した。


 ラフィーナは、その棒を杖のように前へ構えた。掌に汗がにじみ、木と金属の混ざった感触がやけに生々しく伝わる。


「右から行く。ヤニは左、挟むぞ!」


 カランが叫ぶと同時に地面を蹴った。ヤニも無言で相槌を打ち、槍を低く構えて走る。ラフィーナは後方に位置を取り、伸ばした棒の先端をドラゴンへ向けた。


 彼女は、冷気と光の混じった魔術の矢を連続して放った。矢は棒の先端からほとばしり、空を裂いてドラゴンの顔を目がけて飛ぶ。しかし、鋭く光ったはずの一撃は、鱗の表面をかすめて散っただけだった。金属同士が打ち合うような甲高い音が森に響く。棒の長さは、最初に伸ばしたままほとんど変えていない。手元の感覚に必死でしがみつき、如意棒の伸び縮みを活かす余裕まではなかった。


「硬すぎる……!」


 カランの刃が、ドラゴンの前脚に食い込んだ瞬間も、手応えは石の表面を削ったときに似ていた。火花が散るが、傷は浅い。ヤニの槍も、筋肉の層に届く前に、高密度の鱗に弾かれてしまう。


 ドラゴンは鬱陶しげに首を振り、その巨大な翼を軽く広げた。生暖かい風が押し寄せ、焦げた木の匂いと共に、3人の顔に吹きつける。


 次の瞬間、森の空気が変わった。


 音が急に遠ざかり、世界から一度に色が抜けたように感じられた。ドラゴンがゆっくりと頭を反らしていく。胸の奥の赤い光が膨らみ、喉の辺りから、低い唸り声と共に、空気が渦を巻き始めた。


「下がれ!」


 ラフィーナが叫び、反射的に棒を片手で握り直しながら、空いた手を胸元のガーディアン・コアに当てた。冷たい石が指先の下で震える。


「光は我が眼に、護りは我が腕に!」


 詠唱と同時に、足元から光の板がいくつも立ち上がった。円盤状の小さな盾が重なり合い、3人の前面から頭上、左右へと滑り出していく。やがて半球の殻のように繋がり、3人をすっぽりと包み込んだ。薄い膜の内側の空気が、かすかにひやりと変わる。


 火ではなかった。


 それは、火と風がねじれ合って一本の奔流になったものだった。


 轟音と共に吐き出された火の嵐は、ただ前に伸びるだけでなく、左右からも巻き込むように広がり、森全体の空気を巻き上げていく。熱の波が盾の外側を舐め、周囲の倒木が一瞬で白く燃え上がる。樹皮が破裂して弾け飛ぶ音が、炎の壁の向こうから連続して響いた。


 先頭の光の盾に、火の奔流がぶつかった。


 表面が一瞬で真紅に染まり、蜘蛛の巣のようなひび割れが走る。砕け散った破片のすぐ後ろから、次の光の盾がせり出して重なり、また衝撃を受け止めた。何枚もの盾が次々と生まれては砕け、砕けては重なり、半球の内側だけが、辛うじて炎の直撃を免れていた。


 それでも、熱は容赦なく染み込んでくる。


 肌の上を細かい針で刺すような熱さが走り、髪の先がじりじりと縮れていく。吸い込んだ空気は熱く、喉の奥が焼けた鉄を押しつけられたようにひりついた。盾越しの光は白に近い橙色で、視界の端が焼かれるように眩しい。


「くっ……!」


 ラフィーナの両腕は痺れ、棒を握る指先が震え始めていた。光の盾は意志の延長であり続ける限り再生するが、そのたびに魔力と体力がごっそりと削れていくのが分かる。棒の内部を走っていた雷の気配も、熱に押し込まれるように細くなっていく。今、攻撃に転じて矢を放てば、その瞬間に盾の層が薄くなる。そうなれば3人まとめて飲み込まれる、と全身が警鐘を鳴らしていた。


「ラフィーナ!」


 背後から、カランが低く叫ぶ。声は焦っているが、まだ落ち着きを失ってはいない。


「攻めに出られそうか?」


「今は無理。守るだけで手一杯……棒の長さをいじっている余裕もない。このままじゃ、じりじり削られて終わるだけ」


 唇が乾いて、言葉の端がひび割れる。ラフィーナは一度目を閉じ、熱い空気を無理やり肺に吸い込んだ。胸が焼けるように痛む。


 ここで無理に攻撃に手を回すか、それとも。


 喉の奥に、別の選択肢が浮かんだ。


「カラン、ヤニ。いったん退くわ」


「退く? こんな中で、どこへ?」


「アウレリアに。一度戻って……あの火の嵐に対抗できる術と、棒の扱いをちゃんと考える。ここで無駄死にするより、ずっといい」


 ラフィーナは空いている方の手を胸元に押し当てた。ガーディアン・コアの冷たさが、炎の熱に逆らうように静かに脈打っている。


「アウレリア島に、一度戻して。次は、ちゃんと攻め手を持ってくるから」


 願いというより、命令に近い思いを、ラフィーナはコアと地図の両方に向けて叩きつけた。


 その瞬間、光の盾の内側、足もとから別の光が立ち上がった。炎の赤とはまったく質の違う、白金色の柔らかな輝きである。足元の地面がふっと軽くなり、世界の底が裏返るような感覚が全身を駆け抜けた。


 焼ける熱さと、氷のような冷たさが一瞬にして入れ替わる。耳を塞がれたように音が遠のき、視界の端で光の盾と火の嵐が、一緒にほどけていくのが見えた。


 次に感じたのは、冷たい石の感触であった。


 ラフィーナは、湿った石床に頬を押しつけた姿勢で目を覚ました。喉がひりつき、咳をするたび、肺の奥から煤の味がこみ上げてくる。


 祠の中である。


 さきほど自分が手を伸ばした石台が、すぐ目の前にあった。天井の割れ目から差し込む光が、うっすらと煙った空気を照らしている。胸元のガーディアン・コアは、まだかすかに熱を帯びていた。耳たぶの内側には、再び短く縮んだエルクウッドの棒が、ひんやりとした重みを戻している。


「……戻ってこられた、のね……」


 掠れた声で呟きながら、ラフィーナはゆっくりと身体を起こした。腕の皮膚は赤く腫れ、ところどころに白く浮いた水泡が見えた。触れると、鋭い痛みが走る。ドレスの袖は焦げて裂け、焼けた布の端から、まだかすかに焦げ臭さが立っている。


 少し離れたところで、カランとヤニも倒れていた。カランの髪は先端がばっさりと焦げ落ち、ヤニの頬には、火傷の赤い跡が斜めに走っている。どちらも意識はあるが、起き上がるたび、痛みに顔を歪めた。


「カラン、ヤニ……生きてる?」


「……なんとか、な。死んでたら返事もできない」


 カランが冗談とも本音ともつかない声で返す。ヤニは息を詰まらせながら、祠の入口のほうを顎で示した。


「見てください……カカオ、ぐちゃぐちゃです」


 入口の脇に積んでおいた籠は、火の嵐の影響を受けなかったらしいが、3人が転移の衝撃でひっくり返り、床に色とりどりの実が転がっている。割れた実から、甘酸っぱい果肉の匂いが強く立ちのぼり、焦げた布と肌の匂いと混じり合っていた。


 ラフィーナはしばらく、その匂いを嗅ぎながら呼吸を整えた。


「さっき、『一度戻して』って願ったわね。あの瞬間、足もとが抜けるように軽くなった……あの森は、わたしたちが退きどきを選べる仕組みになっているのかもしれない」


 自分の判断で戦場を離れたのだと理解した瞬間、安堵と同時に、じわりと悔しさが胸の奥に広がった。


 ドラゴンの鱗には、ほとんど傷ひとつついていなかった。防御も攻撃も、こちらの想定を軽々と上回っていた。それでも、光の盾がなければ、今ごろ自分たちは形も残らず灰になっていただろう。


 何より、自分はエルクウッドの棒を持て余していた。伸び縮みする利点も、内側に宿った雷も、ただ「長い杖」として振り回しただけである。あの巨体の懐に踏み込むでもなく、間合いをずらすこともできなかった。


「火の嵐に対抗できなければ、あそこでは何も始まらない。あれは、ただの炎じゃない。風も、森の空気も、一緒に飲み込んでいたわ」


 ラフィーナは、火傷で赤く腫れた自分の腕を見下ろしながら、静かに言った。盾越しの熱だけでこの有様なのだ、と遅れて恐ろしさがこみ上げる。


「次に行くときまでに、あの嵐を削る術を探す。水でも氷でもいいし、光の盾をもっと厚く、流れに差し込む楔みたいに編み替えてもいい。エルクウッドの棒も、間合いを自在に変えられるように体に叩き込む。それから……あの炎そのものを逆に編み替える方法を」


 痛みで震える指先で、ラフィーナは石台の縁をそっとなぞった。まだ地図は沈黙している。


 外からは、アウレリア島の湿った風と、どこか呑気な鳥の鳴き声が流れ込んでくる。ここが現実であり、さっきの灼熱が“向こう側”であることを、肌の火傷がじりじりと教えていた。


 3人はしばらく、祠の冷たい空気に身を預けた。息をするたび肺が痛み、動くたびに皮膚が軋んだが、その痛みひとつひとつが、次の戦いへの課題を刻み込んでいくようであった。


「今は退く。けれど、あの森の主は必ず倒す。ソゴルのドラゴンを越えなければ、この先には進めない」


 ラフィーナはそう心の中で固く誓い、焦げた袖を握りしめた。火の嵐の記憶は、まだ耳の奥で轟いている。それを恐怖ではなく、準備のための記録として焼き付けること。それが、自分の意志でいったん引き上げ、未熟な棒の使い方を思い知らされた今日の戦いから掴み取れた、唯一の戦利品であった。

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