第20話(前編)――「ガーディアン・コアと無人島の朝」

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章②)の【登場人物】

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章第20話)【作品概要】です。

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(1156年9月中旬の朝。アウレリア島ログハウス)


前日の朝、

 石畳を震わせるような重い足音が、薄暗い回廊の奥から近づいてきた。

 湿った空気が肌にまとわりつき、古い苔と錆びた鉄の匂いが鼻を刺す。エターナルオーブの入口を守る最初の守護者が、闇の膜を裂くように姿を現したのである。


 黒曜石の鎧をまとった巨人が3体、天井ぎりぎりの高さでこちらを見下ろしていた。眼窩に埋め込まれた青い魔石が、脈打つように明滅している。鎧の継ぎ目からは、熱い風がすうっと漏れ出し、焦げた油のような匂いが漂っていた。ラフィーナの喉はひどく乾いているのに、口の中には血の味がじわりと広がっていた。


 ラフィーナは手の中の杖を握り直した。滑らかな銀木の表面が汗でじっとりと湿っている。「手が震えている」と自覚した瞬間、指先がいよいよ強張った。胸の奥で、心臓が小鳥のように暴れている。けれど、背中にはアレクから託されたマントの布の感触がある。それだけが、足元を踏みしめる力をくれていた。


「ラフィーナ、右のやつは俺がやる。真ん中は頼んだ」

 前に出たのはカランである。陽に焼けた腕の筋肉が、剣を抜いた瞬間に生き物のように盛り上がった。鋼の刃が鞘を離れる音が、乾いた空気の中で高く鳴り、ラフィーナの背筋を一瞬だけしゃんと伸ばした。


「左は任せて。あの目、抜いてやるから」

 ヤニが軽く笑い、弓弦を指先で弾いた。ぴん、と張り詰めた弦の音が耳に心地よく響く。その身は風そのもののようである。黒髪がひと揺れし、足音をほとんど立てずに影から影へと滑り込んだ。


 次の瞬間、守護者たちが一斉に動いた。石畳を叩き割るような一歩ごとに、床が微かに跳ねる。ラフィーナの足裏には振動がじかに伝わり、土踏まずがじんと痺れた。巨人の振るう黒鉄の大斧が空気を裂き、生暖かい風が頬を撫でていく。わずかに遅れて、耳を切り裂く轟音が響いた。


「ひとつ、息を吸って」

 ラフィーナは自分に言い聞かせるように息を吸い込み、胸いっぱいに冷たい石室の匂いを詰め込んだ。湿った壁、古い蝋、遠くの水音が入り混じった地下の匂いである。その息を吐きだすと同時に、彼女は低く詠唱を紡いだ。


「光は我が眼に、護りは我が腕に」


 杖の先に、淡い金色の光が芽吹いた。蛍の群れが凝縮したような光が、ラフィーナの周囲に小さな盾となって浮かび上がる。巨人の一撃がその光盾に叩きつけられ、耳をつんざく金属音とともに火花が散った。衝撃が腕から肩へ、背骨まで一気に駆け上がり、ラフィーナは思わず歯を食いしばった。舌の奥に、鉄錆の味がひりりと広がる。


 横ではカランが、雷鳴のような声を上げていた。

「おらああっ!」


 彼の大剣が弧を描き、黒曜石の鎧の継ぎ目に食い込む。重い打撃の音が骨にまで響き、飛び散った破片が頬をかすめた。頬に細い痛みが走り、温かな血が一筋流れ落ちるのをラフィーナは感じた。だがカランは気にも留めず、踏み込んだ足で石畳をきしませながら、もう一撃を叩き込む。その動きは粗野に見えて、実は一太刀ごとに敵の重心を正確に崩す計算があった。


「カラン、右の腕、外した!」

 ヤニの声とほぼ同時に、風を裂く音がした。矢羽根が空気を震わせ、まるでラフィーナの耳元を掠めるような近さで飛んでいく。矢は守護者の腕の関節部に吸い込まれ、青い魔石を打ち砕いた。ぱきん、とガラスが割れるような高い音が響き、巨人の右腕がだらりと垂れ下がる。


 ヤニはすでに次の矢をつがえていた。足裏で石のわずかな凹凸を確かめるように後ろへ下がり、呼吸と鼓動を矢羽根に合わせる。彼女の視線は、獲物しか見ていない猛禽のように鋭い。矢が放たれるたびに、短く乾いた音が石室に刻まれ、そのたびに巨人の動きが一つずつ鈍っていった。


 しかし、敵も黙って崩れてはいかなかった。中央の守護者が胸の魔石を強く脈打たせると、熱気を孕んだ風が一帯をなでつける。ラフィーナの髪が逆立ち、肌がぴりりと焼かれるように痛む。瞬間、巨人の口許の隙間から、溶岩のような赤熱の閃光が迸った。


「ラフィーナ、伏せろ!」


 カランの怒鳴り声と共に、視界が白く弾けた。光と熱と轟音が一度に押し寄せ、ラフィーナの世界はしばらく音のない真っ白な空間になった。鼻の奥を焦がすような焦げ臭さと、皮膚の上をなでる熱い風だけが現実を知らせている。全身が小刻みに震え、指先から杖が滑り落ちそうになった。


 それでも、ラフィーナは必死に杖を握り直した。耳鳴りの奥で、アウリナが教えてくれた古い祈りの歌が、かすかに蘇る。


「闇を払う星の火よ、我が胸より出でて、道を照らせ」


 声はかすれていたが、言葉は確かである。胸の中央で、何かがぽうっと灯った。恐怖で縮こまっていた心臓の奥から、温かくて清らかな泉が湧くような感覚が押し寄せる。同時に、杖の先から白金色の光が奔流となって飛び出した。


 星屑を圧縮したような光の矢が、中央の巨人の胸を正面から貫いた。

 焼けた石の匂いと、弾けた魔力の匂いが渦を巻いて鼻腔を満たす。光が魔石を粉々に砕き、その破片が雪のように舞い散った。巨人が崩れ落ちる衝撃で、足元の石畳が低く唸り、ラフィーナの膝は勝手にがくんと折れた。


 その拍子にラフィーナは、光の盾の魔法を身に着けた。


「ナイスだ、ラフィーナ!」

 耳鳴りの向こうから、カランの笑い声が届いた。その声には、疲労と興奮と、かすかな安堵が混じっている。


「まだ終わってないよ」

 ヤニの鋭い一言と共に、最後の巨人の脚元に矢が突き立った。かかとを砕かれた守護者が大きく体勢を崩す。その隙を逃さず、カランが突進した。

 重い剣が振り下ろされ、砕けた巨人の腰から上が、地響きを立てて床に転がる。石と石がぶつかり合う鈍い音が、胸郭の奥まで響いた。


 石室に、ようやく静寂が戻った。

 漂っているのは、砕けた石粉の粉っぽい匂いと、汗と皮革の混じった、人間の体温の匂いである。ラフィーナは荒い呼吸を整えようとして、乾いた喉にひどい違和感を覚えた。舌に触れる空気は砂のようで、気を抜くとそのまま咳き込みそうである。


「ラフィーナ、大丈夫か」

 カランが近寄ってきて、がしっと肩を支えた。掌は熱く、鎧越しでも鼓動が伝わってくる。


「うん……ちょっと、足が笑ってるだけ」

 ラフィーナはかすかに笑った。自分の声が、思ったよりも掠れている。それに気づいた瞬間、緊張の糸がようやくほどけて、視界の端がにじんだ。


「初陣でこれなら上出来。というか、いきなり真ん中のボス落とすのは反則」

 ヤニが肩をすくめ、矢筒を軽く叩いた。彼女の額にも、汗が光っている。弓を握る指先には、弦で擦れた赤い線が幾筋も走っていた。


「二人が守ってくれたから、ちゃんと歌えただけだよ」

 ラフィーナはそう言いながら、自分の掌を見下ろした。さっきまで震えていた指が、今はじんわりと温かい。まだ心臓は速く打っているのに、その鼓動は先ほどのような恐怖ではなく、奇妙な高揚で満たされていた。


 崩れた守護者たちの身体が、やがて砂のように崩れ、床の魔法陣へと吸い込まれていく。


 彼らは、ガーディアン・コア(防御+5/最大防御+5の胸飾り)を3つ落とし、ラフィーナ、カラン、ヤニは一つずつ身に着けた。


 黒曜石の破片がなくなり、静寂が深まると、壁に埋め込まれた巨大な石板が淡く輝き始めた。エターナルオーブの入口を示す世界地図である。


 海と大陸が簡略化して刻まれ、その上にいくつもの光点が浮かんでいる。そのひとつ、南方の青い海にぽつんと浮かぶ小さな島に、暖かな金色の光が灯り始めた。アウレリア島である。


「一度、地図に戻ろう。ここで息を整えた方がいい」

 カランが言い、ラフィーナとヤニは無言で頷いた。


 石板の中央の円環に3人が揃って足を踏み入れると、足元から柔らかな光が立ち上った。まるで足首からふくらはぎにかけて、ぬるま湯を注がれたような感覚である。視界がすっと白くかすみ、耳の奥で風鈴のような高い音が鳴り続けた。


 次に瞼を開いた時、彼らはもう、別の匂いの中に立っていた。

 湿った石の冷たさは消え、代わりに海風の匂いが頬を撫でる。塩と陽光と、遠くに咲く花の甘い香りが混じり合った、どこか懐かしい匂いである。


 目の前には、濃い緑に包まれた小さな島が広がっていた。

 柔らかな土の感触が靴底から伝わり、わずかに砂がきしりと鳴る。すぐそばで、波が小石を転がすさやさやとした音がする。空は驚くほど高く、さっきまでの暗い石室が夢だったように感じられた。


 その海辺から少し内陸へ入ったところに、丸太を組んだログハウスが一棟、静かに佇んでいた。壁には陽を浴びて乾いた木の匂いが染みついており、手で触れると、ひび割れた樹皮のざらつきが指先に心地よかった。窓枠には、誰かが残した小さな布のカーテンが揺れている。人の気配はないのに、ついさっきまで誰かがここでパンを焼き、湯を沸かしていたような温もりが、どこかに残っていた。


 ログハウスの裏手には、小さな畑が広がっていた。

 黒く肥えた土を踏むと、ふかふかと沈み、湿った土の匂いが一気に立ち上る。苗木の葉を指でつまむと、青臭い汁が指先ににじみ、その匂いが鼻をくすぐった。まだ熟していない果樹の実が、柔らかな風に揺れ、葉擦れの音がさわさわと耳をくすぐる。


「……本当に、全部揃ってるんだね」

 ヤニが感心したように呟き、井戸の縁に手を置いた。冷たい石の感触が掌に伝わる。覗き込むと、底から澄んだ水の匂いが立ち上り、喉がきゅっと鳴った。


「戦場の後に来る場所とは思えないな」

 カランは大きく伸びをして、肺いっぱいに海風を吸い込んだ。先ほどまでまとわりついていた焦げ臭さが、潮の香りに上書きされていく。肩の力が少しずつ抜け、筋肉の張りがようやくほどけてきた。


 ラフィーナは、ログハウスの入り口に立ち、振り返って石室の方向を見た。もちろん、そこにはもう暗い通路も、崩れた守護者の姿も見えない。代わりに、透き通るような青空と、きらきらと光る海原だけが広がっていた。


 さっきまで耳を塞いでいた轟音はなく、聞こえるのは波の囁きと、遠くで鳴く海鳥の声だけである。その穏やかな音の重なりを聞いていると、さっきまで胸を締め付けていた恐怖と緊張が、ゆっくりとどこかへ流れ去っていくのが分かった。


「ここからが、わたしたちの冒険の本当の始まり、なのかもしれないね」

 ラフィーナは小さく呟き、掌をぎゅっと握った。指先には、まださっき放った光の余韻が、ぬくもりとして残っている。その感覚を確かめるように、彼女は静かに深呼吸をした。


 砂と土と潮の匂いが、胸いっぱいに満ちた。

 五感が告げている。ここは、戦いの傷を抱えたままでも、前へ進むための一歩を踏み出せる場所である。ラフィーナ、カラン、ヤニの3人は、互いに短く視線を交わし、この無人の島で最初の夜をどう過ごすかを、静かに話し始めたのであった。

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