第19話(後編)――「エターナル・オーブとドラゴンの森の初修行」

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章②)の【登場人物】

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章第19話)【作品概要】です。

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章第4話)エクリプス大陸の紹介

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(1156年9月上旬の午後過ぎ。エクリプス大陸/イラヤ連合王国/北岸の港町アリバ)


 アレクは港町アリバで娘ラフィーナ・ガンナス12歳と再会し、巫女長の座を奪われたアウリナから事情を聞かされると、この世界で自分の足で立てる娘を育てると決めた。彼はエルクウッドの棒を改良し、孫悟空の如意棒のように伸び縮みして耳の中に仕舞える武器とし、硬いミスリルで覆って雷の魔力を宿らせると、軽く動きやすい綿の防具に風・火・水・土・氷・雷の魔法を重ね、まだ幼い身体でも戦える装備一式を整えた。


 その一方でアウリナは大天使セラフィエルに掛け合い、アレクたちや自分たちが訪れた国々の「環境」だけを写し取り、人の気配を消して収めた新生エターナル・オーブを、娘の修行の舞台として借り受ける。使用料は年額金貨100万枚。アレクは全財産の金貨4000万枚を投げ出して40年間の使用権を買い取り、信頼する部下カラン24歳とヤニ21歳の若夫婦をお供につけると、まずは危険度の低い舞台として、かつて彼らが訪れたエルデン地方ソゴルのドラゴンの森から、ラフィーナの最初の訓練を始めることにした。


 ◇ ◇ ◇


 白く滑らかな球体が、丘の上にぽつりと浮かんでいた。近づくと、ただの石ではないとすぐにわかる。表面は細かな光の粒を絶えず飲み込み、また吐き出しており、指先ほどの揺らぎが静かに波打っていた。触れればひんやりとしていそうで、しかし目には淡い陽炎のような熱が見える、不思議な存在である。


 ラフィーナ・ガンナスはごくりと唾を飲み込んだ。綿の防具の下で、心臓が跳ねているのが自分でもわかる。軽い防具の内側には、アレクが掛けた6つの属性魔法がまだ生きていて、肌の上を風と火と水と土と氷と雷の気配が、薄い幕のように交じり合っていた。肩から腰にかけては、風の魔法が貼り付いて身体を軽くし、胸元は火の温もりで冷えを飛ばしてくれる。足首あたりには水と土のひんやりした重みがあり、骨の奥を芯から支えていた。うなじから背筋にかけては、氷と雷が細い糸のように流れ、注意を逸らせばすぐにでも背筋を伸ばしてくる。


 耳たぶの内側で、とん、と硬いものが当たる感覚がした。ラフィーナが指を差し込むと、そこから一本の細い針金のような棒がするりと抜け出した。長さは指先ほど、色は銀に近い淡い青。ミスリルで覆われたエルクウッドの芯が、雷の魔力を孕んだまま眠っている。


 彼女が息を吸い込み、小さく囁いた。


「起きて」


 針金のような棒が、空気を吸い込むように伸びた。耳元で微かな雷鳴が弾け、棒は一瞬でラフィーナの身長ほどの長さにまで伸びる。ミスリルの光沢が、曇りも傷もなく周囲の光を跳ね返した。握りの部分にはアレクが刻んだ紋様があり、雷と風の文字が細かな傷のように走っている。彼女が握り直すと、掌に重さが生まれた。だが、振ろうとすると奇妙なほど軽く、身体と一緒に付いてくるような素直さがあった。


 背後で、カランが少しだけ笑った。日に焼けた広い肩が、綿の外套ごしに頼もしさを伝えてくる。


「似合っているな、嬢ちゃん」


 低く落ち着いた声である。カランの手には、いつもの片刃の長剣と、小さめの盾。実戦で削れた刃こぼれの痕が、光を鈍く返していた。


 隣でヤニが、黒髪を耳にかけながらラフィーナの横顔を覗き込んだ。瞳の中には、好奇心と少しの不安が同時に宿っている。


「震えてる?」


「……ちょっとだけ。でも、行く」


 ラフィーナは棒を肩に担ぎ直し、白い球体の前に立った。指を伸ばすと、球の表面は水面のように柔らかくへこみ、その中心に薄い円形の線が走った。ゆっくりと円が割れ、内側から暗い穴と、下へと続く螺旋階段が現れる。階段の縁には小さな光球が等間隔に浮かび、ゆらゆらと揺れながらも、足元だけはしっかりと照らしていた。


「入るぞ。ここからは訓練だ。外みたいに皆が見ているわけじゃないが、怪我をしても誰も責任は取ってくれない」


 カランがいつもの口調で釘を刺す。ラフィーナは喉の奥がきゅっと縮むのを感じつつも、先に足を踏み出した。階段は石でも金属でもない、不思議な弾力を持った素材でできている。裸足に近い軽い靴越しに、ひんやりとした冷たさと、わずかな振動が伝わってきた。彼女が一歩降りるたび、壁に沿って浮かぶ光球が、ふっと呼吸するように明滅する。


 鼻腔には、土と石と海風を混ぜたような匂いが入り込んだ。外の丘の乾いた空気とは違う、少し湿った、しかしどこか懐かしい匂いである。耳を澄ませば、遠くからかすかな波音と、聞いたことのない鳥の声が重なっていた。


 幾巡か階段を下ると、唐突に視界が開けた。


 螺旋の終わりには重そうな扉が立っており、その向こうには、ガラス張りの通路が海の上を貫いていた。両側には青い水がどこまでも広がり、通路の下には白い砂浜と、揺れる木々が見える。潮の匂いが、ガラス越しにもはっきりと届いてきた。


 だが、ラフィーナの目を引いたのは、通路の入口のすぐ脇に立つ巨大な板であった。


 それは壁一面を占める地図である。薄く光る板の上に、アレクとアウリナ、そして彼らの仲間たちが歩いた世界が、幾つもの色で描かれていた。大陸がいくつも重なり、海がうねり、山脈と森と都市が細かく刻み込まれている。見覚えのあるエルデン地方の形も、その中に小さく、しかしくっきりと存在していた。


「これが……全部?」


 ラフィーナが思わず呟くと、ヤニが一歩前に出て指先を伸ばした。彼女の指が地図の表面に触れた瞬間、板全体が水面のように揺れ、小さな光点がいくつも浮かび上がった。光点はそれぞれ国や都市を示し、名前が薄く文字として重なる。音もなく、光だけが瞬いていた。


「人の気配は全部抜いてあるわ。土地の形と、森と山と、魔物と……空気だけ残してある。セラフィエル様の言葉だと『環境データ』ってやつ」


 ヤニが淡々と言う。ラフィーナはその言葉の意味を半分も理解してはいなかったが、少なくともここに本物の村人はいないのだと知ると、胸の奥が少しだけ軽くなった。


「エルデン……首都ソゴル……あった」


 地図の一角で、エルデン地方が淡く光る。ソゴルの文字の周りには、いくつか小さな印が打たれていた。港、市場、城……そして、その少し外れに、深い緑色で塗られた一帯がある。そこに、古い文字で「ドラゴンの森」と記されていた。


 カランが腕を組み、その場所をじっと見つめる。


「ここから始める。森の外縁部だ。守り神の龍の巣まで行くのは、まだ先にしておく」


「印に触れると、通路の先が繋がるはず」


 ヤニが言い、ラフィーナを見た。ラフィーナは息を整え、両手で棒を握り直してから、小さく頷いた。


「わたしがやる」


 彼女が指先で「ドラゴンの森」の印に触れる。板の表面がぴしりとひび割れたように見えたかと思うと、その亀裂は光へと変わり、細い線となってガラスの通路の先へ伸びていった。遥か先、海の向こうの森のあたりが、一瞬だけ眩しく光る。


 その瞬間、足元のガラス床がかすかに震えた。通路を満たす空気が入れ替わり、潮風に土と葉の匂いが混じる。遠くで、かすかな鳥の声に重なるように、森特有のざわめきが聞こえ始めた。


「接続完了。行きましょう」


 ヤニが軽い調子で言う。カランは先頭に立ち、盾を少しだけ前に出した。


 3人はガラスの通路を歩き始めた。足音は硬いが、どこか空洞を叩いているように響く。海面から反射した光が、通路の天井や3人の顔に揺らめく模様を描いた。ラフィーナは、足裏に伝わる微かな振動を感じながら、棒を握る手の汗を何度も拭った。口の中は乾いているのに、潮の味がする。


 通路の終わりには、森へと続くアーチ状の門が立っていた。門の向こう側には、見慣れたはずの、しかし少しだけ異なるドラゴンの森の入口が広がっている。背の高い木々が空を覆い、薄い霧が地表付近を漂っていた。葉の影からは、滴る雫の匂いと、湿った土の冷たさが押し寄せる。昼だというのに、入口付近はひんやりとした薄闇に包まれていた。


 門の脇には、もう一枚の地図板が立っている。こちらはもっと素朴な作りで、木に刻まれた道筋が浮き彫りになっていた。ソゴルからの道、森の外縁、狩りに使われる小道、そしてはるか奥に「守護竜の領域」と書かれた印が、小さく付けられている。


「今日は、この外縁からここまで」


 カランが指でなぞったのは、森の縁に沿ってゆるやかに弧を描く小道であった。そこには小動物と低級な魔物しか出ないはずだ、と彼は説明する。


「嬢ちゃんは、まず棒に身体を慣らす。突く、払う、守る。ヤニは後ろから補助と索敵だ」


「了解。危なくなったら、星を裂いてでも引き上げるから」


 ヤニが冗談めかして言い、ラフィーナの肩をぽんと叩いた。ラフィーナは小さく笑うと、門の前に立った。


 森の空気が顔に触れる。冷たい。だが、その冷たさの中に、樹液と苔と枯葉の匂いが混じっていて、どこか家の庭とは違う、野生の気配が強く漂っていた。遠くで鳥が鳴き、さらに奥からは、何かが枝を踏み折る小さな音が聞こえる。


 足を一歩、土の上に乗せる。火と氷の魔法が、足首から下を一瞬で測り、地面の硬さと湿り気をラフィーナに伝えてきた。棒の先端が、彼女の呼吸に合わせてかすかに上下する。雷の魔力が、金属の内側でちりちりと鳴っているのがわかる。


 カランが短く言った。


「ラフィーナ、前へ。俺とヤニが左右から支える」


「うん」


 彼女は頷き、ドラゴンの森の入口をくぐった。木々の影が、一瞬で視界を包み込む。足元の土は柔らかく、踏むたびに腐葉土の匂いが濃く立ち上った。頭上では、見慣れた緑よりも深い色の葉が重なり、ところどころから漏れる光が、斑模様となって3人の顔や肩に落ちる。


 その時、右手の茂みの奥で、何かが素早く走り去る気配がした。枯枝が折れる乾いた音、低い唸り声、鼻を刺すような獣の匂い。


 ラフィーナの心臓がまた高鳴る。だが彼女は足を止めなかった。棒を半歩ほど前に突き出し、肩幅に足を開く。腰を落とし、息を浅く整える。


 目の前には、エルデン地方ソゴルのドラゴンの森が広がっている。だがそこに人の気配はなく、ただ、彼女たちを鍛えるためだけの、静かな試練の場があるだけだった。

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