キャッチボール

中里朔

お転婆なウサギ

 利恵子は日報を書き上げると、「ふぅ」と大きく息を吐いた。

 地域の医療法人が運営するデイケアセンター。その施設長を任されるようになって、もう三年目になる。五十路も半ば。体力仕事にも限界を感じていた。

 一人娘の美咲はこの秋に結婚が決まっており、定年より少し早く身を引くことも考えている。

 娘は二十四歳。まだそばにいて欲しい気持ちもある。

「結婚は縁だから」

 本人や周りからの説得され、夫と顔を見合わせ承諾した。


 大事に育ててきたつもりだが、幼少時の美咲はお転婆娘だった。まるで男の子のように木登りをしたり、夫とキャッチボールをしたり。

 悪戯以外は手が掛からず助かったのだが。

 やがて訪れた思春期、反抗期になると言うことも聞かなくなり、夜遅くまで友達と遊び回っていたので夫婦そろって気を揉んだものだ。特に父親離れは酷く、利恵子も対応に苦慮していた。

 夫は「そのうち落ち着くだろう」と言っていたが、その言葉や顔にはいくばくかの寂しさが滲んでいた。


 大学卒業後に上京し、ひとり暮らしをしている美咲。

 休日のこの日、実家へ戻って自室の荷物の整理をしていた。

「お母さん、懐かしいものが出てきたよ。ほら」

 と言って利恵子に見せたものはウサギのぬいぐるみ。

 お世辞にも可愛らしいとは言えない。ベージュ色の――、いや、元は白だったかもしれない。薄汚れ、耳の縫い目がほつれ、中の綿も弾性を失っている。

 それが却って我が子の生い立ちを見るようで、利恵子の目には懐かしく映った。

「これ美咲が幼稚園の頃からあるのよ。いつも抱きながら寝ていたの。憶えてる?」

 美咲はぬいぐるみを愛おしそうに撫でながら回想する。

 一番のお気に入りだったウサギはいつしか汚れが目立つようになり、傷みも出てきた。代わりにと、母が別なおもちゃを買ってきたこともある。それでも頑なに、お気に入りのウサギだけは大事にしていた。お転婆だと言われていたけど、少女らしい時期もあったのだ。

「うん。なんとなく憶えてる」

 それなのに、押入れに仕舞い込んでしまったのはいつだっただろうか。


「部屋はそのままにしておくからね」

 と利恵子は裁縫道具を取り出し、ほつれた耳の修繕をしながら言った。

 大学生まで使っていた部屋は当時のまま手を付けられていない。美咲が好きな色のカーテンも、三面鏡のドレッサーも、ひとり暮らしを始めた部屋で新調してしまった。

「どうして? 結婚生活が上手くいかなくて戻ってきてもいいように?」

 美咲は笑いながら聞いた。

「お父さんが、なにか用事があって来た時にも部屋が使えるようにって。本心は帰ってきて欲しいんでしょうけど。あなたも親になればわかるわよ。嫁いでしまっても子供は子供だもの」

「ふーん、お父さんがねぇ……」

 父は美咲に無関心だったように思う。特に反抗期になって父を毛嫌いするようになってからは。受験勉強が終わって、イライラが治まると同時にそういう気持ちは消え去ったが、今度は急に態度を変えるのが恥ずかしくて話づらい存在になっていた。

 男兄弟で育った父にとって娘とは、まるでパンパンに張った風船のような存在。いらぬ刺激を与えて破裂させないように、距離を取るのが賢明であったろう。溝を埋められないまま結婚が決まってしまった。

「私、お父さんに悪いことしちゃったな。どうしてあんな態度を取っていたんだろう?」

 ウサギをテーブルの上に置いて利恵子は美咲に言う。

「そうね。戸惑ったかもしれないけど、男親なら誰もが通る道だと理解しているんじゃないかな。反抗期っていうのは『成長の証』なのよ。なにも言わなくても、ちゃんとあなたの成長を見守っていたから心配しなくて大丈夫」


 母にそう言ってもらえたことで、美咲は少しほっとしている。父は娘の成長ぶりを見て、結婚式で泣いたりするのだろうか。

「そういえばお父さんってさ、本当は男の子が欲しかったんじゃないの?」

「どうして?」

「だって私って、男の子の遊びばかりしていたじゃない。あれはみんなお父さんから教わったのよ」

 ふふっ、と利恵子が笑う。

「そうかもねぇ。結婚前から『自分の子とキャッチボールをするのが夢だ』って言ってたもの」

「でしょう? 野球のグローブを持っている女子なんて学校中で私だけだったんだから」

 言ってから、ということはグローブも部屋のどこかに仕舞ってあるはずだと美咲は思った。ある時、急に恥ずかしく感じて押入れの奥へ放り込んだのではなかったか。


「お父さんは中学高校とずっと野球少年だったらしいからね」

「そうそう。甲子園に行った話をなんども聞かされてうんざりした」

「そうね。私もその話は知り合ってすぐに聞かされた。一回戦で負けてしまった話もね」

 二人して大笑いする。

 晴れやかな青空が広がっていた。ひとしきり笑い終えた利恵子は三人で過ごしてきた歳月を思い返し、またふふっと笑みを浮かべる。


「私が男の子に生まれていたら、野球少年になっていたのかな。私がお母さんと仲がいいように、男同士の会話も楽しいんだろうね。きっと一緒にお酒を飲んだりしたかったはずだよね。期待とは違う女の子が生まれて、お父さんガッカリしたんだろうな」

「ガッカリ? そんなこと全然ないわよ」

 美咲は母が気を使って言ってくれたのだと思った。

「そうかなぁ……」

「そうよ。なかなか本心を打ち明けてくれないけど、長年連れ添ってきた人だからわかるの」

 そう言うと、利恵子はテーブルに置いたウサギのぬいぐるみを美咲の方へ向けた。

「このウサギのぬいぐるみはね、お父さんが買ってきたのよ」

「えっ、お母さんじゃないんだ?」

「幼稚園に入園したお祝いに買ってきたのよ。お父さんって不器用だけどね、女の子のあなたに似合いそうなもの、喜びそうなものをいつも探してた。あなたが喜ぶなら、どんな遊びにも付き合ってあげていた――」

 美咲は置かれたウサギを手にして、その顔をじっと見つめたまま利恵子の話に耳を傾ける。

「男の子だろうと女の子だろうと、そのウサギのように元気に育ってくれればいい。お父さんはそんな思いで買ってあげたんじゃないのかな」


 当時は活気に満ちていた黒い鋲のようなウサギの目は、いつしか忘れ去られた悲しみから輝きを失っているようにも見えた。

 それは、美咲がこの家にいた頃よりも皺が増え、髪も白いものが多く見られるようになった父の姿にも似ていた。


 ウサギの瞳の奥に過去が映し出されたかのように、不意に美咲の記憶が蘇った。親よりも友達と過ごす時間が楽しくなり始めたあの日のことを。

 子供っぽい服も、部屋のカーテンも、新しいものに変えたくなった。部屋の模様替えとともに、ウサギのぬいぐるみはベッドに必要なくなった。

 父の愛情を見ないようにしていたのは自分自身だったのだ。


「このぬいぐるみも持って行こう」

「それならきれいに洗ってあげないとね」

 利恵子はウサギのぬいぐるみを手に取ると、立ち上がって風呂場へ向かう。その背中に美咲が声をかける。

「ねぇ、お母さん。お嫁に行く前にもう一度お父さんとキャッチボールしてあげようかな」

 振り向いた利恵子がゆっくり頷く。

「きっと喜ぶと思う」



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キャッチボール 中里朔 @nakazato339

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