終章 ──始まらない
①
男子サロンを後にしたクラスメイトのメグの足音が遠ざかっていくと、
──ガチャ。
ドアが開かれて、清潔感のある短髪にきりりとした太眉の、いかにも秀才然とした風体の元生徒会長、真田大誠が現れた。
放課後の自習室での受験勉強の休憩に紅茶を飲みに来たのだろう。たまにあることだ。
案に相違せずお気に入りのダージリンを入れてぼく、綾崎千宙の向かい──先ほどまでメグが座っていた所──に腰を落ち着けた真田は、長い脚を組むでもなく、まるで座り方のお手本のようにピンと背筋を伸ばしてピンクの花があしらわれたティーカップを
真田は、ふぅ、と小さく一息つくと、ぼくの手元──売店という名のコンビニで買ったチルドカップ飲料をちらと見やってから、低く響く男性的な声で言った。
「先ほど出ていった女子とはどういう関係なんだ?」
大切に育ててきた自慢の息子が柄の悪い女と肩が触れんばかりに仲睦まじく歩いているのを目撃してしまった母親が、涙ぐみながら、あるいはまなじりを裂きながら言いそうな台詞だな、と思いつつ、
「ただのクラスメイトだよ。事件の話を聞かせてもらってたんだ」
「肉体関係はないのか?」
いよいよもって妙な話になってきたぞ、と訝るぼくをまっすぐに見つめる真田の表情は至って真剣だ。
「何が言いたいの?」ぼくは問うた。
すると真田は、溜め息めいた長い息を鼻から吐いてから、「俺たち学生の本分は学業だ、これは間違いない」何やら語りだした。「そして、お前の成績は全国でもトップクラス。だからこそ俺は、お前の非常識なやり方にも今まで目をつぶってきた。しかしな、こうも被害者が増えると流石に見過ごせない」
「ああ」と察する。「要するに彼女を作れとか、そういう話?」
「そうだ」真田は厳かに首肯した。「学生の本分は学業だが、男の本分は女を幸福にすることだ。できるだけ多くの女を精神的にも肉体的にも満たしてやる責務がある」
「社会通念上は、たしかにそうだね」
「無論、俺だって無茶を言うつもりはない。今まで恋人を作らずに気ままにやってきた、加えて作家との二足のわらじで多忙なお前に、いきなり俺と同じことをしろと言っても難しいだろう?」
真田の言う〈俺と同じこと〉とは、百八人の彼女との絶倫煩悩生活のことだろう。
そんなの御免蒙るぼくは、というか普通の人間には到底不可能な奇跡の奇行なので、
「絶対に無理だね」と大いにうなずいた。
「だからまずは一人でいい。日本全国に数多といる、お前に抱かれたくて夜ごとに指を濡らしている女の中から、せめて一人くらいには情けを掛けてやれ」
「それなら問題ないね」
「問題ない?」真田は凛々しい眉の片方を怪訝そうに吊り上げた。「どういう意味だ?」
「めんどくさいから言ってなかったけど、実はぼく、一人だけ彼女いるんだよね」
目を丸くした真田は、およそ二秒後、溜め息と共に肩を脱力させた。一気に老け込んだようにも見える。彼はあきれ果てたというふうに言う。
「まったくお前というやつは。秘密主義に振り回されるほうの身にもなってほしいものだな」
「推理作家として言わせてもらえば、嘘をつかれたわけでもないのに勝手に勘違いしたほうが百パーセント悪いよ」
真田はじとっとした半目になり、「現実と虚構を一緒にするな──などと言ってもお前には無意味なのだろうな」
皮肉の言葉は、軽く肩をすくめて受け流した。
と、真田は、ここからが本題だ、と言わんばかりに身を乗り出して膝に肘を突き、
「で、その女はどこのどいつなんだ?」
と聞いてくる。真田は恋バナが大好きなのだ。
くすっと小さく笑ってぼくは、答えた。
すると真田は、
「いつから付き合ってるんだ?」
と興味津々に質問を重ねる。
「中学のころからだね」
「どんな子なんだ?」
「そうだねぇ……」
◆
〈読者への挑戦〉
綾崎千宙の恋人は、各章の視点主である〈一野小春〉〈雨ヶ谷涼〉〈夏坂七海〉〈秋園真琴〉〈若餅紅蒔〉のうちの誰かである。
推理に必要な手掛かりはすでに読者の皆様の手にある。誰が恋人か推理せよ。
◆
ぼくの恋人の人物像を端的に表す巧い表現はないか、と脳に刻まれた語彙に検索を掛けるが、どれもありきたりでおもしろみに欠ける。かといって、長々と語るのも面倒くさい。
どうしたものか、と悩ましい気持ちを紛らわそうというのではないが、飲みさしのチルドカップ飲料を口に運んだ。
ちゅるちゅると吸い、その風味が口内に広がると、ああ、これでいいか、と思い当たった。
「これ」と、ちゃちなチルドカップを真田の視線の先にかざして示す。「こんな感じの子」
「それはどちらの意味だ? その飲み物が好きな子ということか? それとも、その飲み物そのもののような気質の子ということか?」
「どっちもだね」
「ふむ」などと応じた真田は、紅茶で唇を湿らすと、「考えてみれば、たしかにお前が選びそうなところではある」
「そう?」自分ではそんな自覚はないのだけれど。
「ああ、その子といると退屈しないのではないか?」
「そうだけど、その言い方だと、まるでぼくが色事にまでフィクショナルなエンタメを求めてるみたいに聞こえるんだけど」
真田は意外そうに、「違うのか? お前のことだから、〈自分を楽しませる舞台装置として優秀だから〉という理由で付き合っているのだと思ったのだが……」
「そんなサイコパスみたいな感性してないって」
真田は非常に胡乱そうにぼくの顔を視線で舐めた。が、「……まぁそういうことにしておこうか」
「信用ないなぁ」
「推理作家を信用してはならない、というありがたい家訓を思い出したんだよ」
「すばらしい家だね。すごく騙し甲斐がある」
「そういうところだぞ」
ぼくは口をつぐんだ。
それを見た真田が、満足げに口元を綻ばす。
やがて紅茶を飲みおえた真田が自習室に戻ると、ぼくもそろそろ帰ろうかな、と思い、チルドカップ飲料──チョコミントラテの残りを一息に飲み干した。
そういえば彼女との初めてのキスもこの味だったな、とふと思い出し、そんな自分がおかしくて少し笑った。
(了)
ワトソンレースは始まらない 虫野律(むしのりつ) @picosukemaru
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