第42話 始まったばかり

「二人のおかげで、本当に楽しい時間を過ごせましたよ。また、すぐに遊びにきたいと思うくらいには」


 馬車に乗り込む寸前、フェデリコはそう言って微笑んだ。彼を見送るために集まった多数の女性は黄色い歓声をあげたが、イレーヌは愛想笑いを返すのみである。


 とはいえ、パンテーラ王国ともより関係を深めたいのよね。そう考えると、この男も無碍にはできないわ。


「ぜひ、またいらしてください。わたくしもオリヴィエもお待ちしておりますわ」

「それは光栄ですね」

「よき隣人として、助け合っていけたらと思っています」


 にっこりと笑って、右手を差し出す。本当はこんな男と握手なんてしたくないが、仕方ない。これも外交のためだ。


 ティーグル王国と違って、パンテーラ王国は多民族国家。

 意外と歴史は浅くて、今の王家に納得していない派閥もいるそうなのよね。


 昔は知らなかったが、勉強した今は分かる。

 だとすればフェデリコ……いや、パンテーラ王国としても、ティーグル王国との関係は深めておきたいはずだ。

 ティーグル王国の武力は、パンテーラ王国にとって無視できないものだろうから。


「ありがとうございます。その言葉を聞けば兄も安心しますよ」

「お兄様にもよろしくお伝えくださいませ」

「ええ」


 頭を下げて、フェデリコは馬車に乗り込んだ。帰国後はすぐ、公務で国内各地を巡回するらしい。

 それも各民族に気を配り、謀反の芽をつむためだとセシリアが言っていた。


「ようやく帰りましたね」


 耳元で囁いたオリヴィエは、心底うんざりしているようだった。


「ええ。厄介な客人だったわ」


 とはいえ、フェデリコがきていなければ、オリヴィエとの婚約を宣言することもなかっただろう。

 彼はいいきっかけをくれたのだ。


「オリヴィエ、行きましょう。わたくしたちも、のんびりとしてはいられないわ」


 イレーヌがオリヴィエと幸せな結婚をし、全国民から惜しまれながら老衰するために、やらなければならないことは山積みだ。

 まずは問題を洗い出し、対処する順番を決めていく。そして問題解決に必要な時間や予算を確認する。


 これから忙しくなるわね。





「こっ、こんなに忙しくなるなんて聞いてないわよ……!」

「殿下。明日からはもっと忙しくなります」


 セシリアの言葉に、イレーヌは泣きそうになった。フェデリコを見送って以後、ろくに休憩する暇もなく、ついに日付を越えてしまったのだ。

 にもかかわらず、明日からはもっと忙しくなるだなんて。


「明日からは、城内の人間だけでなく、城外から多くの人がくる予定です。朝一でくるのは、王立学院の学長ですね。私にとっては懐かしい方です」

「……それはよかったわ」


 問題を洗い出すためには、様々な立場の人間から話を聞く必要がある。


 そう主張したのはセシリアだ。直接話を聞くことによって、王女様が気にかけてくれている……! と相手に思わせる効果もあるのだと言っていた。

 彼女の言っていることは正しい。現に今日顔を合わせた者たちは、話を聞いただけですごく感謝していたから。


 今日聞いただけでも、様々な問題があった。


 宮殿で働く貴族による平民への差別、文官と武官での対立、明朗とは言い難い財政事情、地方貴族と中央貴族との溝、納得感のない人事評価制度。


 明日以降は、城外で働く者からも話を聞く。役人だけでなく、商人からも話を聞く予定だ。イレーヌには想像もつかないような問題も飛び出してくるに違いない。


 まあでも、わたくしに不満を伝えたいと思っている者がいるこの状況はありがたいことよね……。


 彼らがこぞってイレーヌに相談したがるのは、イレーヌに改善してほしいと望んでいるからだ。

 彼らがイレーヌや王家に期待するのをやめた時が、革命の始まりかもしれない。


「セシリアもありがとう。貴女も大変でしょう?」

「いえ。未来の宰相として、当たり前のことをしたまでです」


 冗談めかしてセシリアが笑った。


「では、私はそろそろ失礼しますね。婚約者様がいらっしゃるでしょうから」





「殿下。遅くなってしまい、申し訳ありません」

「いいのよ。ついさっきまでセシリアがいたから」


 部屋にやってきたオリヴィエは、さすがに疲れきっているようだった。当然だ。過密スケジュールをこなしたのはイレーヌだけではないのだから。

 オリヴィエは今日から、イヴァンのもとで今まで以上に厳しい訓練を積むことになった。

 一介の騎士としてではなく、指揮官としての訓練だ。


「……本を読み過ぎて、頭が疲れました。部屋に帰ったら、忘れないうちに復習しておきます」


 指揮官に必要なのは、個人の強さだけではない。的確な状況把握や戦術、戦略の立て方を学ぶ必要がある。

 そのためには知識が必要だ……ということで、オリヴィエは剣の訓練以上に頭の訓練をすることになった。


「無理はしないで。身体を壊してしまったら大変だわ」

「お心遣いありがとうございます。ですが、殿下の顔を見たら元気になりました」


 いきなりこんなことを言うのは、さすがに狡い気がする。


 前はこんなに甘い言葉、言ってくれなかったじゃない。


「遅くなったけど、軽く夕飯でも食べる?」


 忙しくて食事をとる時間もなかったのだ。もう遅いが、眠るには空腹すぎる。


「はい。ですが殿下は食事後、すぐ眠ってくださいね」

「……もう少し一緒にいたい、と言っても?」


 上目遣いでじっとオリヴィエを見つめる。疲れきった顔をしているとはいえ、オリヴィエの瞳に映るイレーヌは可愛いはずだ。


 忙しくて、全然オリヴィエと二人きりになる時間がなかったわ。

 せっかく、気持ちが通じ合ったっていうのに。


「ねえ、オリヴィエ、わたくし……」


 背伸びをして、軽くオリヴィエの手を引く。甘えるようにそっと目を閉じてみたが、何の動きもない。

 ゆっくりと目を開くと、困ったような顔でイレーヌを見つめるオリヴィエがいた。


「……オリヴィエ?」


 今のはキスするところでしょ。オリヴィエったら、本当に鈍いのね。


 仕方ない。きっとオリヴィエには、ちゃんと伝えなければ伝わらないのだ。


「オリヴィエ。わたくし、貴方とキスがしたいわ」

「だめです」

「えっ!?」

「殿下。お誘いはありがたいのですが、俺と殿下はまだ正式な婚約を結んだわけではないでしょう? それに婚約したとしても、結婚するまではそういったことはするべきではないかと」


 はあっ!?


 と大声で叫ばなかった自分を褒めてあげたい。

 この男はいったい、何を言っているのだろう。


 オリヴィエの言う通り、確かにまだ正式な婚約を結んだわけではないのだ。婚約にもいろいろと手順があるのである。

 とはいえアゼリーの許可も得ていることだし、近いうちに正式な婚約をすることは間違いない。


 それにオリヴィエって、わたくしのことが好きなのよね!?


「……殿下。分かってください。本当は俺だって、今すぐ貴女に触れたいんですよ」


 オリヴィエの大きな手が伸びてきて、そっとイレーヌの頬を包んだ。手のひらの温もりが心地よくて、今すぐにでも身を委ねてしまいたくなる。


「殿下のためです。ご理解いただけるでしょう?」


 わたくしとオリヴィエがどんな関係になろうと、バレなきゃいいじゃない! と言ってやりたいところだが、無理なことは分かっている。

 オリヴィエはそんなことをよしとはしない。そしてそういうところも、イレーヌは大好きなのだ。


「……分かったわよ」

「ありがとうございます。殿下」


 床に膝をつき、オリヴィエはイレーヌの手をとった。そして、イレーヌの手の甲にそっと口づける。


「騎士として、一人の男として、一生殿下を愛し、守り続けます」


 まるで叙任式の再現だ。でも、あの時とは違う。


「だめよ。一生なんかじゃ足りないわ」


 オリヴィエが目を見開く。イレーヌは満面の笑みを浮かべて、ワガママを口にした。


「生まれ変わっても、絶対、わたくしの傍にいること!」


 この時、イレーヌ・フォン・ティーグルは15歳。

 後世『ワガママ聖女』という珍妙な二つ名を歴史に残す彼女の長い人生は、まだ始まったばかりである。

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ワガママ王女、死に戻って華麗に人生やり直します!~処刑回避に必死な王女は、堅物騎士の溺愛に気づかない~ 八星 こはく @kohaku__08

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