第7話 春をうたう泉

 それから月日は流れた。

 世界を巡る旅を終えたエイアンとコレイは、ついに始まりの地、あの白い城へと戻ってきた。

 かつて少年だったエイアンは、いまや堂々とした青年へと成長していた。幾多の冒険を乗り越えた彼の背は伸び、眼差しにはもともとの優しさに加え、さらなる勇敢も宿るようになっていた。

 そして、無垢な少女だったコレイもまた変わった。彼女はもう、ただ助けを待つだけの存在ではない。エイアンと共にした旅路で得た自信と、凛とした気品を纏う優雅な女性へと成長していた。

 二人は門をくぐり、庭に足を踏み入れる。


 そこには、変わらぬ姿で老庭師が立っていた。

「お帰りなさいませ」

 その静かな馴染みある懐かしい声に、コレイは微笑んだ。

「ただいま」

 老庭師は目を細め、二人を優しく迎え入れた。


 二人は、アイドーネウスから託された種を植えた場所へと足を運んだ。

 そこには、立派に成長した一本の木がそびえ立っていた。太くしなやかな幹、豊かに茂る葉。真っ赤な果実が、枝々にたわわに実っている。

「見て、こんなに立派な木になったわ。果実もこんなに。ねえ、そう思わない?」

 コレイが微笑みながら、隣に立つエイアンへと問いかける。

「……」

 エイアンはコレイの問いには答えなかった。実った果実を、ただ、じっと見つめていた。彼はその場に立ち尽くし、その顔は少し青ざめ、何かに気づいたような表情にも見えた。

「どうしたの? 具合でも悪いの?」

 コレイが心配そうに覗き込むと、エイアンはゆっくりと唇を開いた。

「……いや、故郷の果実によく似ている、と思ってね」

「それがどうかしたの?」

 エイアンの故郷でしか育たない果実。温暖な地でなければ決して実を結ばないはずの果実が、この城の庭に生い茂っている。

 ここは雪の多い土地。老庭師が丹念に世話をしていたとしても、育つにはあまりにも不自然だった。

 エイアンは幼い頃から果樹を育てる難しさを知っている。どの果実がどんな環境で育つのか、熟知していた。

 だからこそ、目の前の光景に違和感を覚えずにはいられなかったのだ。

 なぜ、この果実がここにある?

 コレイがアイドーネウスからもらった食べ物を、エイアンは確認していなかったのだ。

 エイアンが石像になったかのように沈思する傍らで、コレイが果実を一つ手に取る。

「これ、アイドーネウス様がくださったものだけれど、とても美味しかったのよね」

 彼女は何の疑いもなく、その果実にかぶりついた。

 がぶり。

 甘やかな果汁が口の端を伝い、大地へと滴る。その瞬間だった。

 ズズズ……ッ!

 大地が震えた。

「……!? 何!?」

 大地が、音を立てて割れていく。

 泉のほとりでかつて見た亀裂が、今度は足元にまで広がっていた。

「コレイ!」

 エイアンは咄嗟に手を伸ばす。

 そして、再び、黒い影が大地の裂け目から現れた。

 不気味な闇が揺らめきながら形を成した漆黒が、コレイの細い腕を絡め取り、裂け目に引きずり込みはじめる。

「エイアン!!」

 コレイも必死に手を伸ばす。二人の指先が、今にも触れそうになる。影がコレイと共に大地の裂け目に飲み込まれる瞬間、エイアンは地上から裂け目に向かって大きく飛び込んだ。

 冷たい凍てつくような風が、二人のいた場所を通った。

 

 目が覚めると、エイアンは一人だった。

 冷たい空気が肌を刺す。

 コレイの気配がどこにもなかった。

「……コレイ!」

 声を上げるが、返事はない。静寂の中に彼の声だけがこだましていた。

 エイアンは立ち上がり、辺りを見渡した。暗闇に包まれたこの場所は、前にも来たことがある。

「またここに来てしまったのか……」

 ふと、遠くに何かが揺らめくのが見えた。

 淡く、ゆらゆらと揺れる光。

 まるで誰かが彼を導くかのように、静かに奥へと続いている。

 迷っている時間はない。

 エイアンは、急ぎ足で光の後を追った。

 光はどんどん遠ざかって行くので、エイアンも駆け出さなければならなかった。

 

 しばらく走っていると、遠くの景色が開けているのがわかった。光もそこに向かって案内している。

 ようやく光に追いつくと、そこは、かつてエイアンが見た、高い天井から流れ落ちる幾筋もの滝と湖の空間に辿り着いた。

 案内してくれた光を見ると、ひゅんっと音を立てて上空の夜空の星のように輝く、霧のひとつとなった。

 そして、エイアンは湖のほうへ歩みを進める。

 漆黒の巨大な影が、湖の対岸にいた。

 闇のようなその存在を見つめているだけで、視界が歪むほどの威圧感があった。

  アイドーネウス。

 巨大な漆黒がゆらめき、その瞳が冷たく光る。

「アイドーネウス、なぜ再びコレイを引きずり込んだのだ」

 エイアンは冷静な声を出しつつ、表に出ない心の内は怒りに満ちていた。

「少年。私から引きずり込んだのではないぞ。最初にセフィがあの果実を食べたその時から、ここへ再び来ることは決まっていたのだ」

 そして、静かに、しかし容赦なく真実を突きつけた。

「——お前は、あの果実には気づかなかったのか?」

 アイドーネウスの声が対岸からよく響く。

「……何?」

 エイアンの目が驚愕に揺れる。

「あれはお前が育てた果実の種から生まれたものだぞ」

「あの果実こそ、お前の故郷の泉とこの地を繋ぐ鍵なのだ。お前が育てたものが、この地へ導く力を持っていたのだ」

 アイドーネウスはゆっくりと続けた。

「なぜ、お前の住む森にある泉から彼女に会えたと思う? それは、お前の育てた果実が、この地の果実と同じ力を持っているからだ」

「……それがどういう意味だ?」

「単純なことよ。この地であの果実を食した者は、ここで生きる定めとなる」

 エイアンの息が詰まる。

「お前の故郷の果実が、知らぬうちにこの地へと繋がるものとなったのだ。お前自身の手によってな」

 エイアンは拳を握りしめた。

「そんな……!」

 アイドーネウスは冷たく言い放つ。

 「もうお前に用はない。彼女はここで生きることが定められている。お前は、元の世界で彼女の思い出だけを抱えて生きていくがいい」

 パチン。

 指で弾かれたかのように、エイアンの身体は暗闇から一瞬で消えた。


 

 目を開くと、そこは城の庭だった。

 彼女はいない。

 エイアンは、そこに立つ一本の木を見上げた。

 果実はすべて落ち、木はまるで役目を終えたかのように静かに佇んでいる。

「あの果実は……どうやって育ったのですか?」

 近くの木立から老庭師は、気まづそうに出てきた。

「私は、あの木には何もしておりません。驚くほど勝手に伸びていったのです。本当ですよ。剪定しようにも、まるで刃を受け付けないように木が固く、切ることすら叶いませんでした。」

 しわがれた声で懸命に答える。

「では、果実はいつ頃実ったのですか?」

「それが、ちょうど三日前のことで、一度に多くの実をつけました。ちょうど赤く熟した頃に、あなた方が帰ってこられたのです」

 エイアンは沈黙した。

 そういうことだったのか。

 アイドーネウスは、ずっと待っていたのだ。

 コレイが戻るのを。再びあの果実を口にするのを。

 そして、エイアンは気づく。

 今のままでは、彼女を取り戻す術がないことを。


 

 コレイは冷たい部屋で一人、虚ろな瞳を彷徨わせていた。

 再びこの場所に囚われることになるとは。果実を食べてしまったあの瞬間を、何度悔いても足りない。

 彼女は視線を巡らせた。そこにあるのは、以前囚われていたときと変わらないままの部屋。机の上には、かつて囚われていた時に書いていた、かなり古びた手帳が残されている。

 ぱらり、と手を伸ばして乾燥した手帳をめくる。

 そこには、歌の本を模写した文字が並んでいた。

 その中の一つが、彼女の目を引いた。

「……これは」

 ページに綴られていたのは、かつてに伝わる古い歌。

 その歌詞を読み返すうちに、彼女の中である確信が生まれた。

 この歌が、鍵になるかもしれない。


 コレイは、静かに唇を開き、歌い始めた。

 透き通るような声は、静かに空間を満たし、闇の奥深くへと染み渡っていく。

 アイドーネウスに無理やり連れてこられてから、長い間ずっと囚われていた孤独。陽の光の届かぬ場所でひとり過ごした日々。エイアンに出会えた喜び。エイアンと共に過ごした時間。

 彼女は、これまでの生きてきた時と思いを祈るように歌に込めた。


 静寂の森に 凍てつく風

 遥かな記憶に 手を伸ばして

 囁く名は 届かぬまま

 ただ白く ただ遠く


 闇に閉ざされた この世界で

 あなたの影を 夢に見る

 光よ 願わくば

 春を連れてきて

 

 

 ——

 

 コレイは、冷たい風が城を吹き抜け赤や茶色の葉が落ち、木々が寒そうに凍えてくる時期になると、一人、城の森を訪れる。

 踏みしめるたびに、土に覆いかぶさっている枯葉の音が鳴り、しんとした木々の間に響き渡る。

 しばらく歩くと、泉に到着した。持参した古い本を開いて、ある旋律を歌うと、泉の水面が震え、波紋が広がった。水が引いた泉の中心から地面が割れ、彼女は毅然とした様子でそこへ入っていった。誰にも見送られず、誰にも引き止められることなく。

 アイドーネウスは地下へ来た彼女を、静かに出迎える。艶やかな赤い果実を用意して。


 コレイがアイドーネウスの元へ行くと、まるで彼女の足跡をなぞるかのように、地上には雪が降り始めた。

 ひとつの結晶が宙を舞い、やがてひらひらとエイアンの鼻に触れる。ひんやりとした感触に、目を閉じ、故郷の森にも冬が訪れたことを知る。

 木々は葉を落とし、むき出しの枝が冷たい風に揺れる。大地は白く覆われ、全てが静寂の中に沈んでいた。雪が降り積もる冷たく重たい雪の下で、次の春を思い、新しい芽や実を固くし、温かな陽光を夢見ながら耐え忍ぶ。寒さが厳しく辛い思いをするからこそ、春の陽ざしが戻った時に美しい花やたわわな実がなる。

 

 歌声が泉から響いてくるときまで。

 蕾は芽吹き、花々は陽を浴びて咲き誇り、小鳥がさえずりを交わして歌う。

 彼女の声が、春を運んでくるのだ。

 温かな陽が降り注ぐ。彼女の歌声が森に響く。

 やがて陽光が森に降り注ぎ、空気は柔らかく温もりを帯びる。


 エイアンはそれを知っている。

 今年もまた、コレイが春を連れてくることを。

 だから、水仙の泉が風に揺れる春を待つ。

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水仙の泉がきみを呼ぶ @mwmomo

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