第四十九

 颱の皇太子宮――琥珀宮に戻ってきた皓月は、待ち構えていた東宮の官に忽ち包囲された。

 

「殿下っ! こちらの奏文にお目通しを」

「各部から上がってきている草稿も未決にございます!」

「新年参賀の衣装の合わせが――」


 耳に痛いほどの“おかえりなさいませ”が、次々と押し寄せる。

 その渦の中心。

 癖のある白髪をきっちりと結い、ぷるぷる震えながら――李太子詹事・薄明こと李じいが進み出た。


「ささ。皇太子殿下。次はこちらにお目通しを」

「……李じい。なんだかまた……小さくなった、か……」


 皓月が尋ねると、李じいは目尻に沢山皺を寄せて微笑んだ。

 

「臣めは凡人にございます故。皇太子殿下がいらっしゃいませんと、どうにも……晴耕雨読の夢も、霞のように遠うございましてな」


 深々と頭を下げる姿に、皓月はふっと息を緩める。


「ではまず、急を要するものから」

「それでは、こちらですな」

 

 李じいの指図で、周囲の若い官吏たちが書状を山と積み上げる。

 今にも崩れそうな山に、乾いた笑みが漏れる。


「李じい。……これでは晴耕雨読どころではないな」

「はっはっは。畑を耕す前に、この山を刈り取りませんとな。殿下はなにか――気がかりなことでもございますかな」


 言われ、どきりとした。

 李じいの目はごまかせないらしい。

 いかにも人畜無害そうな笑みを浮かべた李じいの、仙人めいたふさふさの眉を見返す。


 気がかりは、いくつもあった。

 ここ最近、何度となく反芻している。

 

 行方の知れぬ二匹の狐。その目的。

 皦玲の死。

 皦玲らしき女人を狙った敬義。

 謎めいている秋霜。

 動きの怪しい遺都。

 関わっているらしき彔。

 なぞの術を使う女人。

 廉王府の火事の真相と易王の行方。

 母帝のこと。

 

 そして――旣魄のこと。

 皞容は、火事に旣魄が関わっていると考えているようだった。

 以前、易王を語ったときの旣魄の話しぶりを思う。

 剣を学んだ師とはいえ、皓月と幽寂のような関係ではなさそうだった。

 仮に、火事の現場に旣魄がいたのが真実だったとして――なぜ、そこに居合わせたのか。

 

 旣魄が廉王府の火事に関わっていたり、易王の逃亡を幇助したとは到底思えない。


 けれども、その場に居合わせた理由は思いつかない。

 分からないからこそ、こうして揺らぐのだろう。

 その“揺らぎ”を思う度に、同時に湧き上がるのは――自分自身のことだった。


 皓月は、どこへ進もうとしているのか。

 

 他者を支配しうるという自身の“號令”の力を知って――己の中の、何かが揺らいだ。

 いまだどう向き合うべきか、答えは出ていない。

 触れることを躊躇っていた。

 そもそも、この正体が掴めていない。

 月靈は何かを知っているようではあったが。

 


 そしてまた、皓月自身の、旣魄への想い。

 それはもう、自分の中では明白だった。

 明確な言葉として紡ぎ出すのを恐れれば恐れる程。却って――静かに降り積もっていた。

 

 それでも、皇太子である互いを顧みたとき、この想いをどこへ行き着かせようとするのか。

 見えていないのは、そこなのだった。

 

 それがはっきりしない限り、紫霞院でのあの夜の二の舞になるだけ。

 情けない姿を晒すだけに違いない。

 

 否。

 実際のところ、全く見えていない訳でもなかった。

 それは恐らく――踏み出すべきか、否か、という問いだった。

 

 踏み出さぬには、この心は育ちすぎてしまった。

 けれども、踏み出すとしたら……皓月は相当の覚悟をしなければならない。

 

 ただ、それは果たして、皇太子として……正しいことだろうか。

 

 思えば、決断の足は鈍る。

 

 ――疑うは容易く、信ずるは難し。

 

 結局のところ、己自身なのだ。

 今の皓月にとって、旣魄を信じることと、己を信じることとは、表裏。

 

 ……曖昧な状態は好まない。

 たとえ、どちらへ進むとしても。

  

「――皇太子殿下? いかがなさいました」

 

 あまりに沈黙が長かったのか、李じいが首を傾げた。

 或いは、皓月が内心考えていることを看破したのかもしれない。


「ああ、すまない」


 後ろめたさをごまかすように笑みを浮かべた。

 

 ここで、話せることは多くない。

 一先ず皓月は、最も無難なところを尋ねることにした。

 

「……敬義はどうしているのか」


 既に他の太子中庶子である夏穎や子曄などは見かけていた。敬義には皓月が顔を見せるなと告げていたため、見かけないのも当然ではあったが。


「鄧太子中庶子ですか? 病とのことで、しばらく出仕してきておりませぬ」


 李じいは、署名した書状の束を抱え直しながら、わずかに眉根を寄せた。

 皓月は筆を止めた。

 

「――病? あの、“休め”と言っても休まぬ敬義が?」

「臣めは深くは存じませぬが……皇太子殿下が遺都へおいでになった後、割とすぐからですから……そろそろ一月程にはなりましょうか」


 李じいの声が、わずかに低く響いた。


「そう、……あっ」


 言った瞬間、筆先から滴った墨が黒々とした染みとなって広がった。

 黒々とした艶を含んだ墨の表面に、戸惑ったような己の顔が、揺れていた。


 

    *



 ――耳の奥で、遠く誰かが咳をしている。


 埃を被った室内で、母子が向かい合っていた。

 灯りは無く、ただ差し込む月の光が、二人を薄蒼く照らしていた。

 

 母と思しき女人は、粗末な牀に身を預け、咳き込んでいる。

 やがて少し落ち着いたのか、寄り添う娘を見上げて、ほほえんだ。

 病的に窶れた頬は憐れなほど削げていたが、その佇まいは、このようなうらぶれた場所には似つかわしくないほどの気高さを帯びている。

 女人の出自の高貴なことが、ひと目で知れた。


「どうしたのかしら? わたくしのかわいい阿紫。そんな顔をして」 

「――母さん。もうすぐ太山娘娘の考試があるの。そこで絶対、一番で合格してみせる。そうして立派な仙狐になるの」


 母を見上げ、そう宣言する少女はの大きな瞳を煌めかせていた――。

 

 それを――皓月はそこではない、どこか離れた場所から見ていた。

 まるで、薄い玻璃を隔てて、他人の記憶を覗いているような。


 ああ、と。

 慣れ始めた感覚を、皓月は諒解した。


 入夢だ。

 また――誰かの夢に入ったらしい。

 

 しかし、以前とはなにかが違う様な気がした。

 

 ただ、寄り添う母子の姿を見つめていると、胸の奥が痛んだ。

 彼女達の手がふれあう度、その温もりが、己の掌にも仄かに伝わってくるようで――。




 ――――――――――――――――――

お読みいただきまして、ありがとうございます。

皓月の帰着を待ちわびていた皇太子宮の面々。

皓月包囲網が形成されてしまいました。


そんな皓月、なにか……(よからぬこと?を)考えているようです。笑


そして、皓月、また誰かの夢に入ったようですが……?

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