置き去りの愛
光野凜
第1話
久しぶりに、
街の雑踏の中、人混みに紛れて立ち止まる。私の視線の先には、見慣れた後ろ姿。その隣には、知らない女の子。
優也は笑っていた。私がずっと好きだった、あの優しい笑顔で。
彼女の髪を優しく撫でて、何かを囁く。彼女は嬉しそうに微笑んで、優也に寄り添った。
愛おしそうに見つめて、そっと彼女の頬に触れる。
——キスをした。
私が最後に優也としてから、どれくらい経っただろう。
目の前で彼が見せている表情は、もう私の知らないものだった。
息が詰まり、足がすくむ。視界がぐにゃりと歪む。目の前の光景が嘘だったらいいのにと願った。でも、まばたきをしても、それは変わらない。
「......あ」
声にならない声が漏れた。
私はその場から逃げるように歩き出した。何も考えたくなかった。何も感じたくなかった。
でも、優也の笑顔が頭から離れない。
——あんな表情、私には向けてくれなかったのに。
◆
家に帰ると、優也はもういた。
まるで何事もなかったかのようにソファに座り、スマホをいじっている。
「......ただいま」
「あぁ」
それだけだった。振り向きもしない。
私は台所に立ち、夕飯を作る。包丁の音がやけに響く。野菜を切る手が震えていた。
最近の優也は、いつもこんな感じだった。昔は私が帰ってくると、「おかえり」と笑って迎えてくれたのに。疲れている日でも、私の顔を見ればほっとしたように微笑んでくれたのに。
今はもう、そんな優しさはない。
食事を出しても、黙って食べるだけ。美味しいとも、不味いとも言わない。ただ機械的に箸を動かすだけ。
私が何も言わなければ、今の関係のままでいられるだろうか。だけど、私は知っている。今日、街で見た優也の表情——あの優しい笑顔。
それが、私にはもう向けられないことを。
喉が詰まるような感覚を覚えながら、私はふと口を開いた。
「ねえ......浮気してる?」
優也の手がピクリと止まる。
たったそれだけで、すべてを悟ってしまった。
「......何で?」
低く、静かな声。
私は笑った。こんなときでも、まだ誤魔化そうとするの?
「今日、見たの。街で......楽しそうだったね」
優也は沈黙する。いつもの優也なら、「何の話?」とでも言って誤魔化したかもしれない。でも、今日は違った。
数秒の間のあと、優也は小さく息を吐いて、俯いたまま言った。
「......ごめん。別れてください」
彼が頭を下げた。
心臓を掴まれたような気がした。
ああ、そうなんだ。
本当に、もう終わりなんだ。
「......彼女のこと、大好きなんだね」
震える声でそう言うと、優也の瞳が微かに揺れた。
その反応に、ほんの少しだけ期待してしまう自分が嫌だった。
もしかしたら、「違う」って言ってくれるんじゃないか。もしかしたら、「お前が大事だ」って言ってくれるんじゃないか——。
でも、優也は何も言わなかった。
「そっか」
それ以上、何も言えなかった。
私がこの話を切り出さなければ、まだ一緒にいられたかもしれない。嘘でも否定してくれたら、私はそれを信じられたのに。
初めての浮気だった。
でも、浮気ってもっと怒りの感情が湧くものだと思っていた。でも私は、怒ることができなかった。ただ、悲しかった。彼があんなにも優しい顔をするのを見てしまったから。
彼が好きなのは、あの子なんだ——。
『一緒に住まない?』
突然の言葉に、私は目を丸くした。
『えっ?』
優也は照れくさそうに笑いながら続けた。
『一緒に住んだら、ずっと一緒にいられるし......
胸がいっぱいになって、私は思わず優也に抱きついた。
『嬉しい!!』
『心美、大好きだよ』
私を受け止めた彼が笑ってそう言った。
あのときの言葉は、全部嘘だったの?
それとも、本当だったけど、時間が経つうちに変わってしまったの?
どちらにしても、今の優也の心には私はいない。
「......わかった」
私はゆっくりと立ち上がる。
優也は一度も、私の目を見なかった。
「今までありがとう」
そう言って、私は部屋を出た。
扉が静かに閉まる音が、胸に突き刺さる。
優也と一緒に暮らしたこの部屋に、私はもう戻らない。
―――大好きだった。
私はただ声を抑えて泣き崩れるしかなかった。
置き去りの愛 光野凜 @star777
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