置き去りの愛

光野凜

第1話


 久しぶりに、優也ゆうやの笑顔を見た。


 街の雑踏の中、人混みに紛れて立ち止まる。私の視線の先には、見慣れた後ろ姿。その隣には、知らない女の子。


 優也は笑っていた。私がずっと好きだった、あの優しい笑顔で。


 彼女の髪を優しく撫でて、何かを囁く。彼女は嬉しそうに微笑んで、優也に寄り添った。


 愛おしそうに見つめて、そっと彼女の頬に触れる。


 ——キスをした。


 私が最後に優也としてから、どれくらい経っただろう。


目の前で彼が見せている表情は、もう私の知らないものだった。


 息が詰まり、足がすくむ。視界がぐにゃりと歪む。目の前の光景が嘘だったらいいのにと願った。でも、まばたきをしても、それは変わらない。


 「......あ」


 声にならない声が漏れた。


 私はその場から逃げるように歩き出した。何も考えたくなかった。何も感じたくなかった。


 でも、優也の笑顔が頭から離れない。


 ——あんな表情、私には向けてくれなかったのに。



 家に帰ると、優也はもういた。


 まるで何事もなかったかのようにソファに座り、スマホをいじっている。


 「......ただいま」


 「あぁ」


 それだけだった。振り向きもしない。


 私は台所に立ち、夕飯を作る。包丁の音がやけに響く。野菜を切る手が震えていた。


 最近の優也は、いつもこんな感じだった。昔は私が帰ってくると、「おかえり」と笑って迎えてくれたのに。疲れている日でも、私の顔を見ればほっとしたように微笑んでくれたのに。


 今はもう、そんな優しさはない。


 食事を出しても、黙って食べるだけ。美味しいとも、不味いとも言わない。ただ機械的に箸を動かすだけ。


 私が何も言わなければ、今の関係のままでいられるだろうか。だけど、私は知っている。今日、街で見た優也の表情——あの優しい笑顔。


 それが、私にはもう向けられないことを。


 喉が詰まるような感覚を覚えながら、私はふと口を開いた。


 「ねえ......浮気してる?」


 優也の手がピクリと止まる。


 たったそれだけで、すべてを悟ってしまった。


 「......何で?」


 低く、静かな声。


 私は笑った。こんなときでも、まだ誤魔化そうとするの?


 「今日、見たの。街で......楽しそうだったね」


 優也は沈黙する。いつもの優也なら、「何の話?」とでも言って誤魔化したかもしれない。でも、今日は違った。


 数秒の間のあと、優也は小さく息を吐いて、俯いたまま言った。


 「......ごめん。別れてください」


彼が頭を下げた。


 心臓を掴まれたような気がした。


 ああ、そうなんだ。


 本当に、もう終わりなんだ。


 「......彼女のこと、大好きなんだね」


 震える声でそう言うと、優也の瞳が微かに揺れた。


 その反応に、ほんの少しだけ期待してしまう自分が嫌だった。


 もしかしたら、「違う」って言ってくれるんじゃないか。もしかしたら、「お前が大事だ」って言ってくれるんじゃないか——。


 でも、優也は何も言わなかった。


 「そっか」


 それ以上、何も言えなかった。


私がこの話を切り出さなければ、まだ一緒にいられたかもしれない。嘘でも否定してくれたら、私はそれを信じられたのに。


初めての浮気だった。


 でも、浮気ってもっと怒りの感情が湧くものだと思っていた。でも私は、怒ることができなかった。ただ、悲しかった。彼があんなにも優しい顔をするのを見てしまったから。


 彼が好きなのは、あの子なんだ——。


『一緒に住まない?』


 突然の言葉に、私は目を丸くした。


 『えっ?』


 優也は照れくさそうに笑いながら続けた。


 『一緒に住んだら、ずっと一緒にいられるし......心美ここみがよかったらだけど』


 胸がいっぱいになって、私は思わず優也に抱きついた。


 『嬉しい!!』


 『心美、大好きだよ』


私を受け止めた彼が笑ってそう言った。


 あのときの言葉は、全部嘘だったの?


 それとも、本当だったけど、時間が経つうちに変わってしまったの?


 どちらにしても、今の優也の心には私はいない。


 「......わかった」


 私はゆっくりと立ち上がる。


 優也は一度も、私の目を見なかった。


 「今までありがとう」


 そう言って、私は部屋を出た。


 扉が静かに閉まる音が、胸に突き刺さる。


 優也と一緒に暮らしたこの部屋に、私はもう戻らない。


―――大好きだった。


私はただ声を抑えて泣き崩れるしかなかった。

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