夢日記

鈴木虎松

第1話

夢日記


レジカウンターの前にゲロが落ちていて、店内は騒然としていた。誰しもがしかめつらで様子を見守っていた。私もその一人だったが、傍観していてはいけないと気を揉んでいた。


すると、大柄の男性が掃除道具を持って前に出てきた。揚々とした歩き方だった。彼が片付け始めるのを見て、ようやく私も支えが取れたように前に出て、それに続くことができた。彼は気のいい笑顔で微笑みかけた。清潔感があり、姿勢も良く、身も引き締まっていて、程よく日焼けしている。その姿に全幅の信頼をおきたくなり、私も引き攣った不恰好な笑顔を浮かべてゲロを片付けた。


男はゲロを雑巾で引き寄せながら、はにかんだ。

「いや、どうしても気になって」

私も調子を合わせて言った。

「今頃吐いた人が一番苦しいでしょうね」

本心だった。私には加害者とされる立場の心境に思いを馳せてしまう癖があった。


「このゲロ、白いでしょう」

見ると、確かに通常のゲロのグロテスクさはなく、メレンゲのようだった。

「自分と似た人のものかと思ってね。僕のように肌が赤銅色の人はこういうゲロなんです」


男は手際良く片付け終えると、帰っていった。私はこの空間で最も正しい人間になったような気がし、何事もなかったように会話に戻った観客たちに示すように、背筋を伸ばした。


ふと、「あのゲロは彼のものだったんじゃないか」という思いがよぎった。そして一度そう思うと、真実味を増していった。彼が前へ出ていく時の何の変哲もない顔つきの、しかし微細な表情がその証拠だった。


「今頃吐いた人が一番苦しいでしょうね」

言葉が蘇り、顔を掻きむしりたくなった。私はそれを悔いて何も手がつかなくなり、その場でしゃがみ込んだまま、1時間ほど青い顔をして携帯へ懺悔の言葉を打ち続けた。


しかし、いつまでもそうしている場合ではなかった。両親と知り合いが上京してきており、近くの店で食事をしなければならなかった。



座敷の左には両親が、右には知り合いのおじさん3人が並び、階段を上がってきた私を見ていた。半袖シャツから突き出した同じようにぶよぶよとした腕を見て、赤銅色の引き締まった腕を恋しく思った。正直おじさん3人は見たこともなかったが、「知り合いのおじさん」というのはそういうものなのだろう。


「大きくなったねえ」

「何の仕事をしているの」


3人は口々に言った。しかし私の方には先ほどの出来事がシミのように残っており、それが広がり続けるので、どう努めても大きな声が出せず、うまく笑えなかった。どんなにいい調子で始まる会話も、ボールが私のところに渡ってしまうと、気の抜けた風船のように墜落してしまうのだった。


「なかなか東京を楽しんでるようでね」

奥にいた父親がトスを投げた。

「あちこち呑みに行ってるようで」

母親がこちらを盗み見て、それへ続いた。


「そう、やっぱり東京は楽しい」

真ん中のおじさんがこちらを覗き込んだ。

「もう帰ってこないだろうねえ」

手前のおじさんが言った。


「いつか帰りたい気持ちもあります」

言葉が聞こえたのかどうかはわからない。曖昧な笑みだけがそこにあった。



私は行路を急いだ。すぐ裏の「どん底」でななさんと待ち合わせていたのだ。今頃、3人のおじさんが顔を付き合わせて私の陰口を言っている様子が脳裏をかすめた。


築70年となろうとしていた木造は建て替えられており、ガラス張りのどん底になっていた。2階までしか無くなっていたが、その代わり地下を増やしたらしかった。


1時間も2時間も早く着いてしまったので外で持て余していたところ、ななさんらしき人が2階から降りてきた。しばらく会っていない間に顔が真っ白くなっていた。弱々しい声をかけ、笑いかけたが、気づく様子がない。約束の時間にならないと気づかないのだろうと思った。


仕方なく、別で1階で飲もうと思い直し、ななさんの無反応な背中を見送っていると、傍でわっと歓声が響いた。若い男女の笑い声だった。相当出来上がっているのか、それぞれに身体を大きくくゆらしていた。


1人の女性が大きく頭を振り被って角にぶつけ、血を流していた。お腹を抱えたまま笑い続けている。滴る血をタオルで受け止めながら、別の女性も笑っていた。男達は笑いながら何もしておらず、ただ上等な白い今治タオルに赤が染み渡るのを腕を組んで眺めていた。


一同はとりあえず救急車を待っているようだった。私は、タオルを頭にきつく押し付けなくていいのかと思った。ゲロの彼のように、先に動いてくれる人はいなそうだった。店内の方を向き、余っていそうなタオルがないか、視線だけを滑らせた。

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夢日記 鈴木虎松 @toramatsu73

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