3日目 虚転
――――――――――
目が覚めた瞬間、違和感があった。
ぼんやりとしたまま天井を見つめる。
(……二度寝、しちゃった?)
いつの間にか意識が途切れていたらしい。
眠ったはずなのに、頭がぼんやりとしている。
いや、頭だけじゃない。
――なんとなく、身体が熱い。
喉も乾いているし、身体も妙に火照っていた。
寝起きだから――そう思い込むようにして、ゆっくりと起き上がった。
時計を見ると、思ったより時間が経っていた。
そろそろ支度をしないと遅刻する。
「……はぁ」
一つ息を吐いて、部屋を出る。
夢の記憶が、まだ薄くまとわりついている気がした。
リビングに入ると、真澄がテーブルの向こう側で朝食をつついていた。
「あ、おはよ、お姉ちゃん。」
顔を上げた真澄が、いつも通りの無邪気な笑みを浮かべる。
なんとなく、その笑顔をまっすぐに見返せなくて、私は軽く手を挙げた。
「……おはよ」
椅子を引いて座る。
けど、妙に落ち着かなかった。
昨日までと何かが違う。
……いや、違うのは私の方かもしれない。
「……?」
どこか、窮屈な感じがする。
いつもと変わらない部屋なのに、何故か息苦しい気がする。
まるで 身体のサイズが変わったみたいな、変な感覚。
縮んだわけじゃないはずなのに、椅子の座り心地まで妙に違和感がある。
部屋の空気が、ほんの少し狭くなった気がした。
寝ぼけてるんだろうか。なんか、変。
「お姉ちゃん、なんかボーッとしてない?」
真澄が、じっと私の顔を見つめていた。
それは、どこか探るような視線。そんな気がする。
「……そんなことないけど?」
「へぇ?」
納得したようなしないような表情を浮かべて、真澄は味噌汁をすすった。
「じゃあさ……今日は学校、行くの?」
「は?」
「なんか、ちょっと熱っぽい顔してるし?」
「……」
瞬間、喉が鳴る。
確かに、身体は少し火照っている。
でも、それは熱があるわけじゃない。
(……多分違う。風邪とかでは、ない。はず)
そう思うけど、上手く言葉にできなかった。
「……別に、普通だけど」
「ふ~ん?」
納得していない顔で、トーストを口に運ぶ。
……すこし、気まずい時間が訪れる。
「昨日の夜……どんな夢見たの?」
「……っ!!?」
スプーンを指でなぞりながら、
慎重な声で聞いてきた真澄の言葉に動揺してしまった。
フォークの先が皿を弾いた。
反射的に指が力を失い、微かな金属音が響く。
「ちょっと、大丈夫? お姉ちゃん」
「……別に。なんでもないって」
「ふぅん」
真澄がじっと見つめてくる、何か考えているようだった。
「……まあ、いっか♪」
軽く微笑んだ。いつもの、真澄の笑顔。
けれど、その仕草は、どこか納得しきれていないようだった。
――――――――――
朝食を済ませ、鞄を持って玄関を出る。
ひんやりとした朝の空気が頬を撫で、眠気の残る頭を少しだけ冴えさせてくれた。
(……いつもと同じ朝のはずなのに。)
なんだか、やけに窮屈に感じる。
靴の中の感触すら、何かが違うような――。
一歩、二歩。かかとからつま先へ――いつもの歩き方なのに、地面がやけに硬い。
靴の中で足が浮いているような、不自然な感覚。
(……ん?)
コツ、コツ、とアスファルトを踏みしめる音が響く。
靴の裏から伝わる地面の感触は、いつもと変わらないはずなのに――。
(……なんだろう、この感じ。)
歩いている。それだけなのに、何かが違う気がする。
だけど、その違和感の正体がわからない。
まるで、形のない靄が頭の中に広がって、視界の端をぼやけさせる。
指で触れれば消えてしまいそうな、頼りない違和感。
それは言葉にしようとするたび、するりと指の間をすり抜けていく。
(……気のせい、かな。)
何も考えないようにして、歩みを進める。
だけど、不意に――
ふわりとした感覚が、脳裏をよぎった。
(――あ)
それは、夢の中の感覚。
巨大な身体を持っていた、あの時。
足を下ろすたびに、世界が沈み込むような、あの感覚。
地面は柔らかく、踏みつぶせばひしゃげていった。
まるで、指先で押した粘土のように――。
(……あれ?)
今の私は?
地面を踏んでいる。
だけど、何も沈まない。
どこまでも硬く、どこまでも揺るがない地面。
沈み込む感覚が、ない。
――!?
途端に、背筋がゾクリとした。
――どうして、私は "沈まないこと" に違和感を覚えた?
「何を……考えているの? ……私は」
本来、それが "当たり前" なのに。
(いや、そんなこと……)
違う。違う違う違う。
私は "普通の大きさ" のはずなのに。
(なのに、どうして――)
私は、立ち止まる。
小さく息を呑んで、もう一度、自分の足元を見つめた。
視線を少しだけ上げると、通い慣れた通学路が、どこか“作り物”のように見えた。
――世界が、窮屈に見える。
――――――――――
教室に入ると、いつも通りの喧騒が広がっていた。
誰かが楽しそうに笑い、廊下からは足音と話し声が絶え間なく響く。
でも、そこにいる自分だけが、少しだけ浮いているような気がした。
(……なんか、落ち着かない。)
椅子に座る。鞄を置く。
普段なら気にもしないはずの動作が、どこかぎこちなく感じる。
まるで、身体のサイズがほんの少し合っていない服を着ている。
――そんな違和感がじわじわと広がる。
「ちょっと真琴さ~ん?」
横からぬっと顔を出し、奏音がじとっとした視線を向けてくる。
「なに?」
「あなた、朝から何かに怯えた小動物みたいな顔してましたけど?」
「……してないけど。」
「いやいやいや、してました。完全に挙動不審。
今にも獲物を狙われてるうさぎみたいな顔」
「そんなことない……」
「ほら、そんな感じだと、肉食の奏音ライオンにたべられちゃうぞぉ~?」
ほんのり冷たい空気が流れる。
「……」
「……もしかして」
「……?」
「スイーツの食べすぎで胃もたれ?」
「違う」
「え、まさかのダイエット?」
「もっと違う」
「もう、隠さなくてもいいのにさぁ」
「だから、違うって」
「えぇー? じゃあ何?」
じりじりと詰め寄ってくる奏音に、私はひそかにため息をつく。
放っておけば勝手に飽きるかなと思ったけれど、どうやら今日は違うらしい。
「……なんでもないよ」
「なんでもない子がそんな顔してるかぁ?」
奏音が眉をひそめる。
「別に、ほんとに何も――」
「真琴」
ぴしゃりと呼び止められる。
「……なに?」
「体調悪いなら、ちゃんと言いなよ?」
「……」
先ほどまでの茶化しとは違う、真剣な表情。
その目に見つめられると、なんでもないとは言えなくなる。
(……参ったな)
バレてる。
奏音は、私の変化に気づいている。
「……大丈夫。ほんとに、なんでもない。心配しないで」
「ふーん?」
奏音は、一瞬だけ目を細めて、じっと私の顔を見つめる。
まるで、何かを探っているみたいに。
「……奏音、顔近くない?」
「む……」
しぶしぶ、といった感じで背筋を伸ばした。
奏音も、結構鋭いんだよな……もう。
「なんかあったら言うから」
「ならいいけどさ」
「……うん」
気づかれたくなかった。
でも、奏音には伝わってしまうのかもしれない。
夢の違和感。
現実とのズレ。
地面を踏みしめる感覚の不自然さ。
私は、俯いたまま、小さく息を吐いた。
――――――――――
教室の空気が少しずつ落ち着きを取り戻し、
やがて授業が始まる時間が近づいてきた。
私は席につこうとしたが、すぐ隣から鋭い視線を感じる。
奏音が腕を組んで、じっと私を見ていた。
「……なに?」
「やっぱりしんどそうだから、保健室行こ?」
「えっ……?」
「ずっと様子おかしいし、体調悪いなら無理しないで。」
「だから、別に……」
「ほんとに何もないなら、ちょっとだけ休んでこよ?
私、先生に言ってくるからさ。」
真剣な目。奏音はこういう時、絶対に引かない。
「……」
私は一瞬、ためらう。
(どうしよう。でも、行ったところで……)
けれど、なんでもないと突っぱねるのも難しい。
奏音の視線が、それを許さなかった。
「……わかった」
「よし! じゃ、行こっか」
奏音はすぐさま立ち上がり、私の手を引いて教室の外へ連れ出した。
――――――――――
廊下に出ると、教室のざわめきが遠ざかっていく。
まるで、あの喧騒が少しずつ別の世界になっていくみたいに。
そして、保健室の扉を開けた瞬間――静寂が広がった。
薄暗い照明に、カーテン越しのやわらかな光。
どこか現実から切り離されたような、そんな空間。
「ここでちょっと休んでなよ。」
ベッドのそばに立ちながら、奏音が言う。
「……私は別に、熱とかないし……。」
「熱がなくたって体調が悪くなることだってあるでしょ?」
「それはそうだけど、そういうわけじゃ……」
「はいはい。じゃあ、しばらく横になってなよ」
しぶしぶベッドに腰を下ろした。
まあ、なんとなく体がだるいのは……その通りだし。
奏音はしばらく私の様子を見ていたが、やがて軽く息を吐いた。
「……なんでそんなに心配するの?」
ぽつりと尋ねると、奏音は少しだけ目を見開いた。
何か考えるように、唇を噛み――
「なんか、真琴が遠くに行っちゃいそうな気がしてさ……。」
ぽつりと、言葉が零れた。
一瞬、止まってしまったかのような時間が流れる。
「……え?」
「いや、変なこと言ってるのはわかってるんだけどさ」
照れくさそうに笑いながら、首を軽く振る。
「なんか……最近の真琴、ちょっと違う気がするっていうか」
「……」
「もしかして、どこか悪いのに無理してるんじゃないかって思ってさ」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
自分でも、どこか“遠くに向かっている”。そんな気がしていた。
――違う、そんなわけない
私は、どこにも行かない。
でも、ずっと感じている窮屈な感覚。
これが続いてしまうなら。
――私は、この世界に居られるんだろうか。
「……大丈夫」
「そっか」
奏音は、少しだけ安心したように微笑んだ。
「……何かあったら、呼んでね」
そう言って、静かに保健室を後にした。
その目の奥には、まだ僅かな疑いが残っているようにも見えた。
……どうせなら休もう。
ベッドに横になり、天井をぼんやりと見つめる。
静寂が訪れる。
さっきまで賑やかだった世界が、すっと遠ざかるような感覚。
(……また、思い出す)
昨日の夢のこと。踏みしめた地面の感触。
現実に戻ってきたはずなのに、感覚のズレは埋まらない。
目を閉じれば、すぐに思い出してしまう。
(……私は、どこにいるんだろう)
そう思った瞬間、ふわりと意識が溶けるような感覚がした。
天井の光がぼやけ、視界の端がかすかに揺らぐ。
まるで、現実の輪郭が少しずつ滲んでいくみたいに。
まぶたが重くなり、夢が手招きする。
――――――――――
* * *
どこまでも続く、白い空間。
地面も、空も、境界が曖昧で、すべてが霧のようにぼやけている。
その中心に、ぽつんとノートが浮かんでいた。
開かれたページには、昨日書いたポエム。
けれど、その文字がゆっくりと滲み、消えていく。
代わりに、新しい文字が浮かび上がる。
「書いて」
「もっと」
「私だけの世界を」
文字が揺らめきながら、ノートのページいっぱいに広がっていく。
まるで、何かが私を誘うように。
その言葉が、まるで心の奥を読んでくるようだった。
気づけば、私はノートへと引き寄せられていた。
ノートに触れた瞬間――
意識が、すっと引き戻された。
* * *
――――――――――
薄暗い天井。カーテン越しのやわらかな光。
私は、うっすらと目を開けた。
保健室の天井が見える。
――私だけの世界へ。
夢の端で、誰かが囁いた気がした。
名前を呼ぶように。飲み込むかのように。
目を閉じると、ノートの白いページがゆらりと揺れる。
ペンを握る自分の手。
書き込もうとする。
ペン先が紙に触れる――その瞬間。
「……真琴さん?」
不意に声を掛けられて、意識が浮上する。
「……あ、はい」
目の前には、保健室の先生。
「大丈夫? ずいぶんぐったりしてたけど……少し休んで、どう?」
「……うん、大丈夫です。」
自分でも驚くくらい、掠れた声が出た。
「そっか。でも、あまり無理しないほうがいいね。今日はもう、帰ったら?」
「……え?」
「しんどいまま授業を受けても、頭に入らないだろうし。
それに顔色もあまり良くないしね。」
確かに、身体がだるい。
けれど、それよりも――このまま学校にいても、まともに過ごせる気がしなかった。
「……はい。そうします」
私は静かに頷いた。
「じゃあ、先生から連絡しておくから、気を付けてね」
「……ありがとうございます」
そう言って立ち上がると、体が妙に軽い気がした。
それなのに。
足の裏が、地面を踏んでいる感触が薄い。
ふわりと浮いているような、不思議な感覚。
現実なのに、現実じゃないみたい。
(……帰ろう)
――――――――――
私は足を引きずるようにして、静かにドアをくぐり、
校舎をゆっくりと後にした。
教室に戻ることもできたけれど、先生の言葉に甘える形でそのまま帰ることにした。
外に出ると、昼間の空気が肌にまとわりつく。
まだ日が高い。
いつもなら、こんな時間に帰ることなんてない。
――少し、自由になった気がした。
なんだろう、この違和感。
いつもは夕焼けだからだろうか。
いつもと同じ道。
変わらない歩幅、変わらない景色。
でも、何かが違う。
歩くたびに、世界が窮屈に感じる。
いつもより、少しだけ狭く感じる世界。
どこにも異常はないはずなのに、私の中に違和感だけが残る。
書きたい。
この気持ちを、形にしなくちゃ。
でも、ノートは家にある。今すぐには書けない。
(……戻ったら、すぐに)
頭の中に、夢で見た景色が鮮やかに蘇る。
見下ろす街並み。踏みつぶした道路。掌の中で砕け散った建物。
全てが、自分の手の中にあった。
(もっと……もっと)
喉の奥が熱い。
全身の血が沸き立つような感覚。
指先が、ピクリと震えた。
足の裏が疼く。何かを踏みしめたくて仕方ない。
胸の奥から、何かがせり上がってくる。
息が詰まるような感覚。
抑えようと、ぎゅっと腕を抱きしめる。
けれど、それでも収まらない。
ふっと足を止めると、無意識に唇が開いた。
「……っ、は……ぁ……」
浅い呼吸が漏れる。
背筋にぞわりとした感覚が走り、思わず足をこすり合わせる。
身体の奥が疼くような感覚。
夢の中の、あの感触がまだ残っている。
――もっと、もっと。
――好きなようにしたい。
――思うがままに、望むがままに。
――全部、全部……。
その時、不意に視界の隅で何かが動いた。
電柱の影。
視界が、電柱の影に引っ張られる。
気づけば、それをじっと見つめていた。
こんなもの、ただ指を押し付けるだけで――
(……あ)
指が動きかけた瞬間、全身が総毛立つような感覚に襲われる。
ぞくり、と喉の奥が震えた。
……何をしようとしてた?
ゆっくりと、こわばった拳を開く。
手のひらに滲んだ汗が、ひどく冷たく感じられた。
――ここは、現実。私は、ただの女子高生。
足元がふらつく。
はぁ、と息を吐き出し、震える指先を押さえつけるように握り込む。
このままだと、おかしくなりそうだ。
(……早く、帰ろう)
ノートに、この衝動を。
この気持ちを、すべて書き記すために。
――――――――――
スマホの画面を何度も確認する。
メッセージを送っても、通知が既読になる気配はない。
電話をかけても、コール音が虚しく響くだけ。
(……どうしちゃったの)
真琴が学校を早退してから、ずっと胸の奥に引っかかるものがあった。
体調が悪そうだったとはいえ、顔色はそこまでひどくなかった。……と思う。
なのに、保健室で少し話しただけで、"遠くに行ってしまいそう"。
そんな言葉が浮かんでしまった。
ありえない。
大体、どこに行くっていうのさ。
頭ではそう思うのに、異様な胸騒ぎがする。
思わず舌打ちをしながら、スマホを強く握る。
(無事ならいいんだけど……)
何かあるなら話せばいいのに、そういうところが昔から不器用だ。
だけど、今回はただの気のせいじゃ済まない気がする。
いつもなら、「まあ、いっか」で流せるのに。
今は、そうするのが怖い。
電柱の影がやけに長く伸びている。
冷たい風が頬を撫でる。
少し息を吸って、スマホの画面をもう一度見つめる。
無意識に指が動く。メッセージを送る。
(……何してるの、真琴……)
小さく息を吐いて、顔を上げる。
放課後のチャイムが鳴った瞬間、足が自然と真琴の家へ向かう道を選んでいた。
――――――――――
街灯が灯り始める薄暮の時間。
周囲の景色がやわらかな闇に溶けていくなか、私は歩くスピードを無意識に上げる。
何が不安なのか、自分でも分からない。
でも、急がなきゃいけない気がする。
ようやく真琴の家の前に辿り着き、深呼吸をする。
インターホンを押す。
一回。
二回。
三回。
……出ない。
(……もう寝てる?)
そこまで遅い時間じゃないけど、体調を崩して寝てしまった?
もう一度スマホを開く。
通知は増えていない。
胸の奥で、ざわりと何かが蠢いた。
これはもう、インターホンの前で突っ立っている場合じゃない。
躊躇いを振り払うように、玄関のドアを叩く。
「真琴?」
返事はない。
「おーい、起きてる?」
静寂。でも、誰もいないはずはない。
少なくとも、すみちゃんだっているはず。
嫌な予感が、足元からじわじわと這い上がってくる。
(……鍵、開いてるかな)
試しにドアノブを回してみる。
カチャリ。
――開いた。なら、居るはず。
なんで返事がないかはわからないけど、早く様子を見たい。
「……お邪魔しまーす……」
靴を脱ぐ間も惜しく、奏音は真琴の部屋へ向かう。
階段を上るたび、心臓の鼓動が速くなる。
ドアの前で立ち止まる。
扉の向こうに、真琴はいるのだろうか。
(……なんでこんなに、嫌な感じがするんだろ)
手を伸ばす。
ノブに触れた瞬間――
------- ――世界が、書き換わる―― -------
足元がふっと浮いたような、軽いめまいにも似た感覚が走る。
一瞬、バランスを崩しかけて、思わず手を壁に添えた。
目の前の扉が、わずかに揺らいだ気がする。
……気のせい?
息を整えながら、わずかに首を振る。
妙な感覚はすぐに消えていき、私は何事もなかったかのようにドアを開けた。
「真…?」
部屋の中にいたのは。
――真澄だった。
「……あれ?」
ほんの一瞬、記憶に靄がかかったような感覚。
ここにいるのは、誰のはずだった?
「奏音ちゃん?」
無邪気な笑顔で、真澄がこちらを見る。
「どうしたの?」
……何かがおかしい。
だけど、その違和感は言葉にできない。
(私……何しにここに来たんだっけ……)
ほんの一瞬、ぼんやりと考える。
だけど、その答えは、霧のように消えていった。
「……いや、なんでもない。
ちょっと、すみちゃんの顔見ようと思ったんだけど……」
「え~? そのためにわざわざ来てくれたの?」
真澄が、にこっと笑う。
「……うん?」
自分で言っておいて、何か引っかかる。
本当に、それだけだったっけ?
「本当?」
真澄が、ほんの半歩、こちらへ踏み出してきた。
……なぜか圧を感じて、反射的に半歩、後ろへ下がってしまう。
「……なに?」
「ううん。奏音ちゃん、なんか変だな~って。」
「……んー? どこが?」
「何の用もなくここに来るなんて、奏音ちゃんらしくないもん」
違和感。
けれど、その違和感の正体が分からない。
言葉にできない、じわじわとした気持ち悪さ。
「すみちゃんこそ、やけに探るじゃん」
「そんなことないよ?」
真澄が笑う。
――けれど、その目は、笑っていなかった。
「……ほんと?」
「本当だよ?」
――心臓が、一瞬だけ脈打つのを忘れた気がした。
こんな感覚、今まであったっけ?
いつも通りの、何気ない会話のはずなのに。
どうして、背筋がじんわりと冷たくなるんだろう。
(違う……なんか違う……)
この子は、何を考えているんだろう。
――――――――――
目的が曖昧なまま真澄の部屋に足を踏み入れた瞬間、
ほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。
「何してたの?」
違和感を払拭するように、何気なく尋ねる。
「ん? 部屋の整理してたの。」
真澄はベッドに腰掛けながら、ふわりと微笑んだ。
「へぇ、珍しいじゃん。いつも散らかしっぱなしなのに。」
「うるさーい。私だって気が向いたら片付けくらいするもん。」
「へぇ~?」
「なにその『信用してません』みたいな顔。……まあいいや、ほら。」
そう言って、真澄は机の上から一冊のノートを手に取った。
「これ、いらないから奏音ちゃんにあげるね。」
「……は?」
不意に差し出されたノートに、思わず眉をひそめる。
「いや、急に何? そもそもこれ、なんのノート?」
「前にちょっとだけ使ってたやつ。でももう必要ないし。」
真澄は軽くノートをひらひらと振ってみせる。
「それに、奏音ちゃんの方がこういうの好きそうだし?」
「いや、好きそうって……私、別にこういうの使わないし。」
「そう? でもなんか、持ってた方がいい気がするんだよね~。」
「……何それ、意味深なんだけど。」
「んー、なんとなく?」
「なんとなくって……適当に押し付けようとしてない?」
「そんなことないよー? ほら、奏音ちゃん、あんまり語彙力ないでしょ?」
「は? いうねぇ、このガキめ。」
「怒った? そんな怒ることないじゃん。ま、そういうことっ♪」
真澄は悪戯っぽく笑いながら、ノートをぐいっと差し出した。
「ほら、遠慮しなくていいから、受け取りなよ。」
このまま押し切られそうな勢い。
(……まあ、別に貰うだけならいいか)
妙な引っかかりを覚えつつも、私はノートを受け取った。
その瞬間、ひやりとした感触が指先を伝う。
まるで、長い間誰かの手の中にあったかのような、温度のない冷たさ。
「……じゃあ、貰っていくよ。」
「うん、素直でよろしい♪」
「別に喜ぶとこじゃないから。で、中身は?」
「うーん、ちょっとだけ書いてあるかも?」
「“かも”って何。自分で使ってたんでしょ。」
私は軽くノートをめくる。
……ページの途中から、文字が書かれていた。
「……ポエム?」
小さく、読み上げる。
==============
息が詰まる。
この世界は、私には狭すぎる。
どこへ行っても、何かに押しつけられるような感覚。
普通でいることが正しい?
現実に溶け込むことが幸せ?
それなら、私はどうすればいいの?
違う、ここじゃない。
私がいるべき場所は、もっと……
もっと、自由に生きたい
もっと、大きく、強くなりたい
もっと、この世界に溶け込んでいたい
――そうなれば、私はもう迷わない
――私が望んだ世界で、ただ、あり続ける
==============
「…………」
どこかで見たことがあるような気がした。
でも、それがどこなのか思い出せない。
このノートは真澄のもの。
なら、これを書いたのも真澄……の、はず。
――でも。
ページをなぞる指が、ふと止まる。
奇妙な、言いようのない違和感。
……この言葉。
まるで、違う誰かが書いたものみたいだ。
なのに、とても見覚えがあるような気がする。
「……これ、すみちゃんが書いたの?」
「え?」
真澄は、一瞬だけ間を置いた。
ほんの一瞬。けれど、その沈黙が、私の胸に妙な引っかかりを残す。
「うん、そうだよ?」
そう言って、真澄はふわりと微笑んだ。
――――――――――
ページは静かに閉じられた。
けれど、書かれた言葉は消えない。
インクの跡は深く、紙の奥へと沈み込み、
まだ見ぬ世界を染め上げていく。
それは、終わりの合図。
けれど、それは同時に、新たな幕開けでもあった。
夢と現実の境界は、どこにあるのか。
願いとは、果たして誰のものだったのか。
問いはすでに意味をなさず、ただ静かに、時は流れる。
やがてすべては馴染み、輪郭をなくし、
すべてが書き換えられた世界で、ただ続いていく。
――そして、物語はもう戻らない。
夢想の反芻に囚われて 完
――――――――――
### あとがき
物語を読んでくださった皆さんへ。最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
改めて、本作はクトゥルフ神話TRPGの世界観を尊重したものになっています。
この物語を綴るうちに、ふと考えました。
――「もし、これがTRPGのセッションだったら?」
私はTRPG未経験者ですが、動画やリプレイを見てその世界観に魅了されてきました。そこにあるのは、決して単なるホラーではなく、ゆっくりと、しかし確実に世界の境界線が曖昧になっていく感覚。
この物語を書いているうちに、私はまるで探索者のように、一歩ずつ『知ってはいけないもの』に触れていったのかもしれません。
◆
もしもダイスロールで物語が進んでいたら、真琴はどんな目に遭っていたでしょう?
- 宿題を忘れたのは、《幸運》ロールの失敗だったかもしれません。
- 夢の違和感に気づいたのは、《アイデア》ロールの成功だったのかもしれません。
- 夢の中での高揚感は、正気度(SAN値)の低下によるものだったかもしれません。
- 最後のシーンで現実が書き換わったのは、《クトゥルフ神話技能》を知ってしまったから?
もしもこの物語がTRPGのセッションだったなら、どこかの時点で **「もう戻れない」** と気づいたプレイヤーがいたかもしれません。
あるいは――
プレイヤーではなく、私自身がダイスを振り続けていたのかもしれません。
◆
プレイしたことがないはずなのに、なぜかこの物語は、そのルールに則るかのように進んでいきました。
おそらく、それは『クトゥルフ神話』の持つ魅力に引き寄せられたから。
力を借りながらではありました。むしろ、自分の力だけではなかったことで、探索者が禁じられた書物を読んでいくかのように導かれたと思ってしまう錯覚。
物語を作るという行為自体が、《クトゥルフ神話技能》の成長につながっていたのではないか。
もともとは、ただ自分の好きな要素を物語に落とし込んでいただけのはずでした。
普通の女の子が、不可逆な世界に飲み込まれてしまう、そんな展開を。
けれど、書き進めるうちに、それだけでは済まなくなった。
◆
この物語の登場人物は、知らぬ間に「夢」と「現実」の境界を超えてしまいました。
けれど、読者であり書き手である私自身にも言えることでした。
あまり癖に刺さるものではなかったかもしれません。
ただ、物語の展開自体は比較的良いものになったと思います。
改めて、最後まで読んでくださった皆さんに、心から感謝します。
◆
ぼんやりと先の展開もメモしているのですが、
書いていくうちに不思議な噛み合いが起こった場面がありました。
最初の意図した表現とは別の形でつながってしまう、奇妙な感覚。
ちょっとした奇跡のような瞬間がありました。
だから、きっとまた書いてしまうのだと思います。
それが、どんな形の物語になるのかは、まだわかりません。
けれど、それでも書きたくなるのです。
もしかしたら、あなたの世界も、もう書き換わり始めているのかもしれません。
なんて。怖いですね。
さて、最初の真琴のシーンですが、なぜいつも通り登校したはずなのに、早く着いてしまったのでしょう。
《アイデア》ロールが成功することを祈ります。
◆
余談です。
ある人物の背景に説得力を持たせていったら、とんでもない化け物に変貌しつつあります。
ここまで読んでくださった皆さんなら、誰のことだかわかるはず。
怖いです、助けてください。
夢想の反芻に囚われて 夢真 @yuma_sin
★で称える
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