雨に濡れたら、全てが終わった

 学校の帰り道、ぽつり、と頬に冷たいものが当たった。

 空を見上げると、灰色の雲が広がり、風がひゅうっと吹き抜ける。


 ……降りそう。

 そう思った矢先、突然空が弾けたように雨が降り始めた。


「わっ、律、走ろう!」


 千紘が私の手を引く。

 だがすでに遅い。ものの数秒で制服がじっとりと濡れ、シャツが肌に張り付く。髪から滴る水が視界を遮る。


「こっち! 近いから!」


 千紘の家に向かって、雨の中を駆ける。水たまりを踏みながら、ずぶ濡れのまま玄関の扉を開けた。


「うわー、すごい雨……律、大丈夫?」


 千紘が自分のシャツに手を当てる。布が張り付いていたせいで、肌のラインがあらわになる。いや、違う、そこじゃない。


「……とりあえず、タオルを」

「うん、持ってくるね!」


 千紘が奥へ駆けていく間に、自分の髪を手で絞る。服はもう完全に冷えて、じっとりと体に貼りついている。このままでは風邪をひくかもしれない。

 タオルを受け取り、無言で髪を拭く。


「ねえ、律」

「なに?」

「一緒にお風呂入ろ?」


 聞き間違いだろうか。


「びしょびしょだし、風邪引いちゃうよ?」

「千紘が先に入りなよ」

「だめだよ。こんなに冷えちゃってるのに」

「…………」


 これはまずい。これは絶対にまずい。


「じゃあ私が先に入る」

「えー? いいじゃん、どうせすぐ温まるんだし、一緒のほうが早いよ」


 そう言いつつ、千紘はシャツのボタンに手をかけた。

 ……待て。


 目の前で、シャツがゆっくりと開かれていく。白い肌がちらりと見え、濡れた生地がするりと肩を滑り落ちる。布と肌が離れるたびに、柔らかいラインが露わになっていく。


「律も、早く脱ぎなよ」


 言いながら、千紘がスカートのホックに指をかける。


 ……ダメだ。これは絶対にダメだ。

 思考が停止する。心臓がうるさい。呼吸が乱れる。



 えっ、待って。私、今、お風呂にいる? えっ? えっ? しかも、えっ、ちょっと待て、私、今、裸? あれ? いつの間に? えっ、しかも、えっ、ちょっと待て、目の前、千紘? 千紘も裸? 待て待て待て待て。なんで? いや、違う、なんでじゃない、なんでこうなった? まずい。これは絶対にまずい。何かがおかしい。というか、おかしいのは私の頭か? 「律、こっち向いて」距離が近い。近すぎる。えっ、待って、ちょっと、本当に待ってほしい。なんでこんなに距離が近い? 落ち着け、落ち着け、いや、無理だ、落ち着けない。「ちゃんと洗ってあげるね」洗う? えっ、待って、私、今から千紘に洗われるの? 手、泡立ってる、えっ、泡越しなのに指の動きがはっきりわかるのはなぜ? ちょっと待って、泡が滑るたびに肌がくすぐったくて、あっ、指の感触が、いや、泡がクッションになってるのに、ダイレクトに伝わってくるのはおかしい。これ、もうダメだ。「律の肌、すべすべだね」あっ、もうだめだ、もう無理、いやいやいやいや、これはもう完全にだめ、ちょっと待て、これどうする? いや、どうもしない、というか、どうにもならない、これはもう終わり。「次は背中、洗ってあげるね」待て。待ってくれ。待ってくれ、頼む、待ってくれ。それは本当にまずい。絶対にまずい。いやいやいや、後ろに回るな。いや、そういう問題じゃない。いや、問題しかない。背中に、柔らかい感触。終わった。いや、終わった。終わりだ。全てが終わった。この背中に触れている柔らかさ、これは、これは、これは、これは、いや、違う違う違う、わかってる、わかってるけど、違ってほしい、いや、無理だ、これは千紘の、えっ、待って、肌が直に触れてる? そんなことある? 待て、待て待て待て、待て待て待て待て待て、そんな、そんなこと、ある? いや、ある、ある、ある。実際に感じてる。 背中が包まれるような感触がする、これはまずい、これはもうダメ、これはもう完全にダメ。耳元に千紘の吐息がかかる。身体が跳ねる。背筋がぞくりと震えて、鳥肌が走る。呼吸が止まる。いや、止まるんじゃない、止めないとまずい。でも止められない。肌にかかった温かい空気が、そのまま熱として浸透する。耳の奥がじんわり熱くなる。「はい、きれいになったよ。お湯に入ろう?」私、本当にこれ以上無理なんだけど。でも千紘は何のためらいもなく、ざぶんと湯船に入って、にこにこしながらこっちを見てる。「律、早く」早くじゃない。入ったら、何かが終わる気がする。でも、もうどうしようもない。私はお湯の中に足を入れた。「ふふ、狭いね」密着して腕が当たる。足が絡む。お湯の中で千紘の体温がダイレクトに伝わる。狭すぎる。これ、無理。湯船の狭さの問題じゃない。そういう問題じゃない。どうしてこうなった。「律、顔赤いよ?」当たり前だ。どう考えてもお風呂のせいじゃない。頭がボーッとしてきた。何かが鼻からーー。


「……律、鼻血出てるよ?」


 ーー現実に戻る。


 ……えっ? えっ? えっ? いや、ちょっと待て、待て待て待て、何これ、どういうこと? えっ? 私、お風呂にいたんじゃなかった? いや、目の前、千紘の家の玄関? えっ? 服、着てる? えっ、えっ、えっ、ちょっと待って、本当に待って。つまり、全部、妄想? えっ、でも鼻血は本当に出てる? いや、そんなわけが……


「律!? 鼻血すごいけど!?」


 千紘が慌ててティッシュを持ってくる。


「ちょっと! ほら、上向いて! もう、どうしたの!? どこかでぶつけた!?」


 いや、違う。そうじゃない。でも、説明できない。いや、こんなの説明できるはずがない。


「とりあえず、こっち座って! もう、鼻血出しちゃうなんて……だから、早くお風呂入ろ?」


 もう、何も言えなかった。

 私は黙って千紘にされるがままになった。

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幼馴染が過保護で困る さわじり @oshiriwosawaru

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