耳かきされたら、宇宙が見えた

 休日の昼下がり、私は千紘の家にいた。


「律、耳かきしよっか?」


 唐突な申し出に、私はわずかに眉を動かした。


「別にいい」

「じゃあ、はい、こっち向いて」


 千紘は私を促すと、当然のように自分の膝をポンポンと叩いた。


 ……膝枕だ。

 あまりにも自然すぎて、一瞬思考が停止する。


「遠慮しなくていいからね」

「別に遠慮はしていない」


 静かにそう言いながら、私は何でもないように頭を千紘の膝へ乗せた。


 肌がじんわりと温かい。太ももは柔らかいのにしっかりしていて、支えられている感覚がある。


 だが、私は冷静でいた。


「動かないでね」

「ああ」


 千紘が小さな耳かきを持ち、私の耳にそっと触れる。

 くすぐったい感覚がする。


 耳の中に細い木の感触が入り込み、ゆっくりと動く。優しく、慎重で、繊細な動き。


 だが、私は冷静でいる。


 静かに目を閉じる。


 千紘の膝の感触、肌の温もり、手の優しい動き。それら全てが揃った環境で、私は淡々と耳かきを受けていた。


 私はとても冷静だった。


 そのとき、千紘の吐息が私の耳にかかった——。 


 あ、終わった。いや、違う。そもそも膝枕の時点で終わっていた。なぜ耐えられると思ったのか、冷静を装えると思ったのか。おかしい。ありえない。まず、膝が柔らかすぎる。適度に張りがあって、それなのにふわっと包み込む感触がある。支えられているという安定感が、逆に意識を狂わせる。こんなに体を預けていいのかという不安と、もうこのままでいいのではという甘えが同時に襲ってくる。普通の膝枕ではない。完全に私をダメにする膝枕だ。しかも、千紘の匂い。甘い。柔軟剤の香りか、それとも千紘そのものの香りか。意識しようとしなくても、すぐ近くにあるから勝手に嗅いでしまう。呼吸のたびに、ふわっと香る。それが安心感を生む。でも、落ち着いてはいけない。落ち着くと、もっと沈み込んでしまいそうになる。だめだ、ここは安全な場所ではない。さらに、耳かき。これは本当にただの耳かきなのか?千紘の指が耳に触れるたびに、そこだけ意識が鋭敏になっていく。木の先端がほんの少し皮膚を撫でるだけで、頭の奥がざわつく。やさしく、ゆっくりと動く感触が、じんわりと広がる。これはまずい。耳はこんなにも敏感な部位だったのか?いや、違う。千紘がやっているからだ。何も考えずに受け入れていたが、これは危険だ。危険信号を出さなければならない。とどめは吐息だ。耳元にふっと吹きかかる、湿った温かい空気。皮膚が反応する。粟立つ感覚が全身を駆け巡る。心臓が急に跳ね上がる。呼吸のリズムが狂う。温度がじんわりと残る。耳の奥が火照る。背筋が震える。鳥肌が止まらない。

 その瞬間、私は想像してしまった。千紘の柔らかい唇。ほんの少し開かれた、形のいいピンク色の唇。その唇が、私の耳たぶにそっと触れるところを。ダメだ。これはまずい。いや、違う。まだセーフだ。触れられていない。まだ現実には起こっていない。大丈夫だ。大丈夫なはずだ。しかし、私の思考は暴走する。千紘の唇が、私の耳に触れる。そして、さらに、その舌が、ゆっくりと這うように、耳をなぞる。濡れた感触が広がる。舌のざらつき、熱、湿り気。耳の縁をなぞる感触が、じわじわと肌の奥に浸透していく。千紘の呼吸が耳の奥に流れ込み、ぞくりとした感覚が背筋を伝う。これはただの思考、現実ではない。うん、これはまだ理性で抑えられる。きっと。多分。いや、どうだ? なんかもう危なくないか? え、ダメじゃない? ダメだろ。絶対ダメなやつだろこれ。これはもう無理だ。頭が回らない。思考がまとまらない。いや、そもそも何を考えていた? 私、何を考えていた? 何をしていた? なんで膝枕されてたんだ? なんで耳かきされてたんだ? なんで千紘のことを考えていたんだ? なんで耳に吐息をかけられただけでこんなことになってるんだ? ああ、崩れる。全てが崩れる。私はもう、私ではいられない。身体が熱い。耳が熱い。頭が熱い。もう、何も考えたくない。意識が溶けるみたいに、ぐらりと揺れる。どこまで落ちるのか、もう分からない。無理だ。これは無理だ。絶対に耐えられない。これはもう耳かきではない。これは完全に——。


「……律?」


「……もういい」


「え? まだ途中なのに」


「いい」


「でも、あと少し……」


「いいから」


 私は身を起こし、距離を取る。


 自分がまともに思考できないことを、自覚していた。

 こんな状況で冷静でいられるはずがない。


 私はゆっくりと深呼吸をする。


 ……また負けた。

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