微笑みと涙

イーゼルには、一枚のキャンバス。

微笑みと涙を湛えた、完成した肖像画。


——彼女は筆を持っていた。


白い指先は、ゆっくりと筆を握りしめる。

筆の先がキャンバスに触れ、かすかな線が描かれていく。


それは、彼女にとって初めてのことだった。


指が震えていた。

けれど、その筆は迷わなかった。


キャンバスに浮かび上がるのは、一人の女性の姿——

穏やかな微笑み。

その頬には、一筋の涙が伝っていた。


——隣には、涙をこぼす彼の姿。


微笑みと涙——

そこにあったのは、確かに「感情」だった。


彼女は筆を止めた。


「……完成しました」


静かな声が、空気に溶けていく。


キャンバスに描かれていたのは、笑顔の女性と隣で嬉しそうに涙をこぼす男性。


「……セラ……そしてレト……」


彼女は静かに目を伏せた。

頬に、かすかな熱を感じる。


涙だった。


彼女は驚いたように目を見開く。

そっと、その涙に触れる。


「……なぜ……?」


理解できない。

「痛み」は理解していた。


でも、この涙の意味は——


「アリア」


彼女は息をのむ。

——今、確かに声が聞こえた。


「……レト?」


「完成したな」


聞きなれた声に振り返った。

けれど、そこには誰もいなかった。


しかし、確かに彼の声がした。

キャンバスの中に描かれた彼の表情が、かすかに揺れたように見えた。


「ありがとう……」


——彼女は、目を伏せた。


理解できなくてもいい。


分からないから——不完全だからこそ、感じることができる熱。


この胸の奥に滲む熱は、確かに「感情」だった。


それが「人間の心」なのかもしれない。


「不完全だからこそ……」


彼女の唇に、かすかな微笑みが浮かぶ。


「……美しいのですね」


カーテンが揺れる。

朝の光が、静かに彼女を包み込んだ。


彼女はゆっくりとイーゼルから離れる。

肖像画の二人は、静かに彼女を見つめていた。


「ありがとう……レト」


その声は静かに消えていった。


——朝の光が、そっとキャンバスを照らしている。


微笑みと涙。

それは、確かに彼女の中にあった。


静寂が、穏やかに満ちていく。

そして、朝の風が静かに吹き込んだ。


——欠けたものが、すべてを満たしていた。

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欠けた肖像 東本西創 @wevi2460

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