追憶
羅貝愛斗
追憶
そいつは不思議なやつだった。
俺のクラス・6年2組に転校してきた男だ。無口でガリ勉、分厚い眼鏡をかけており陰キャと呼ぶにふさわしい見た目だった。転校してきて一ヶ月経ったというのに未だ友達らしき人はいない様子で、今日も難しそうな本を教室の隅で読んでいる。
寡黙で関わりにくく裏では渾名で呼んでいるのを見かけることはあったが、特段クラスでいじめるようなことはなかった。半年後には卒業だし、正直、気にすることもないだろうと思っていた。
では何故いま、俺が彼のことを気にしているのか。
可哀想とか同情とか正義感ではない。
「あっ、
そいつはマンションの屋上から身を乗り出し、帰路に着く俺に手を振った。今日も呆れて溜息をつく。
彼の引っ越し先は、俺と同じマンションだったのだ。
「昴くん、おかえり。今日は遅かったね」
マンションの屋上の扉を開けるやいなや、そいつは俺に喋りかけてきた。彼はときどき俺が学校から帰るのを屋上から見ているのだ。こんな日々が始まったのは2週間前、住んでいるマンションが同じと分かると、俺に屋上で話そうと誘ってきた。最初は面倒くさかったので勿論断っていたが、帰り道で会う度に何度も誘われたため観念し、最近は話し相手になってやるのも悪くないなと思い、菓子を摘みながら雑談している。
「
買ってきたポテトチップスの袋を開けながら言う。俺は壮太とは教室で滅多に話さない。傍から見ればなんの接点もなく、俺たちを繋ぎ止めているのはこの時間だけだった。
「だって、昴くんは明るくてスポーツもできてクラスの中心にいるから。学校で僕に話しかけられたら迷惑でしょう。場を弁えてるんだよ」
じゃがりこを摘みながら壮太は言う。皮肉にも確かに、と納得してしまった。クラスの中で、俺には俺の居場所があって、壮太には壮太の居場所がある。そこには透明な膜が、しかし確かな隔たりが存在している。学校とは大きな箱であり、小さな社会なのだ。
「あ、壮太。今日の宿題って何だっけ?」
「今日は算数のプリントと漢字ドリルだね」
「やりたくねぇ…。どうせ壮太はもう終わってんだろ」
「学校でやれば終わるからね」
「うぜぇ。俺のもやってくれん?」
「やだよ。このあと英検の勉強あるんだから」
「英検? えー、俺まだ受けたことないよ。やっぱ壮太はすげぇな。学校でも勉強してるから絶対合格するじゃん」
「え…いや、まだ全然足りてないよ」
壮太は褒められ慣れていないのか、不器用にぎこちなく笑って、また黙った。俺はそれを見ながら、真っ赤に染まった空に目を向けた。夕日がだんだんと西に沈みかけていて、淡く眩い光が照りつける。
その視線につられたのか、壮太も思い出したように顔を上げてゆっくりと立ち上がり、屋上のフェンスに向かって歩き出した。夕日が街で一番背の高いマンションに差し掛かったとき、壮太は必ずフェンスに寄りかかってじっくりと夕日を眺める。もはや日課のようなものだった。
俺も無言で歩いて壮太の後を追う。フェンスのそばに2人並んで立った。壮太は一歩前に出て、フェンスに手をかけて遠くの地平線をじっと見つめている。俺は黙って彼の隣に立っていた。
しばらくの間、ただ沈む夕日を眺めていると、壮太が突然口を開いた。
「昴くんは、この時間、何を考えてるの?」
その問いに、俺は驚いて顔を向けた。
「え? 俺は…なんだろ、別に考え事してないけど」
「そっか…」
壮太は深く息を吐いた。溜息というより、それはどこか安心したような呼吸だった。
「僕はね、こうやって夕日を見てると、よく考えることがあるんだ」
「考えること?」
「うん…たまにね」
風が幾分か強くなって、髪の毛が舞い上がる。壮太は夕日を慈しむように目を細め、少し黙ってから続けた。
「死ぬこと」
「……は?」
「今、死んだらどうなるんだろうって、考えてる」
「それは……なんで?」
「うーん。端的に言うと、この世の美しさを感じるため」
壮太は夕日を見つめたまま答える。『美しさを感じるため』、頭の中で反芻するが更に理解不能が加速するだけだった。どうして壮太がそんな感覚に引き寄せられるのか分からない。ただその言葉がどこか痛いところに触れて、心の中に小さな冷たい波を立たせた。
「昴くん、芥川龍之介を知ってる?」
「まあ、一応」
「じゃあ、
「知らん」
俺があまりにも即答しすぎたので、壮太はふっと顔を綻ばせた。
「あはは、そっか。それは簡単にいうとね、死ぬ直前に世界が美しく見えて、あらゆるものに愛おしさを感じるってことなんだ。芥川龍之介は遺書にそれを書き残して、自殺した」
死、世界、美しさ、遺書、自殺。不慣れで重苦しい情報が一気に押し寄せてきて、それらを咀嚼して呑み込むのに時間が掛かった。壮太の死の想像と、美しさの感受をどうにか脳内で結び付ける。
「えっと……ってことは、お前は死ぬことを想像して、末期の眼?…を感じようとしてるってこと?」
「うん。本当、その通りだよ」
壮太は自分に呆れたかのように笑った。でも涙を堪えているような顔だった。彼が笑うとき、どうしてもその表情にある微妙な感情が見え隠れする。
「ほら、見て。昴くん」
俺は壮太の見つめる先に視線を移した。夕焼けが広がり、雲がオレンジ色や紫色に染まり始めていた。空気の一瞬一瞬が息を呑むほど美しい。彼に出逢うまで見過ごしていたこの景色が、今は自分の中で特別な光を放っている。
「空が綺麗だ」
心地よく鼓膜に響いた感傷的な声が、静かに心を揺さぶった。壮太の顔が斜陽に照らされ、ほんのり赤くなっていく。普段の学校で見る硬い印象と違って、どこか柔らかくなったその姿は、まるで太陽の温もりを吸い込んだようで美しかった。でもそれは儚い美しさだった。死を感じさせるような、そんな美しさだった。
「…僕、親の都合で転校が多かったから、新しく友達を作ってもすぐに別れることになっちゃってさ。それに転校生ってだけで目立つし、馴染めなかったら普通にいじめられてた」
あまりにも唐突だったその瞬間は、何かが零れ落ちているように感じた。壮太がこんな話をするのは初めてだ。返す言葉が見つからないほどの内容なのに、壮太は淡々と口にしている。何度も別れを重ねてきた孤独が、そこから生まれた諦念が、灰色の水彩絵の具のように滲んで溶け出していた。
気の利いたことの一つも言えない、俺は壮太の横顔を眺め続ける。
今、君はその
「昴くんとマンションが同じって分かったとき、嬉しかったんだ。本当はずっと話してみたかったから。最初に断られちゃったときはどうしようかと思ったけど、半年もすれば会えなくなっちゃうから嫌われてもいいやって、ダメもとだったよ」
「え? 半年って…」
「小学校卒業したらまた引っ越すんだ。中学は別のところに行くから、昴くんともお別れだね」
絶句、した。
ただ自分が焦っている気がした。ゆっくりと流れていたはずの時間が急速に動き出し火花を散らす。どくどくと血の巡りを感じ、鼓動が穏やかな風と反比例する。
心の奥で燻っている何かが、溢れて止まらなくなりそうだった。
「じゃあ昴くん、もう暗くなるから帰ったほうがいいと思う」
「…ああ、またな」
既に夕日は半分以上溶けて地平に吸い込まれていた。頭上には薄っすらと半月が浮かんでいる。俺は
「壮太!」
咄嗟に引き返し腕を掴んだ。彼は微かに驚いて振り返ったが、あまり顔色は変わらない。その曖昧な表情からは何も読み取れない。
何と言おう。何を言えば、この行き場のない空虚感を拭えるだろうか。同情や正義感でないなら、この胸が詰まるほどの感情はなんだろう。
浅く息を吸い、ぽつりと言葉を吐き出す。
「……死ぬなよ」
怖かった。
今、もしこの手を離したら、壮太が消えて何処にもいなくなってしまうんじゃないかと思った。細くて白くて壊れてしまいそうな腕、そこから微かに伝わる体温だけが、彼の存在を感じさせる。ああ、彼も生きているのだと、俺と同じように日々悩んで苦しんでいる1人の人間なんだと、そんなことを思った。
誰かの目を気にして、誰かの偏見に塗れて、誰かの作った想像で勝手に距離を作っていた。
『居場所』なんていう薄っぺらなスクールカーストも、本当はどうだっていいものだ。
俺は壮太とちゃんと向き合いたい。
せめて卒業するまでは、ここで話し続けていたい。彼の思い出の一部になりたい。
数秒の沈黙、茜色に染まった世界で、壮太の返事が聞こえてきた。
「うん、ありがとう。また明日」
彼は笑っていた。
そこにいつもの哀しみや儚さはない。12歳の少年らしい、屈託のない笑顔だった。
風が吹きつけている。まるで祝福のような、生まれ変わったような気持ちが、2人の間を流れていく。
その日の空は、何処までも美しい燈火を描いていた。
追憶 羅貝愛斗 @Ragai19
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