〜sublimation〜

愛世

sublimation

「あっ……」

「……あ……」


 笑い声が溢れる雑踏の中。週末の歓楽街、真昼の陽射しがアスファルトに落ち、じんわりと熱を帯びた空気が肌を撫でる頃。カフェの前で待ち合わせをしていた私の前に、不意に現れたのは――三年前に別れた元カレだった。


「……久しぶり……だね」

「……うん」


 ぎこちない会話。無理もない。別れてから、一度もまともに話をしたことがなかったのだから。


 私――有田菜々ありた ななと、彼――瀬戸奏汰せと かなたくん。

 付き合っていたのは高校二年生の時。彼の告白から始まり、そして、たったひと言で終わった、そんな短い関係だった。


「びっくりした。高校卒業してからだから……二年ぶり、かな?」

「……だな。お互い地元にいるのに、今まで全く会わなかったから」


 ……私が地元の大学に進学したこと、知ってたんだ。

 彼もまた、別の大学に進んだと、風の噂で聞いてはいたけれど。


 改めて、彼の顔をまじまじと見つめみた。

 私の記憶にあるのは、学ランを着た、少年と青年の狭間にいた彼の姿。笑うと少しだけ八重歯が覗き、真剣な顔をする時は眉間に小さな皺が寄った。そんな些細な仕草すら、今の彼には見当たらない。


 髪は少し伸び、学ランの代わりにラフなTシャツとジーンズ。成長したせいか肩幅も広くなり、見慣れたはずの顔が、妙に遠いものに感じた。


 交わす言葉は少なく、私達の間に横たわる沈黙を埋めるように視線を彷徨わせた。


 行き交う人々の話し声。

 遠く響く車のエンジン音。

 カフェの中から洩れる、コーヒーと甘いシロップの香り。


 どれも、今ここに流れる時間の一部なのに、私達だけが過去に取り残されたような気がしてしまう。


 そんな空気を破ったのは、彼の方だった。


「……あの時は……ごめん」

「……え?」


 かすれた声とともに、彼は突然、深く頭を下げた。


「俺……自分の気持ちも分からないまま、君を巻き込んで、傷つけて……ずっと謝りたかったんだ。本当に……ごめん」


 ふと蘇る記憶。


 ある夏の日。

 隣のクラスだった彼に突然告白されたこと。

 初めての告白に舞い上がり、二つ返事で「うん」と頷いたこと。

 ――そして、たった数日で彼が別れを切り出したこと。


 あの時の私は、ただひたすら彼を責めていた。


 ――どうして?

 ――なんで?

 ――好きって言ってくれたのに?


 だけど、今なら分かる。

 あれは誰のせいでもなかった。ただ、私達は幼すぎただけだった――。


「……ねぇ、瀬戸くん。あれから……ちゃんと伝えた?」


 私の問いに、彼は一瞬だけ表情を曇らせた。けれど、私が責めているわけではないと気づいたのか、やがて安堵の色を浮かべた。


「……ああ。今は、一緒にいるよ」


 少し照れくさそうに、けれど、どこか誇らしげにそう言った彼。その言葉を聞いて、私はようやく過去から解放された気がした。


「……そっか。ずっと気になってたんだ。上手くいってよかったね」

「……ありがとう」

「あ、もしかして今って――」

「うん、彼女とデート中」

「……は?」


 あっけらかんと放たれた言葉に、思わず目を丸くした。


「ちょっと何してんの!? デート中に元カノと話し込む彼氏なんてどこにいるの!? 早く戻りなさい!」

「う、うん……」


 変わらない。そういうところ、相変わらず鈍いんだから。


 困惑した様子の彼の背中を押し、私は彼をいるべき場所へと送り出した。

 すると、彼はふと振り返った。


「――ありがとう、有田さん」


 不意に蘇る、高校時代の記憶。

 夏の教室。照りつける陽射し。頬を染めながら、少し緊張した声で名前を呼ぶ彼。


 でも、今はもう違う。

 私達は過去を通り抜け、それぞれの道を歩いている。


 彼は私に背中を向け、大切な人のもとへと去っていった。


 たった数日間だけの恋人。

 キスも、手を繋ぐことさえもなかった元カレ。

 ――私を好きだと思い込み、心では私と別の子を重ねていた彼。


「……バイバイ」


 ようやく私は、彼を過去にすることができたんだ。


「――菜々!」


 小さくなっていく彼の背中を見送る私の名前を呼ぶ声。振り返ると、息を切らせながら駆け寄ってくる男性の姿があった。


「菜々、お待たせ!」


 笑顔で私を迎える、今の恋人。

 恋に臆病だった私を救い出してくれた人。

 優しくて、不器用で、けれど真っ直ぐで、太陽のような笑顔が似合う人。


「もう、遅いぞ!」


 ――ねぇ、瀬戸くん。あなたがいたから、今の私がいるんだよ。あの数日間があったから、私はこんな素敵な恋に出逢えたんだよ。


「罰として、今日のランチ、デザート二品だからね」

「ははっ、もちろん。二つでも三つでも奢るよ!」

「おっ、言ったからね!」


 ――ありがとう、瀬戸くん。

 今日、あなたに会えて、よかったよ。


 さようなら、私の初恋……。

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