先生の声とクレーン音
草森ゆき
先生の声とクレーン音
こつん、こつんと音がして、それが「先生」と初めて交わしたやり取りだった。
おれは押し入れの中にいる時間が多い子供でいわゆる虐待児だったけど、先生がいたから虐げられ切って尽きはせず、今日こうやって外の道を歩けている。夏で、暑い。蝉が激しく唸り続けている。
子供時代の住まいだった市営団地まで後少し歩く。見えている細長いクレーンと崩されつつある旧棟が、強い日差しの中で陰っている。
『こつん、こつん』
腹部と首の痛みに気絶しかけていた時にこの音は届いた。
おれはひたすらに朦朧としていた。押し入れの薄暗さも相俟って今どこで何をしているのかがわからなくなっており、聞こえた音は夢の類だろうと無視しかけたが、こつん、こつんはふたたび届いた。
右腕は痺れていたが左腕は動かせたため、壁に折り曲げた指の第二関節を一度当てた。ごづり、と不器用な音が鳴った。壁を隔てた向こう側から息を吸う音が聞こえて、今思えば幻聴かもしれないがコミュニケーションは開始した。
「平気か?」
こつん、ではなく、声が、聞こえた。男性の掠れた声だった。おれは迷ったが、すがりたかった。何でも良いから痛みを誤魔化したかったし、助かりたかったし、見つかりたかった。母親に絞められた首と父親に蹴られた腹について誰かに知ってほしかった。
「平気、……じゃない」
小さく掠れた声が出た。向こうに聞こえなかったかもしれないと思い、身を捻って壁に額を押し付ける格好になったタイミングで、お父さんに? と問い掛けられた。
「お父さん、は、おなか蹴る……」
「……お母さんも、何かするん?」
関西弁、と思いながら、
「今日は、首絞めた……」
返事をすると、二秒ほど間が空いた。
「それは、つらいな」
つらかった。けれども言葉を重ねられなかった。この時のおれは毎日の暴力について助かりたかったが、同時に仕方なく受け入れるべきことだとも思っていた。おれは不出来だった。学校の宿題がなぜだか出来ず、授業中の先生の話が耳に届かず、黒板は遠かった。運動は音痴ほどではないが秀でているわけでもなく、図工や音楽も並だった。少し劣ってすらあった。
それを銀行員の父親は嫌がり、事務のパートをしている母親は責めた。うまれた子供には血に関わらない突出した才能があるべきだと二人は考えていたらしかった。
自分の無才が悪いのだ。いつもそう結論づけて、思考の暗がりに落ちていた。
「大丈夫か?」
おれの無言に向こう側の彼が更に連ねた。
「そっち、助けに行こうか? 助けてくれる人とか、そういう大人の人の団体、いくらでもあるで。きみが呼んで欲しいんやったら、」
「呼ばないで、欲しい」
「……なんでや? 平気ちゃうんやろ?」
「平気じゃなくても、平気にしておかないと、ダメなんだ……まだ……」
しばらく彼は沈黙した。何を考えていたのかはついぞわからなかったけど、おれに付き合うことにしてくれたのだとはすぐにわかった。
「つらい話、聞いて欲しかったらコンコンしな。俺、夜やったらここにおるから、いろいろ話そ」
提案には是非もなく飛び付いた。
おれはおれを支えてくれて、話を聞いてくれて、最後にはここから出してくれたこの人のことを、三日もすれば自然に「先生」と呼んでいた。
古い棟はクレーンによって斜めに切り崩されており、足元に溜まった瓦礫の上には強く粘ついた太陽光が降り注いでいた。作業員が数名、棟の日陰に腰を下ろして握り飯をかじっている。
昔におれや先生が住んでいた棟の取り壊し予定はない。ただ、古めかしさは昔から健在だ。エレベーターは扉もボタンも動きが鈍く、焼けた色の錆が浮いていた。
先生の部屋は、実質空き部屋になっている。
鍵はかかっておらず、ドアノブは引くと素直に回った。蝶番が痛みを堪えるような音を出す。
「先生」
おれの呼び掛けには線香の煙が答えた。扉の開閉による風の動きが、真っ直ぐ伸びていた白煙をゆらりと揺らした。おれの前に誰が来ていたのかはわからない。入室すると線香の香りに混じって少しばかり洗剤の匂いがした。
先生の元奥さんかもしれない。
両親に暴力や暴言を受けたあと、おれは反省しろと怒鳴りつけられ押し入れへと放り込まれた。その時に、大きな声を出さないよう気を付けながら、壁の向こうの先生に話し掛けた。ごつりと不器用に壁を叩き、返答がなければあきらめて目を伏せる。こつん、こつんと器用な音が返ってくれば、壁伝いにひっそりとコミュニケーションを取り始める。
先生はなんでも聞いてくれたが、おれが然程声を出せないこともあり、基本的には色々と話してくれた。
記憶によく残っているのは、学校の授業についてだ。
おれは授業が妙に苦手で、教師の声を聞き取れず、黒板はうまく読めなかった。それを話すと先生は勉強をさせてくれるようになった。大まかな範囲を聞き、おれのためにわざわざ準備してくれた教本の内容を口にし、わからないと言えばわかるまで何度も教えてくれた。三角形、四角形の計算方法や、童話に近い物語の肝の部分、昆虫や植物の大まかな生態などをゆっくり、しっかり、壁伝いに、聞かせてくれた。
なぜだか、先生に教われば案外と安易に覚えられた。それついて先生はこう言って、当たっていた。
「そういう子供、おるらしいねん。……いや子供だけの話ちゃうけども、人間っちゅうのは……五感のどこが一番敏感なんか、人によってまったく違うもんなんや。お前が黒板をうまく見られへんのは、視覚が優位ちゃうからかもしれん。得意やない視覚を動かそうと頑張り過ぎて、聴覚がうまく動かせへんのかもしれん。ここで俺と話しとることを覚えられるんは、暗い押し入れで目え使わんようにしながら声だけ聞いてるからかもしれん。まあ、ぜんぶ適当な予想やけどな。なんにせよ今は勉強できとるんやからそれが一番や」
この時はよくわからないまま頷いただけだったが、大人になってからは理解した。おれは視覚より、聴覚が鋭かった。父親の怒りに満ちた顔よりも、母親のヒステリックな怒鳴り声の方が、体を芯から震わせ怖がらせていた。
しかし、怒りの表情も声も、あまり遭遇しなくなっていた。前述の通りに成績が少しずつでも上がっていたためだ。押し入れに放り込まれる回数も、減ってはいた。とはいえこちらに暴力暴言が向かわなくとも両親自体の仲が悪く、大声で喧嘩を始める日も少なくなかったから、結局おれは逃げるためにも自主的に押し入れへ入り込んでいた。
それに、話がしたかったし、話が聞きたかった。
おれにとってはおれを待っていてくれる先生が、最も頼れて唯一縋れた、大人の人だったのだ。
「先生……」
「うん?」
「ありがとう、ございます」
「わは、改まらんでもええよ。次は何の勉強しよな、何でも頑張って教えるで」
顔を見たこともないのに、頭の中で満面の笑みの先生らしき人物を思い浮かべた。視覚が然程優秀ではないためぼんやりとした像だったが、おれの「先生」として佇む彼の姿は誇り高くて絶対的で、妄想に近い想像だからこそ独りぼっちなおれの心は慰められた。
先生と話せなくなったのはおれが中学生になった頃で、両親の離婚が決定した後だった。
小さな仏壇の前に正座した。線香が随分短くなっているため新しいものへすげ替えてから、先生のために両掌を綿密に重ね合わせた。蝉の声が常に大きい。部屋の中は籠っており、蒸し蒸しと沸いている。埃っぽさはない。車の排気音、住民らしき人物の話し声、近場の工場からのドリル音、団地内から響く扉の開閉音に足音にくしゃみの音に……。
近付いてきた足音がおれのいる先生の部屋の前で止まった。鍵をかけていなかったため、扉に鍵を差し込んだ誰かは一瞬止まった。
しかし引かず、中へと入ってきた。おれは目が合うなり体の方向を変え、床に手をつきながら頭を下げた。相手が息を呑む音が大きく聞こえた。
「……あいつを、先生って呼んでた子?」
「はい、そうです」
即答の肯定に、先生の元奥さんは溜息混じりの息を吐いた。
「この部屋の料金、いつ切れるの?」
次いで問われた言葉には、今年いっぱいです、と返答した。
中学生になったおれは先生にとにかく会いたかった。母親に連れられて多少離れた都道府県に越してしまったため、団地どころか県にすら行く機会が失われたのだ。しかし、おれは戻りたかった。先生の話を聞き、おれの話をして、縋りたかった。先生への感情は尊敬や親愛を緩やかに越えて依存と呼べる段階になりつつあった。
勉強の問題はほぼなくなっており、母親のおれへの態度は緩和していたため、故郷である県に遊びに行きたいという願いは比較的安易に聞き届けられた。
中学一年生の冬休みだった。母親はついてこず、おれは初めて一人で県外へ出た。団地までの道は覚えていた。市営のバスに乗り、程近いバス停で降車して、聞き覚えも見覚えもある光景の中を早足で歩いた。冬なので寒く、肌が痛かった。構わず団地内へと滑り込み、おれは先生のいる部屋まで向かった。
「先生!」
呼び鈴と共に叫んでいた。応答はなく、焦りつつ更に数回、呼び鈴を押した。ブブブ、と低いブザー音が何度も響き、それが五回を越える頃、隣であるおれの住んでいた部屋から草臥れた顔の男性が現れた。一瞬わからなかったが、父親だった。こちらを見るなり片眉を上げ、先生の部屋の扉を面倒そうに見た。
「そこ、空き部屋だよ」
「え?」
「ご主人入院したらしいけどね」
絶句するおれを哀れに感じたのか、父親は知っている情報をほとんどすべて教えてくれた。
先生はおれが引っ越した後に難しい病気になった。部屋を引き払い、奥さんと共に治療できる病院付近へと引っ越して、その後の行方はわからない。金銭面の関係で奥さんとも離婚したと聞いた。隣に住んでいたからか自分の部屋に挨拶に来たが、子供と嫁がいないと気付いた時には変な顔をされた。知り合いだったのか。あの女、浮気してやがったとかないよな。
ここまで聞いたところで、父親に話は止めさせた。おれはすぐにその場を離れ、団地の管理人さんに話を聞きに行き、父親の話が概ね合っていると裏付けを取った。
先生のいる病院は県外らしいが、詳しい場所は教えてもらえなかった。でも病名は知れたため、おれは中学、高校と行きながら、その病気の治療に適した病院を虱潰しに探し続けた。
見つけた時には大学卒業間近で、先生はもう死んでいた。
おれが先生のために出来ることはほとんどなにもかも残ってはいなかった。
ごとん、ごとんと、大きな音が響き始めた。旧棟を潰しているクレーンが動き始めた音だ。おれと先生の元奥さんの無言の間を無遠慮に通っていったが、お陰で一つの区切りにもなった。
おれは正座をほどいて立ち上がり、鞄から契約書を取り出した。この部屋を借りた時のものだ。元奥さんに内容を見せ、彼女は真剣な顔で文字を読み、おれはちゃんと黙った。ごとん、ごとんと、クレーンだけが強く鳴った。排気音も話し声も蝉時雨も飲み込まれて消え失せた。先生。おれは仏壇を見下ろしながら話し掛ける。先生、先生。返事はないけどするどい聴覚が確かに捉える。
『こつん、こつん』と、おれを救った音の並びは、この部屋の壁から生み出されたのだとおれだけは聞くことができている。
元奥さんが顔を上げ、契約書を差し出し返してきた。おれは受け取り、鞄にしまい、部屋の窓へと視線を向けた。
ちょうどよくクレーンが止まって多少の静けさが訪れた。元奥さんが口の端をわずかに上げて眉をひそめる、複雑な目線の表情を浮かべた。
「……あいつ悼むためだけに部屋借りるん、アホやと思うけどね……」
そう言い残し、頷き程度のかすかさで会釈をしてから、去って行った。おれは背中と足音を見送ってから仏壇の前にふたたび座り直して手を合わせた。ぱちん、と音がした。遺影の中にいる先生は昔におれがした想像の姿とはまったく違う。別に、かまわない。安らかに眠りながらおれに向けて笑ってくれて、おれにとっては『先生』だった事実さえあれば、それだけでかまわない。
「だから先生、あなたが昔おれに勉強を教えながら、奥さんに暴力振るってたとしてもいいですよ」
口にした直後、ごごん、ごごんとクレーンが動き始める。他の音は聞こえなくなり、おれは無意識に息をつく。線香の煙が不規則に揺れた。日差しの向きで暑さが増して、取り壊す音が強く、激しく、団地全部を破壊するように鳴り響く。
その中でそっと目を閉じた。虐待されていたおれに差した光明ごと悼みながら、轟音の中にずっといた。
先生の声とクレーン音 草森ゆき @kusakuitai
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