幻の右

冬野輝石

幻の右

晴れた日の朝には、バンッバンッバンッと

布団を叩く音が周辺に響き渡る1軒の民家がある。


もちろん、ありふれた日常の生活音と言えばそれまでだが

物干し竿にかけた布団を両手のこぶしでサンドバッグ代わりに

叩いているのはプロボクサーの谷口一也たにぐちかずやである。


谷口はプロ4年目で8勝2敗というそこそこの戦績で

KО率もそれほど高くなく、決して目立つ存在ではない。



そんな谷口があるボクサーのデビュー戦の対戦相手として指名された。



その対戦相手というのはアマチュア時代にタイトルを総ナメにし

天下無双との呼び声も高く、ネクストモンスターとして

鳴り物入りでプロデビューすることになる、門下直樹もんしたなおきである。



谷口はこの対戦を自分の名前を売る絶好のチャンスだととらえていて

日々のトレーニングも、いつにも増して気合が入っていた。


試合当日、その日組まれている対戦カードの中で

比較的早い時間帯に行われる試合にも関わらず

話題のボクサーのデビュー戦を一目見ようと

会場には、すでにかなりの観客が詰めかけていた。


両者が入場曲と共にリングに登場すると

会場は熱気と興奮で異様な盛り上がりを見せ始める。


試合開始のゴングが鳴り両者はリング中央で軽くグローブを合わせると

お互いにジャブを出し合い、相手の出方をうかがっている。


門下はベタ足で右の重いジャブを出しながら

ジリジリと谷口をロープ際へと追い込んでいく。


谷口はパンチのパワーはそれほどでもないが

ハンドスピードとフットワークには定評があり


門下に対して左のジャブで威嚇いかくしながら

ダンスを踊っているかのような鮮やかなフットワークで

門下のパワーパンチをうまくかわしてロープぎわから脱出する。


谷口は一進一退の攻防を繰り返しながらも

自分の経験をかし、少しずつ門下の弱点を探っていく。


そのうちに門下が右のジャブを打つ時に左のガードが

少し下がることに気が付いた。


特に距離を置いて遠くから踏み込んでジャブを打ってくる時に

その特徴が顕著けんちょになる。


谷口は少し距離を取って、そのチャンスをうかがっていた。


そして門下が踏み込んでのジャブを打ってきた瞬間

谷口の狙い通り、門下の左のガードが大きく下がった。



『今だっ!』



谷口は待ってましたとばかりに、右のオーバーハンドのパンチを

門下の顔面に向かって思い切り打ち込んだ!



その直後、谷口の視界に入ってきたのは試合会場の天井だった。



門下は谷口のオーバーハンドをダッキングでかわすと

ガラ空きとなった谷口の顔面に得意の左フックをお見舞いしたのだ!


門下が右のジャブを打つ時に少し左のガードを下げるのは常套じょうとう手段で

これで相手の右を誘い込んで、空振りさせたところに

自分の得意の左フックを叩き込む!


この作戦で天下無双と言われるほどの勝利を量産してきたのだ。



リング上で拳を突き上げながら、その強さをアピールする門下

観客は怪物の鮮烈な1ラウンドKОデビューに熱狂していた。


谷口はリング上で大の字に倒れたまま、思っていた。


『門下頼むぞ、必ず世界一のボクサーになってくれ!

おまえが伝説的なチャンピオンになってくれれば

デビュー戦でKО勝利した対戦相手として

おれの名前も永遠にボクシング史に刻まれることになる』


谷口はニヤリと笑みを浮かべながら静かに目を閉じた。

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