ダイバーシティ・ダイバージェンス
柊かすみ
本編
あの夢を見たのは、これで9回目だった。かつてカウンセラーから記録を付けるよう言われ、俺はそれに素直に従っていたから、この回数は確かなものだ。けれど正直、この行為に意味があるとはもう思えなかった。この回数を共有する相手はもういない。定期的なカウンセリングはもう行われていない。俺はすでに社会から「大丈夫」と見做されていた。……それじゃあどうして未だに夢を見るんだろうな。時間が解決するようなものでもないのに、俺には時間しか与えられていなかった。
完全下校時刻まで間もないことを知らせるチャイムの音を聞きながら、部室棟の階段を降りていく。一段、また一段と踏みしめるように。極力遅いテンポで、時間がかかるように。急いでもいいことなんてない。急がなかったらいいことがあるかもしれない。ここは校舎の中で最も昇降口から遠い。時間をかけて歩いていけば、もしかしたら今日こそは……。
俺の家は、高校から西へしばらく坂を下った住宅街にある。通学路の道幅は広く、十分に整備されていて車通りも街灯も多い。ここ数週間で一気に秋めいて日暮れはすっかり早くなっていたが、たとえ完全下校時刻間際の下校であってもまったく支障はなかった。安心安全な通学路。そのような道をわざわざ選んでいるのだから当然だ。けれど、明るく人の多い場所でさえあればなんの問題もなく快適かというと、そういうわけでもなかった。
通学路の途中にある駅はターミナル駅とかいうものらしく、人の往来は盛んで、駅前広場は今もまさに眩しいくらい明るかった。そして今そこには、真っ赤なのぼりと人だかりに囲まれてマイクを握る、スーツ姿の女性がいた。複数本のマイクを器用に左手だけで握りしめ、右手では拳を作り、天に突き上げている。格差、伝統、是正。そういった言葉のたびに、声量は大きくなり、拳には力が込められ、聴衆は手を叩き足を踏み鳴らして応えた。そして、そういった言葉のたびに、俺の心は醜く萎んだ。
「この国からはあらゆる性差別がなくなった——そう主張する人がいる。私から言わせればこんなもの、全くの嘘っぱちだ! 進学率、初任給、生涯賃金。あらゆる場所に男女格差は残っている。夫婦が選択する氏の比率は? 創作物における登場人物の性比率は? プロタゴニスト政策は不完全で、不十分だ!」
時間をかけて歩いていけば、もしかしたら今日こそはこの街頭演説と鉢合わせせずに済むかもしれない……。その考えに基づき、完全下校時刻まで部室に居座って、そのうえでふらふらとだらだらと下校した俺の姿は、きっと間抜けなものだっただろう。まさかこんな時間まで演説し続けているだなんて。こんなことならいつも通りちゃっちゃと家に帰って、ゲームでもしていればよかった。この街頭演説を避けられたのなら、ゲームをする時間が取れないことくらい安いものだが、避けられなかったのなら意味はない。
俺は速歩きでその場を通り過ぎる。これまでのふらふら、だらだらからは不自然なくらいの速歩き。前方に人影。同じ高校の制服の女子生徒。前を歩く彼女を俺は横から追い抜いた。一瞬香る、何かしらの甘い匂い。意識してはいけない。なぜなら彼女は女性で、その香りはおそらく彼女のこれまで抑圧されてきた自己表現で、そして俺は歴史的に抑圧してきた側——男性なのだから。
「すべての『
視界の端、女性政治家は拳で空を叩く。熱量に満ち、激情をたぎらせる……そもそも「激情をたぎらせる」ことを厭わない、強い女性。それは今、テレビで、SNSで、世間で、最も注目を集めるヒーローの姿だった。……俺は脇役でいいよ。だからどうか、ヴィランにはしないで。
車一台が通れるかという狭いその路地に、街灯は少ない。ランドセルにつけられた反射板は両親からの愛情のあらわれだったが、その両親に塾帰りの我が子を送迎するだけの愛情はなかった。しかしそれにボクは気づかない。だからボクは今日も、文句の一つも言わずに歩くのだ。
……ボク? 自らの思考に違和感を覚え、足を止める。俺は俺だ。ボクなんて一人称を使っていたのは小学生の頃の話。「そんなに女々しいから——」と笑われたのが嫌で、それ以来ずっとボクは俺だ。……この格好だっておかしい。見下ろす足元には運動靴。それも紐靴ではなく、面ファスナーのベリベリで留めるタイプのものだ。ランドセルだって、小学生でもあるまいし。俺は今、高校生で——。
ここまで考えて、俺は夢を見ていることに気がついた。何度も見た悪夢の世界。ゆっくりと視線を上げる。少し先の街灯の下で、ピンク色の棒が照らされているのが視界に入った。小さめの棍棒のようで、けれどそうだとするとなぜピンク色? いざなわれるかのように一歩ずつ近づいていく。ここが悪夢の世界だと気づいたからといって、本当はその棒の正体を知っているからといって、何かを変えられるわけがなかった。
路地の影から、こちらを覗く目があった。分厚い冬用コートの下で身体をくねらせながら、今か今かと血走らせた目玉が二つ。視線を下げ、足元。街灯は突然、壊れたかのようにチカチカと点滅を繰り返し、そのたびに光は、ピンクの棒にまとわりついた劣情で反射した。よく見るとその液体はアスファルトの上にも垂れていて、その跡はこちらからそちらへ線を作っていた。目で線をたどり、再び前を向く。
——今も瞼の裏に、その女の裸が焼き付いている。
頬杖をつきながらノートを斜め読みする。早々に昼食を終えた昼休み。俺は教室の自分の席で、次の授業のための復習をしていた。……いいや、復習なんてただのフリだ。眠たすぎて、本当は机に突っ伏して寝てしまいたかった。昨夜は、放課後の大半を部室で過ごしたためにできていなかったゲームをして、その明るいままの部屋で寝落ちしてしまった。きっとそれが祟ったのだろう。悪夢を見て、飛び起きて、眠れなくなった。そのせいで今日は朝からずっと眠かった。あの夢を見たのは、これで10回目になった。
コンコンッと机を叩かれ、そこで初めて俺は彼女の存在に気がついた。どうやらしばらく前から俺の机のそばに立っていたらしい彼女は、やっと視線を上げた俺に、困り眉で微笑みかけた。
「三井さん、いま大丈夫ですか?」
「あ、すいません。ボーっとしていました。大丈夫ですよ、春日井さん」
「そうですか。では少しついてきてもらえますか? ここは少し騒がしいですから」
「わかりました」
当たり障りない丁寧な口調で応対する。ほとんど寝起きのように呆けた脳みそだったが、うまくボロを出さずに済んだ。
席から立ち上がり、彼女——春日井さんの後を追って教室から出る。低い位置で結われた彼女の長い髪が揺れ、何かしらの甘い匂いがしてくる。意識しないよう浅い呼吸をするも、その匂いが昨日と同じものであることには気づいてしまった。あのとき追い越したのは彼女だった。
廊下から階段、そして踊り場へ。今いる校舎西側の階段は東側の階段より利便性が低く、実際、昼休みなのに人通りは少なかった。ぐるりと見回して周りに誰もいないことを確認した春日井さんは、ふぅ、とため息をついたあと、こちらへ柔らかな笑みを向けた。
「いきなりごめんね。教室じゃ、息が詰まっちゃうから」
「大丈夫ですよ。それより、どうかしましたか?」
教室での雰囲気とは打って変わって、朗らかで和やかな声音の彼女。目を細め小首を傾げる姿は、まるで撫でられた猫のようでもある。けれど俺は依然緊張したまま、「当たり障りない丁寧な口調で応対」する。俺にとってこれは、一つの動詞であると言っても過言ではないほど身に染み付いた動作だった。しかし彼女はこれを快く思わなかったようで、頬を少し膨らませる。
「むーっ。せっかく二人きりになれたのに、またその口調? 私は全然気にしないよ?」
「俺が気にします。これからの時代、平等で対等な関係はこれまで以上に重要で——」
「私がタメ口使ってるんだから、三井くんもタメ口でいいんじゃない?」
「いえ、そういう対等ではなく、他のクラスメイトとの対等さといいますか——」
「私達、知り合ったのは小学生の頃でしょ? 他の人よりだいぶ濃い付き合いじゃない?」
「それでも、もし俺達の関係性を知らない他の人もいるところで、タメ口を使うようなボロが出たらよくないですから。ここは変な癖がつかないよう——」
思ってもいないことを口にする。きっと思わなければいけないことだから。自分の「気持ち」を抑え込むようだが、そもそものその気持ちが間違っている以上、これは修正で、矯正で、是正で——。
「『変』なのかな?」
俯く俺に、彼女は問いかけた。自分でも気づかないうちに俯いてしまっていた。こんな様子では、少なくとも彼女には気づかれてしまっただろう。俺が本当は彼女と、他のクラスメイトと平等でも対等でもない関係でいたいことが。けれどその思いを社会的な正しさと天秤にかけて、後者を選ぶ弱さを持っていることが。そして、後者を選びながらもまだ前者を諦めきれず俯いてしまう優柔不断さが。
「ほっぺ、赤くなっちゃってる。教室でずっと頬杖ついてたけど、寝不足?」
「……ゲームをしすぎただけです。自業自得です」
彼女は俺の頬にそっと触れる。自分の頬がこわばったのを感じた。きっと彼女もその手で感じているだろう。けれど、手を離すことはしなかった。……「だからこそ」かもしれないが、俺にはわからない。
「どんなゲーム? 楽しかった?」
「……よくわかりませんでした」
「もしかして、かわいい女の子がいっぱい出てくるゲーム?」
「……だからこそわかりませんでした。どう楽しめばいいのか。SNSで話題だからやってますけど、一週間後にはやめてるかもしれません」
「生真面目だなぁ、三井くんは。うちの兄なんか、部屋にかわいいゲームの女の子のポスター、貼りまくってるくらいなのに。この間なんか、『やっぱプロタゴニスト法なんてない大陸ゲーじゃないと!』って力説してきたんだよ?」
春日井はやれやれと笑って、そのままそっと俺の頬を撫でた。優しい撫で方だったが、それは優しさというよりむしろ、刺激を最小限に抑えようとする配慮のあらわれであるように感じられた。
「……女の人のこと、まだ怖い? 私のこと、怖い?」
「……」
「昨日、駅前で三井くんのこと見かけたよ。一瞬だけだけど、つらそうな顔をしているのが見えた。プロタゴニスト政策……みんなが主人公って、私は嫌だな。だって私は、主人公にはなりたくないから。脇役になりたい。……ね、いいよね?」
なぜ彼女が俺に許可を求めたのか、俺にはわからなかった。
男女共同参画社会の実現を目指す動きは、そもそもの性の多様化(というより、もとより多様なジェンダーの受容)を受けて、裾野を広げる形に作り変えられた。すべての国民は、どんな性でも、どんな人種でも、どんな出身でも政治信条でも地位でも、差別を受けず自由と権利を享有する。誰もが輝ける社会の実現のために定められたいくつかの法は、プロタゴニスト法という俗称とともに受け入れられつつある。
いいや、本当に受け入れられているのかはわからない。本当にすべての国民が無条件で等しく高い進学率、初任給、生涯賃金を求めているのかはわからないし、等しい比率で夫婦の姓が選択されてほしいと思っているのかも、アニメや漫画に登場する主要なキャラクターの性別が現実的に妥当な比率であってほしいと思っているのかもわからない。
しかしそれでも、脇役になりたいという彼女の思いと俺へ求めたその許可は、あまりにも時代錯誤的で、俺には理解できなかった。
俺と彼女が知り合ったのは、小学生だった頃のこと。俺達が通っていた小学校は、今俺達が通う高校から見ると隣町にある。だからこの高校に、俺と同じ小学校出身の人はほとんどいないはずだ。……いないことを見込んでいた。けれど奇しくも俺はここで彼女と再会を果たし、今ではときどき教室を抜け出して話す仲になった。そう、これは再会だった。俺達は一度離れたのだ。
まだ穢れを知らない小学生の頃、俺と彼女は大の仲良しで、親友だった。座学が得意な俺とスポーツ万能な彼女とではすべてが違っていたが、きっと違うからこそ噛み合ったのだと思う。算数を教えてあげたあの昼休み。身振り手振りを交えた俺の渾身の説明に、彼女は思わず笑い出した。結局その日の午後はずっと、彼女は気味が悪いほどの笑顔を浮かべていた。逆上がりを教えてもらったあの放課後。足を持ち上げられてひっくり返されて、俺は恐怖と驚きで泣き出してしまった。慰めてくれる彼女の手はどうしようもなくあたたかくてダメになってしまいそうで、だからこそ俺は意地で逆上がりを習得した。思い返せば、あれは初恋だったのだと思う。
それからしばらく経って。高学年になったんだからと、親は俺を塾へ入れた。彼女との時間は減った。また、ちょうどその頃から男女で仲良くすることをよくないとする雰囲気ができて、彼女との時間はさらに減った。保健の授業の影響か、はたまた当時テレビで連日取り上げられていたプロタゴニスト法制定のニュースの影響か。今となってはわからないが、俺と彼女は違うからこそすれ違った。
そんなある日、露出狂に会った。俺は心を病み、不登校になった。少しでも環境を変えようと引っ越そうとするも、両親の仕事と姉の学業の都合でそう遠くへも行けなかった。けれど隣町の、隣の学区への引っ越しは、希薄になっていた彼女とのつながりを消し去るには十分すぎた。
引っ越した先でもうまくはいかなかった。「そんなに女々しいから狙われるんだ」。小柄な俺に対するガキ大将のその言葉を、先生はこっぴどく叱った。その後、先生の仲介の下、俺とそいつは握手を交わして仲直りしたが、それ以降顔を合わせることはなかった。また俺は不登校になった。
高校生になり、数年ぶりに登校というものをした。その頃にはトラウマもある程度癒えていたし、フラッシュバックへの対処にも慣れていた。そして何より、このまま何もできず過去に縛られ続けているのには耐えられなかった。何かをすれば、何かが変わるかもしれない。変わらなかったら……どうにでもなれ、だ。その漠然とした衝動は危険もはらんでいただろうが、俺も家族も、誰も気に留めなかった。家族にとって俺が登校してくれるようになることは望ましいことで、その裏で俺がどういった思いを抱いているかには興味を持たなかった。
時間が解決するようなものでもないのに、俺には時間しか与えられていなかった。そんな中再会したのが、彼女だった。俺は彼女のことを理解したい。
「ね、昔みたいに名前で呼び合おうよ?」
翌日の昼休み。昨夜は悪夢こそ見なかったが寝付きは悪かったため、今日もだいぶ気だるかった。しかしそれでもきちんとボロを出さずに教室を抜け出せて、こうして彼女と話ができていた。時間に傷ついた心を癒す効果はない。けれど彼女との会話にはあった。彼女こそが、数年間の不登校の中で最も求めていた存在だった。
「それは……無理です。あだ名も下の名前も、校則で禁止されていて——」
「二人きりのときだけでも、だめ?」
「残念ですけど。俺はそういう切り替えが苦手なので」
「そっか」
彼女のその声には悲しみがにじんでいたが、同時に優しくもあった。俺へ配慮で満ちていて、申し訳無さと感謝が混じった、どろりとした感情をいだいた。
しばらく無言が続いた。けれど居心地が悪いということはない。むしろそこには落ち着きと安心があって、押し付けがましい「たぎった激情」なんてものもなくて幸せだった。
……本当は幸せを感じてはいけない。それは理解している。あの街頭演説は、これまで虐げられてきた人たちがついに自立しようとしている、そのムーブメントの象徴だ。それを「押し付けがましい」とか「なければ幸せだ」とかと思うことは間違っている。けれど、それでも。放課後なんて来なければいい。
「私ね、『誰もが主人公』なんて耳障りの良いフレーズで持て囃されるたびに、本当の不平等に苦しむ人の姿を思い浮かべてしまうんだ」
彼女は独り言かのようにそっとつぶやく。
「『平等』って言葉ほど、都合よく使い回されたものはない気がする。味のしないガムみたい。この状況が平等なのか不平等なのか、私にはもうよくわからない。でも、少なくとも社会の言う正しさは、私の求める幸せとは違う気がする。今の三井くんの状況は、社会にとって大丈夫でも、私にとって幸せじゃない。……私ね、三井くんを主人公とする物語のヒロインになりたいんだ」
あたたかかった。本当は喜んではいけないのに。修正が、矯正が、是正が必要なのに。俺は目頭を押さえた。このあたたかさを正しくないと呼ぶことは、どうしてもしたくなかった。社会的な正しさなんてどうでもいいくらい、俺は今、彼女との個人的な幸福を求めていた。ずっとこの時間が続けばいい。
ダイバーシティ・ダイバージェンス 柊かすみ @okyrst
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