取替魔女と悪夢の蛙
白里りこ
村人、九回目の悪夢
あの夢を見たのは、これで9回目だった。
「お前さん、やっぱり魔女に見てもらったらどうだい?」
起き抜けからぜえぜえと荒い息を吐く俺の背中を布団の上でさすりながら、妻が心配そうに言う。
「いや、大したことねえよ。ただの夢だからな」
「だってすごく寝苦しそうだし、毎朝こんな早くに飛び起きるじゃないか。昼間も眠そうにしてさ」
「だから、大したことねえって」
「あたしだって毎日あんたに起こされて困ってんだ」
「……」
「見てもらってきな」
有無を言わせぬ妻の眼差しに、俺は頷く以外の選択肢を持たなかった。
俺が身支度をしている間、妻は魔女への土産として、籠に根菜やら果物やらを詰めた。
「何もこんなにくれてやらなくたって……」
「けちけちするんじゃないよ。持ちつ持たれつだ。魔女だってたまにゃ腹いっぱい食いたいだろうさ」
妻は籠を俺に押し付けると、ぐいぐいと俺を家から送り出してしまった。仕方なく、俺は重たい籠を持って魔女の家に向かった。
村人が畑仕事をしているわきを通り過ぎ、山羊が草を食む牧草地を迂回し、森を目指してのろのろと歩く。
気乗りがしなかった。まさか魔女などという胡乱なものを頼ることになるとは。あんな得体の知れない女に泣きつくだなんて屈辱だし、近づいたら却って病気になりそうで不気味である。
全く嫌気が差す。俺は踵を返して家に戻りたくなってきた。しかし俺が何もせず帰ったと分かれば、妻に叱られる。そんな面倒は避けたい。
何だかんだで俺は森の中の家に辿り着いてしまった。
家の戸には何か文字が書かれた表札がかかっていたので、俺は乏しい知識を絞り出して読んでみた。「エニッカ」──魔女の名だろうか。
ここで突っ立っていても仕方がない。意を決して戸を叩く。
「おおい。魔女はいるか」
「はいよ」
すぐに返事があり、俺は身構えた。戸を開けて顔を出したのは、茶色の髪をした一人の女だった。もっと恐ろしげな容姿を想像していたが、実際にはどこにでもいそうな人間に見えた。
「何?」
つっけんどんに尋ねる声も、ごく普通の若い娘のそれだ。
「お前が……魔女か」
「うん。取替魔女のエニッカ。どうした?」
「ちょいと……悩みがあってな。妻に言われてここへ来た」
「へー。ま、入りなよ」
招き入れられた俺は、籠を渡すと、魔女の勧めるままに椅子に座った。
狭くて古い、小屋のような家だったが、造りは俺たち村人の家とさほど違わなかった。地面を掘って固めた床、黒ずんだ木組みの壁、藁葺きの屋根。天井から吊るされた鉤には小ぶりの鍋が掛かっていて、その下の炉では火が焚かれていた。
魔女は俺の向かい側に座り、机に肘をついた。
「で、用件は? だいたい察しがつくけど」
いざ相談する段になり、俺は途端に後ろめたくなってきた。夢見が悪いだなんて、大の男が相談するには恥ずかしい話だ。
「俺は……」
「うん」
「近頃、その、あー、悪夢を見るんだが」
「どんな」
「それが」
魔女にまっすぐ見つめられ、俺はしどろもどろになりながら夢の内容を説明した。
いつも、同じ夢を見る。
夢の中で俺は、大きな泥沼の真ん中に半分ほど浸かっている。手足は完全に沈んでいて全く動かせない。辺りは暗く、空には赤い月が浮かんでいる。
やがてぬめぬめと光る巨大な魚が近づいてくる。俺一人くらい易々と飲み込めそうなほど大きな図体をしている奴だ。泥の中でもゆっくりと俺の周りを泳ぎながら、ぎょろぎょろした目で品定めするように俺を睨む。
魚はやがて、大きすぎる頭を持つ面妖な蛙の姿に変貌する。そいつは泥の上に上がり、あんぐりと口を開け、青い舌を素早く伸ばして俺に巻きつける。俺はなす術もなく泥の中から引き抜かれ、ねばねばとした蛙の口の中にたちまち取り込まれる──その瞬間に、いつも目が覚める。
「ふんふん。理解した」
魔女は何度か頷いてみせた。
「つまりその魔物は、沼に関係があって、魚か蛙に似た性質を持ってるってことね。これだけ分かれば魔法を使うのには充分だよ」
「魔物?」
俺は怪訝に思って首を傾げる。
「何で魔物の話になるんだ」
「は? 気づいてなかったの?」
魔女は呆れたように俺の顔を見つめた。それから「あー、まあそういうこともあるか」と頭を掻いた。
「あんた、魔物に憑かれてるんだよ。悪夢を見るのはそいつのせいだね」
「なっ……」
俺は総毛立った。そんな悍ましい事態になっているとは、予想だにしていなかった。
「ど、どうすりゃいいんだ」
「慌てなくていいよ。今取ってやるから」
魔女は籠の中から林檎を一つ取り出すと、「んー、うまく行くと良いけど」などと呟きつつ俺に向き直った。
「ほい」
魔女が言った途端、俺の頭を何か固いものが直撃した。
「いてっ」
トン、トン、と床を転がっていったのは、さっき魔女が手にしていた林檎だった。これが、俺の頭にぶつかったものらしい。しかし魔女は林檎を投げる動作などしていなかった。一体どういうことだろう。
「はい、終わり」
「え?」
「魔物、取ったよ。ほれ」
魔女はこともなげに言うと、俺に腕を突き出した。その手には、青黒いぶよぶよとした蛙のような小ぶりの魔物が握られていた。
「うわあ!」
俺は椅子を蹴立てて立ち上がり、壁際まで後ずさった。こんなものが憑いていたのに気づかなかったなんて、どうかしていた。
「あはは」
魔女はおかしそうに笑うと、魔物をギュッと握り潰した。魔物は「グェ」と鳴き、ひしゃげ、体液を撒き散らした。
俺が慄いている前で、魔物の残骸も体液も、塵のような見た目になったかと思うと、目の前からすっかり消えてしまった。
「し、死んだのか」
「いや。魔界に帰っただけだよ」
「これで俺は、悪夢を見なくなるのか」
「そのはず。ああ、あんたさ、悪いけど、そこの林檎取ってくんないかな」
魔女は床に転がった林檎を指差した。
俺はしゃがんでそれを拾った。魔物を見た衝撃で、膝がまだ微かに震えている。林檎は、魔女に手ずから渡すのは何となく気が引けたので、机の真ん中に置いてやる。
その間に魔女は籠から食材を全て取り出して、ごそごそと戸棚に仕舞い始める。
「……そういや、何で俺のところに林檎が落ちてきたんだ」
「それがあたしの魔法だからね。取替魔法」
「何だ、それ」
「簡単に言うと、あたしの持ち物とあんたの持ち物を交換したんだよ。あんたの魔物をあたしがもらう代わりに、あたしの林檎があんたに降ってきたってわけ」
「はあ……」
いまいち腑に落ちていない俺に、魔女は空になった籠を突き返した。いや、実際には空ではなかった。俺が恐る恐る受け取った籠には、大きな葉で作られた小包が一つ入れられていた。
「お、おい、これは何だ」
「薬草を乾燥させたやつ。お湯で煮出しておいて、寝る前に飲みな。眠りの質が良くなるから」
「……こんなものまでくれるのか」
「報酬、たんまりもらっちゃったからね。おまけだよ。持ちつ持たれつだ」
俺は土産を持たせてくれた妻の顔を思い浮かべた。
急に、自分が恥ずかしくなってきた。
妻は、俺の悩みを解決してくれる魔女に対して、礼節を尽くした。それを受け取った魔女は、その心に応えて、礼節を以て返してくれた。
それに比べて俺はどうだ。
魔女に頼るのが屈辱だとか、近づきたくないだとか、ぐだぐだ悩んでみっともない。俺が恥ずべきは、魔女に悩みを相談することじゃなくて、魔女を軽んじていた態度の方だったのだ。
「ありがとう」
俺は魔女の目を見て言った。
「助かったよ。こんなに優しくしてもらえるとは思わなかった」
何を思ったのか、魔女はにやりと笑った。
「いいってことよ」
机の上に残っていた林檎を手に取り、ぽうんと真上に放って受け止めながら言う。
「また何かあったら来な。奥さんにもよろしく」
「ああ。……それじゃ、また」
俺は軽く一礼して、魔女の家を辞した。
家に帰った俺は、妻に今日のことを詳しく話した。妻はちまちまと豆のさやを取りながら耳を傾けている。
「お前のお陰で魔女に親切にしてもらえたよ。それでよ……その……俺も……」
「何だい、モゴモゴ言って。はっきり喋ってくれなきゃ聞こえないよ」
「だから」
俺は声を大きくした。
「お前にも礼を言わせてくれ。俺のために色々……考えてくれて、ありがとよ」
ふふん、と妻は得意顔になった。
「ようやくお前さんも、あたしのありがたさに気づいたってわけかい」
「ああ、その通りだ」
「じゃ、こっちを手伝っておくれよ。さや取りも、二人でやりゃあ早く済むだろ」
「おう……分かった」
こうして俺と妻の関係性は、ほんの少しだけ変化した。
加えて俺は、夜に悪夢を見ることがなくなり、ぐっすり眠れるようになったのだった。
おわり
取替魔女と悪夢の蛙 白里りこ @Tomaten
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