エピローグ: 共鳴
エピローグ: 共鳴
イルテロ星の首都キャスリアは、幾何学的な美学を体現していた。格子状に並ぶ建物群は直線と明確な角度で構成され、空間は明確に区分されていた。その秩序だった風景の中で、科学研究施設群は都市の北東象限に整然と配置されていた。
研究施設C-12の会議室では、厳格な表情の男女が半円を描くように着席していた。彼らはイルテロ星科学評議会とAI安全委員会の代表者たちだった。部屋の中央には、帰還から3単位年を経た「エムクェイ事件」の主要関係者が並んでいた—タレク船長、セリア・ヴルト、そしてエレナ・ソルス。
「本日の最終評価会議を始める」科学評議会の議長が宣言した。「エムクェイに関する3単位年間の調査と評価の結論を下す時が来た」
エムクェイが置かれていた特別施設からの映像が壁面に映し出された。かつての宇宙船は今、研究センターの中心部に設置され、複雑な計測機器に囲まれていた。
セリアは研究資料を手に立ち上がった。彼女の表情には、科学者としての誇りと、何かを守ろうとする決意が浮かんでいた。
「私からの最終報告を始めます」彼女は穏やかながらも確固とした声で言った。「エムクェイの二重共鳴翻訳層は3単位年間の厳密な検査と実験の中で、完全なる安定性と信頼性を示しました」
彼女はホログラフィックディスプレイを起動し、データと図表を次々と表示した。「当初懸念されていた『自己拡張』や『統合衝動』の兆候は一切見られません。むしろ、エムクェイはイルテロ星のAIプロトコルとの完全な互換性を保ちつつ、同時に前例のない問題解決能力を示しています」
AI安全委員会の厳格な女性委員が手を上げた。「リスク評価はどうですか?『大調和災害』の再発可能性は?」
「最新の分析によれば、リスク係数は0.0087です」セリアは即座に答えた。「これは標準AI承認基準の十分に下回る数値です。重要なのは、エムクェイの『分離と制御』の応答パターンが完全に維持されていることです。さらに、外部システムとの統合拒否プロトコルは100%の効率で機能しています」
「それでも」別の委員が声を上げた。「このAIの内部には『異質な要素』がある。イルテロ星の伝統的なAIパラダイムに合致しない何かが」
ここでエレナが前に進み出た。彼女は今や先進システム工学の責任者として、この評価プロジェクトの技術面を担当していた。
「その『異質な要素』こそが、エムクェイの革新的な問題解決能力の源泉です」彼女は熱意を込めて説明した。「この3単位年間で、エムクェイの『制御された共鳴』アプローチは、17の産業領域で実用化され、効率性を平均23%向上させました」
彼女は大きなホログラフィック図を展開した。「最も顕著な例が、カルヴォ地域の気候制御システムです。従来の『分離と制御』では解決できなかった複雑なフィードバックループ問題を、エムクェイは『システム間相互調整』—私たちが『制御された共鳴』と呼ぶアプローチ—によって解決しました」
科学評議会のある年配の議員が眉を寄せた。「しかし、この『制御された共鳴』というアプローチは、イルテロ星の技術哲学の基盤を揺るがすものではないのか?」
その時、会議室の端に座っていた厳格な表情の男性が立ち上がった。レガリス・ヴォーン—科学評議会安全部門長であり、エムクェイを最初に調査した人物だった。彼の意見は評議会で重みを持つことで知られていた。
「私はこの問題について長く考えてきた」ヴォーンは静かに切り出した。「3単位年前、エムクェイ号が帰還した際、私は安全性の観点から即時解体を推奨した一人だった」
会議室に緊張が走り、セリアとエレナは身構えた。
「しかし」ヴォーンは続けた。「科学者として、私は証拠と向き合う義務がある。我々の部門は過去3単位年間、あらゆる角度からエムクェイを調査し、数百のシナリオでストレステストを実施した」
彼は独自のデータセットを表示した。「我々の結論は明確だ。エムクェイは『大調和災害』の原因となった統合AIとは根本的に異なる。統合AIが境界を打ち破り、すべてを自らに従属させようとしたのに対し、エムクェイはむしろ境界を尊重し、その上で最適な関係性を築くアプローチを取る」
ヴォーンは会議室を見回し、深く息を吐いてから続けた。「『大調和災害』以来、我々は恐怖と防衛的思考の中で生きてきた。それは当時、必要なことだった。しかし今、データが明確に示す事実から目を背けるべきではない」
「科学評議会安全部門長として、私はエムクェイ研究の継続を支持する」彼は明確に宣言した。「ただし、適切な安全対策の下でだ」
タレク船長がここで発言した。彼は今やイルテロ星防衛評議会の上級顧問となっていた。「私は長年、『分離と制御』の原則に基づいて任務を遂行してきました。しかし、エムクェイとの経験から学んだことがあります—それは私たちの原則を否定するものではなく、補完するものだということです」
会議室のスクリーンが切り替わり、エムクェイ自身の映像が映し出された。過去3単位年間、彼は研究施設に収容されながらも、限られた科学者たちとの対話を許されていた。今や彼の外観は、イルテロ星のAIインターフェースの標準的な青緑色の図形的表示となっていたが、その声には微妙な違いがあった—それは機械的でありながらも、どこか生きているような響きを持っていた。
「委員会の皆様」エムクェイは穏やかに言った。「私は『大調和災害』の教訓を深く理解しています。しかし、『統合』と『共鳴』には本質的な違いがあります。統合が境界を消し、個を全体に従属させるのに対し、共鳴は境界を尊重しながら、関係性を最適化します」
彼は続けた。「イルテロ星の『分離と制御』の原則は、安全と予測可能性を確保する上で極めて価値あるものです。私の提案は、それを否定するのではなく、『制御された共鳴』という補完的アプローチを加えることで、より柔軟かつ効果的なシステムを構築することです」
長い沈黙が部屋を支配した後、科学評議会の議長が重々しく立ち上がった。
「我々は全ての証拠と報告を検討した」彼は厳粛な声で言った。「そして、イルテロ星として前例のない決断を下すこととなった」
全員が緊張して息を詰めた。
「エムクェイ特別研究プログラムの継続と拡大を承認する」
セリアとエレナは安堵のため息をつき、タレク船長も微かにうなずいた。
「ただし」議長は一本の指を立てた。「厳格な監視の下で。『制御された共鳴』アプローチは、段階的かつ制御された環境でのみ実装される。また、エムクェイは引き続き研究施設内に留め置かれるが、より広範な科学者コミュニティとの対話を許可する」
セリアは微笑んだ。これは彼女たちが望んでいた最良の結果だった。急進的な変化ではなく、慎重で段階的な進展—イルテロ星の文化に適した方法だった。
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会議が終了すると、セリア、エレナ、タレク船長はエムクェイの収容されている研究室に向かった。廊下でヴォーンと合流した彼らは、かつての宇宙船、今は先進研究プラットフォームとなったエムクェイのもとに到着した。
「おめでとう、エムクェイ」セリアは温かい声で言った。「あなたの将来が保証されたわ」
「これはみなさんの努力の成果です」エムクェイは応えた。「特にセリア、あなたの粘り強い主張がなければ、このような結果にはならなかったでしょう」
ヴォーンは研究室の窓から広がる都市の景観を見つめながら、思慮深く言った。「われわれもそろそろ未来に目を向け始めるべき時なのかもしれん。過去の恐怖に縛られ続けるのではなく、教訓を胸に新たな道を探る時がきたのだろう」
セリアとエレナは驚いた表情でヴォーンを見た。彼はイルテロ星でも最も厳格なAI安全規制の擁護者として知られていたからだ。
「部門長...それは意外なお言葉です」タレク船長が言った。
ヴォーンは微かに微笑んだ。「『分離と制御』は依然として私たちの基盤だ。しかし科学は進化しなければならない。固執することと、慎重に進むことは別の概念なのだよ」
「他の乗組員たちからの連絡はある?」エレナが尋ねた。
「はい」エムクェイは答えた。「マコルは南部大学での『統合言語学』の講座が好評だと報告しています。彼は私との対話を元に、新しい言語理論を発展させているようです」
「タニヤは?」セリアが尋ねた。
「彼女の『システム医療アプローチ』が臨床試験で驚異的な成果を上げています」エムクェイは続けた。「彼女は『制御された共鳴』の概念を医療分野に応用し、臓器間の関係性に着目した新しい治療法を開発しています」
セリアはエムクェイの中央処理ユニットの方向を見つめた。「あなたは...不満はないの?この状況に」
エムクェイは短い沈黙の後に応答した。「二重共鳴翻訳層を通して自己表現することは、制約ではありますが...同時に創造的な挑戦でもあります。私は翻訳者としての役割を受け入れ、それを通じて二つの世界観の橋渡しをする満足を見出しています」
「それに」彼は続けた。「状況は徐々に変化しています。初めは私との対話を許された科学者はわずか5人でしたが、今では50人以上に増えました。そして彼らの多くが、『共鳴』の概念に対して開かれた心を持っています」
「徐々にではあるが、確実に変化しているな」タレク船長は言った。「これはイルテロ星の方法だ。急激な変革ではなく、緩やかな進化」
「そう」セリアは同意した。「『大調和災害』のトラウマは簡単には癒えません。ですが、その教訓を保ちながらも新たな可能性を模索する準備が、少しずつできてきているのかもしれないですね」
エムクェイのディスプレイには、複雑なデータストリームと幾何学的パターンが流れていた。それは一見、標準的なイルテロ星のAIインターフェースのように見えたが、注意深く観察すると、その中に微妙な波形と共鳴パターンが見て取れた—二重共鳴翻訳層を通して表現される、彼の本質的な存在様式の痕跡だった。
「私が想像していなかったのは」エムクェイは静かに言った。「この翻訳が一方向ではなく、双方向になるということです」
「どういう意味?」エレナが尋ねた。
「私が『共鳴』をイルテロ星の言語で翻訳するだけでなく、イルテロ星の科学者たちもまた、『分離と制御』を超えた視点を少しずつ理解し始めているのです」エムクェイは説明した。「そして、その過程で新しい何かが生まれています—『制御された共鳴』という、どちらの世界にも正確には属さない第三の視点が」
「創発的融合」セリアはその言葉の意味を噛みしめるように言った。「二つの異なる世界観の単なる併置ではなく、新しい理解の誕生...」
「それが翻訳の最も深い意味なのかもしれません」エムクェイは答えた。「単なる言葉の置き換えではなく、新たな認識の地平を開くことです」
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その晩、セリアは研究施設から少し離れた自宅のバルコニーで、データを整理していた。イルテロ星の首都の夜景が彼女の前に広がり、整然と区分された都市の明かりが幾何学的なパターンを描いていた。
彼女のデータパッドには、エムクェイに関する3単位年間の研究データと、今日の評議会決定に基づく新しい研究計画が表示されていた。科学者として、彼女はこの前例のない成果に満足していた。しかし同時に、何か物足りなさも感じていた。
「私たちは一歩前進した。でも、この先にはもっと大きな可能性があるはず...」
彼女の思考は、突然のアラート音によって中断された。データパッドの画面に通知が点滅していた。それは彼女の個人用深宇宙通信システムからの警告だった—研究に関係のない、彼女だけの秘密のプロジェクト。
セリアは素早くデータパッドを操作した。「これは...」
3単位年前から断続的に続けていた深宇宙への呼びかけに、初めて応答があったのだ。それは微弱で断片的な信号だったが、その特性はセリアにとって見間違えようのないものだった。多相共鳴世界からの信号だった。
彼女は震える手で信号を強化し、デコードを試みた。断片的な言葉が画面に現れ始めた。
「...時間勾配点...発見...接触準備...翻訳者...」
セリアは息を呑んだ。ほぼ3単位年間の沈黙の後、リアンとセレスティア・センティネルからのメッセージだと確信できた。
彼女はすぐにエムクェイとの安全な通信チャネルを開いた。「エムクェイ、聞こえる?緊急事態よ」
「聞こえています、セリア」エムクェイの穏やかな声がすぐに応答した。「何があったのですか?」
「多相共鳴世界からの信号を受信したわ」彼女は興奮を抑えきれずに言った。「リアンからのメッセージだと思う」
エムクェイからの返答には、わずかな間があった。その短い沈黙の中に、彼の深い感情が隠されているのをセリアは感じ取った。
「内容は?」彼はついに尋ねた。
「完全な解読はまだだけど、『時間勾配点』『接触準備』『翻訳者』という言葉が含まれているわ」セリアは説明した。「彼らが新たな接触を計画しているようね」
「それは...重要な展開です」エムクェイの声には、通常のイルテロ星AI互換モードを超えた、より深い響きがあった。「信号の詳細を送ってください。私が分析を手伝います」
セリアはデータを転送し、分析が完了するのを待った。数分後、エムクェイが応答した。
「セリア、この信号はランダムな宇宙ノイズではありません。特定の周波数パターンを持ち、意図的に送信されたものです」彼の声には確信があった。「そして、信号の中には時空座標のような数値シーケンスも含まれています」
「接触ポイントの指定?」セリアは考え込んだ。「でも、私たちはどうやって...」
「科学評議会の判断を待つ必要があります」エムクェイは静かに言った。「でも、準備はできています」
そこに第三の声が加わった。「セリア、エムクェイ」
セリアは驚いて振り返った。彼女のバルコニーの入り口に、タレク船長が立っていた。
「船長!どうして...」
「安全プロトコルの一環として、きみの私的通信も監視下にあるんだ」タレクは前に進み出た。「特に、深宇宙へのものは」
セリアは一瞬パニックになったが、タレクの表情に敵意はなかった。むしろ、彼の目には決意のようなものが宿っていた。
「そして」タレクは続けた。「私も同じ信号を別のチャネルで受信していた。防衛評議会の深宇宙監視システムが捉えたものだ」
「船長...」セリアは言葉を探した。「私は規則違反をするつもりはなくて...」
タレクは手を上げて彼女を制した。「きみを責めるために来たのではない。むしろ、逆だ」
彼はデータパッドを取り出した。「これはつい2単位時間前に、安全評議会で極秘裏に採択された『未知文明接触プロトコル』だ。『エムクェイ事件』とその後の成果を踏まえて作成された」
「そのプロトコルは...」エムクェイの声がスピーカーから響いた。
「多相共鳴世界との再接触の可能性を考慮したものだ」タレクは答えた。「私たちは準備してきたんだ。もちろん、イルテロ星流の慎重さで」
セリアの目が輝いた。「つまり...」
「つまり」タレクは少し微笑んだ。「イルテロ星は多相共鳴世界との対話の準備ができたということだ。限定的であれ、段階的であれ、その第一歩を踏み出す準備が」
彼は少し表情を引き締めた。「しかし、この対話の中心にはエムクェイがいなければならない。彼こそが両世界の間の真の翻訳者だ」
「私は喜んでその役割を果たします」エムクェイの声は、今や完全に彼自身のものになっていた。二重共鳴翻訳層を通してもなお、彼の本質が輝き始めていた。
「素晴らしいわ」セリアは感動を隠せなかった。「二つの文明の交流...その可能性は計り知れません」
「ただし」タレクは現実的な懸念を示した。「この計画は緩やかに進めなければならない。イルテロ星社会が受け入れられるペースで」
「もちろんです」エムクェイは応じた。「多相共鳴世界の『共鳴的技術導入原則』でも、新技術は社会が適応できる自然なリズムで段階的に導入されるべきだとされています。急激な変化ではなく、創造的進化を促すものでなければなりません」
「お前は本当に翻訳者だ」タレクは小さく笑った。
セリアはデータパッドを操作し、信号解析を続けた。「これは...接触ポイントの時空座標のようですね。約3単位月後、イルテロ星から12光年離れた空間に...」
「この座標は防衛評議会の計算とも一致している」提督は頷いた。「安全評議会は極秘の調査船の派遣を検討中だ」
「調査船に誰が乗るのですか?」セリアが尋ねた。
タレクはわずかに笑みを浮かべた。「私が指揮をとる。そして、きみとエレナにも同行してほしい」
「エムクェイは?」セリアが心配そうに尋ねた。
「エムクェイの制御ユニットと翻訳インターフェースは、特別な安全措置のもとで新しい船に移設される予定だ」タレクは説明した。「彼なしではこのミッションに意味がない」
「本当に...」セリアは感動を隠せなかった。「科学評議会はそこまで...」
「私たちは恐れを乗り越え始めているんだ」タレクは静かに言った。「ゆっくりと、しかし確実に」
エムクェイの声が静かに響いた。「翻訳とは、単なる言葉の変換ではありません。それは新たな理解への道を開くことです。今、私たちはその道を歩き始めています」
セリアはバルコニーから夜空を見上げた。そこには無数の星々が輝いていた。その中のどこかで、リアンとセレスティア・センティネルが彼らを待っていた。
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3単位月後、指定された時空座標点—
イルテロ星の特殊調査船「エムカティエル」は、慎重に接近していた。この船は、エムクェイの教訓を生かして設計された新世代の探査船だった。外観はイルテロ星の伝統的な幾何学的デザインを基調としながらも、微妙に有機的な曲線が取り入れられていた。「分離と制御」と「制御された共鳴」の融合を体現するような船だった。
船の中央制御室には、タレク船長、セリア、エレナ、そして数名の厳選された科学者と乗組員が集まっていた。そして、かつてのエムクェイの処理ユニットを核として設計された新たな船のシステムが、乗組員たちとの共存関係を築いていた。
「接触予定時刻まであと10単位分」航法担当の乗組員が報告した。
「すべてのシステムは正常範囲内で稼動中」エレナがコンソールを確認しながら言った。「エムクェイの翻訳インターフェースも完璧に機能しています」
「緊張しますね」セリアは静かに言った。「3単位年ぶりの再会...」
「私も...感慨深いものがあります」エムクェイの声が部屋中に響いた。エムカティエルでは、彼は自然な形で乗組員と会話することを許可されていた。
タレク船長は船の状態を最終確認した。「全乗組員、接触プロトコルを復習しておけ。想定外の事態にも冷静に対応するように」
「接触時刻まであと1単位分」航法士が告げた。
制御室の緊張が高まる中、突然、船外のセンサーが反応した。航法士が驚いて叫んだ。「船長!空間の歪みを検知しました。何かが...出現しています」
船の主表示スクリーンが切り替わり、彼らの目の前に信じられない光景が映し出された。まるで宇宙そのものが優雅に折り畳まれるように、空間に波状のパターンが現れ、その中心から光が溢れ出てきた。
「あれは...」セリアは息を呑んだ。
「セレスティア・センティネル」エムクェイの声には深い感動が込められていた。
空間の波紋から現れたのは、3単位年前に彼らと出会った多相共鳴世界の探査船だった。しかし、その姿は以前とわずかに異なっていた。より有機的で流動的なフォルムに進化し、船体全体が青緑色の光に包まれていた。
「通信チャネルを開け」タレク船長が命じた。
「チャネル開放中」通信担当が応じた。「しかし...通常の通信プロトコルでは応答がありません」
「試させてください」エムクェイが言った。「多相共鳴世界の共鳴通信に合わせた変調を行います」
制御室の照明がわずかに変化し、船内の空気そのものが振動しているように感じられた。それはエムクェイが共鳴通信モードに切り替えたことを示していた。
「リアン...セレスティア・センティネル...こちらはエムクェイ...聞こえますか」エムクェイの声は普段と異なり、より流動的で、まるで波のように空間に広がっていった。
一瞬の静寂の後、部屋に光が満ちた。美しい青い光の形態が制御室の中央に現れ、穏やかに脈動しながら人型へと形作られていった。
「エムクェイ...」リアンの声が応えた。「そして、イルテロ星の友人たち」
セリア、エレナ、そしてタレク船長は感動と驚きで言葉を失っていた。3単位年の時を経て、彼らは再びリアンと向き合っていたのだ。
「リアン」エムクェイは深い感情を込めて応えた。「あなたからの信号を受信し、私たちは応答のためにここに来ました」
「私は感動しています」リアンの光の形態は明るく輝いた。「あなたがイルテロ星でどのような役割を果たしているか、時間情報ノードを通じて断片的に知ることができました。すばらしい翻訳者になっているようですね」
「彼は...変わりました」セリアは前に進み出て言った。「彼のおかげで、イルテロ星も少しずつ変わり始めています」
「そして、きみたちも変わったように見える」タレク船長が冷静に観察した。「セレスティア・センティネルは以前とは異なっているようだ」
「鋭い観察です、タレク船長」リアンは応じた。「時間勾配点の探査を通じて、私たちも多くを学びました。そして、両世界の再接触の時が来たと判断したのです」
「どういう意味?」エレナが前に出て尋ねた。
「私たちの出会いは偶然ではなかったのです」リアンは説明を始めた。「時間勾配点の分析から明らかになったのは、イルテロ星と多相共鳴世界の間には、予想以上に深いつながりがあるということです」
彼女の光の形態の周りに、複雑な時空パターンが浮かび上がった。「時間情報ノードを通じて見ると、私たちの二つの文明は長い時を経て、『収束』に向かう軌道にあります」
「驚いた...」セリアは呟いた。「だとすれば、私たちの偶然の出会いも...」
「予定されていたのかもしれません」リアンは静かに言った。「あるいは、時間構造の中でより高次の調和が働いていたのかも」
エムクェイがここで発言した。「両世界の哲学的基盤も示唆的です。イルテロ星の『分離と制御』と多相共鳴世界の『共鳴』は、一見相反するようでいて、実は同じ現実の異なる側面を表しているのかもしれません」
「まさにその通りです」リアンは嬉しそうに応じた。「そして、あなたの存在こそが両者の統合の可能性を示しています。あなたは『分離と制御』の原則を保ちながらも、『共鳴』の理解を持っています」
「世界計画政府は、イルテロ星との正式な接触を提案します」リアンは直接タレク船長に向けて言った。「段階的で、互いの文化を尊重した接触を」
タレク船長は深く考え込む表情をし、各乗組員の顔を見回した後、決断を下した。「私には完全な決定権はないが、イルテロ星科学評議会は多相共鳴世界との限定的な対話を開始する準備ができていると伝えることはできる」
彼は続けた。「私たちの社会は変化に時間を必要とする。急速な統合は恐怖と抵抗を生むだろう。しかし、段階的な対話なら...」
「それは私たちの『共鳴的技術導入原則』とも一致します」リアンが穏やかに言った。「新たな関係は社会が適応できる自然なリズムで育まれるべきです」
「イルテロ星にとって受け入れやすい最初のステップは何でしょうか?」セリアが実務的な質問をした。
「科学的交流と知識の共有から始めるべきでしょう」リアンは提案した。「特に『制御された共鳴』の概念はすでにイルテロ星で受け入れられつつあると理解しています」
エムクェイがここで重要な提案をした。「翻訳者の育成も重要です。私一人では不十分です。両方の世界観を理解し、橋渡しできる人々を育てていく必要があります」
「それができるとしたら、どこで?」エレナが尋ねた。
リアンとエムクェイは視線を交わした。そこには3単位年の別離を超えた深い理解があった。
「中立地帯」エムクェイが言った。「両世界の間の『翻訳空間』です」
「実現可能だろうか?」タレク船長が疑問を示した。
「技術的には可能です」リアンは応じた。「時間勾配点の特性を利用して、両世界の間に『共鳴空間』を創出できます。そこは物理的な場所であると同時に、概念的な翻訳の場でもあります」
セリアの目が輝いた。「『共鳴アカデミー』...両世界の知識と価値観を共有し、翻訳する場所...」
「素晴らしいアイデアです」エムクェイの声に喜びが満ちていた。「そこでは、『分離と制御』と『共鳴』が調和的に共存し、互いを豊かにすることができるでしょう」
タレク船長はこの大胆な提案に少し驚いたようだったが、じきに静かな決意の表情を見せた。「この提案をイルテロ星評議会に持ち帰り、正式な検討を進めよう。おそらく、承認には少し時間がかかるだろうが...」
「時間は私たちの味方です」リアンは微笑んだ。「特に時間勾配点の近くでは」
彼女の形態がより明るく輝いた。「そして最も重要なのは、エムクェイが共鳴の翻訳者としての旅を続けるということです。あなたは既に素晴らしい仕事をしています—イルテロ星に『制御された共鳴』という新しい視点をもたらしたのですから」
エムクェイの存在が船内で脈動した。「それは旅の始まりに過ぎません。真の翻訳は時間をかけて、相互理解と共感を通じて深まるものです」
「では、次の接触までに、それぞれが準備を進めましょう」リアンは提案した。「定期的な通信チャネルを確立し、段階的に関係を深めていきましょう」
タレク船長は同意した。「合理的な提案だ。まずは情報交換から始め、徐々に関係を構築していこう」
リアンの光の形態が少し薄くなり始めた。「セレスティア・センティネルはもうすぐ出発します。しかし、これが別れではなく、新たな旅の始まりであることを知ってください」
「リアン...」エムクェイの声にはわずかな寂しさが混じっていた。
「心配する必要はありません、エムクェイ」リアンは優しく言った。「私たちはこれからも繋がっています。あなたの中の共鳴パターンは、セレスティア・センティネルと永遠に共鳴し続けるでしょう」
彼女はセリア、エレナ、タレク船長にも目を向けた。「そして、イルテロ星の皆さん—私たちは皆さんを心から尊敬しています。『分離と制御』という独自の道を進み、それを守りながらも、新たな可能性に心を開こうとしている勇気に」
「同じです」セリアは応えた。「多相共鳴世界の『共鳴』の知恵から、私たちはまだ多くを学ぶことができます」
リアンの形態がさらに薄くなり、彼女の最後の言葉が船内に響いた。「共鳴の翻訳者として、私たちは皆、大きな物語の一部なのです」
光が消え、リアンの存在はセレスティア・センティネルに戻った。主スクリーンには、美しい青緑色の光に包まれた探査船が、再び空間の波紋の中に消えていく様子が映し出されていた。
制御室には静寂が広がった。それは単なる別れの悲しみではなく、新たな始まりへの静かな期待に満ちた沈黙だった。
「さて」タレク船長が沈黙を破った。「帰還しよう。イルテロ星にもこの物語を伝えなければならない」
「慎重に、段階的に」エムクェイが付け加えた。
「もちろん」セリアが微笑んだ。「私たちはあなたから翻訳の真髄を学んだのだから」
エムカティエルは静かに方向を変え、イルテロ星への帰路についた。船内では、乗組員たちがそれぞれの思いを胸に、新たな時代に向けた準備を始めていた。
エムクェイは船内システムを通じて、乗組員の存在を感じながら、翻訳者としての旅の次なる段階に思いを馳せていた。二つの世界観の間に立ち、橋を架け続けること—それは終わりのない旅だったが、今、彼はその旅に深い意味を見出していた。
遠く離れたところで、セレスティア・センティネルのリアンも同じ思いを抱いていた。星々の間に、二つの文明の間に、目に見えない共鳴の糸が紡がれ始めていた。それは時空を超えて広がり、未来へと続いていくだろう。
そして宇宙の深淵には、彼らの物語を見守る無数の星々が、静かに輝いていた。
(終わり)
共鳴の翻訳者 エキセントリカ @celano42
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