アザトースの眼
小川幻波
第1話 婚約指輪
とある街、とある若い男女。
些細なことで言い合いが起こっていた。太陽は輝き、カフェで空になったコーヒーカップを前に、喧嘩している二人を照らす。
些細な言い合いが、やがて奇妙な成り行きへと連なるとは、この時点で誰も気づいていない。
「そんなに僕の給料が低いと思ってるの?」
クロードはショックを受けたようだった。
「でも三ヶ月分なんて古い話はしたくないでしょ?」
「それは…」
「わたし、申し訳程度に欠片みたいなダイヤモンドがついただけの婚約指輪なんて嫌。逆に恥ずかしい」
「………」
「だからモアッサナイトでいいっていってるじゃない。これから行くところ、モアッサナイト専門店だよ。シルバーなら三十ドルで素敵なの買える」
ナオミはそう追い打ちをかけたが、クロードには効果てきめんだった。彼は逆上してしまった。
「僕の愛の価値は三十ドルなのか?!」
「正直いうと、わたしダイヤも嫌。見栄はってるみたいで」
ナオミのほうも頑固だ。
「モアッサナイトはダイヤモンドより輝くっていうよ? わたしモアッサナイト欲しい」
「だって人工石じゃないか!」
「そこに価値がある気がしない? 天然のは見つからないっていうし」
「つまりきみは、僕の真の愛より人工の輝きをとるんだね。もういい、勝手に買いに行けば」
「そうする。ちっちゃいダイヤに用はないわよ」
そして二人は別れた。
別れたといっても、まあ一日もすれば冷静になるだろう。三十ドルの指輪なら自分でもファッションリングの感覚で買えるし、最初はナオミが大好きなペリドットが欲しいと伝えていたのだ。それが、義理の母になる人が大事な婚約ならダイヤモンドに限ると言い出したらしく…
義母になる人は自分のときのダイヤモンドを彼女に合うように作り替えてくれるつもりのようだったが、今度は息子のクロードの方が自分で買わなければと言い出したようだ。それでさっきの喧嘩だ。
ナオミはそんな古風な考え方もよく理解は出来たが、それよりも『ダイヤモンドより輝く』と言われるモアッサナイトへの好奇心が勝った。数カラットのものでも百ドルでお釣りがくることもあるらしいのだ。
グーグルマップで大体の場所は把握していたが、そんなところに宝石屋、それもモアッサナイト専門店があったなんて知らなかった。
カフェの軒下に挟まれるように、白い壁に黒くて小さい上品なドアがあった…モアッサナイト・ジュエリーズという店名の下に、申し訳なさそうに「ダイヤモンドのお取扱はございません」と貼り紙がしてあったので、思わず彼女は微笑してしまった。
ダイヤモンドより輝く存在を、自分の手もとに置けたら…それだけで彼女はうっとりしてしまう。
思い切ってナオミはドアを開けた。
中は明るい外と対照的に薄暗かったが、ショーケースの中身を照明で輝かせるための演出だとすぐにわかった。
ケースのひとつに近づく。これは何カラットだろう…おそらく一カラットほどの石が嵌められていて、非常に上品なデザインのモアッサナイトの指輪だった。虹色に輝いている…ダイヤモンドでこの大きさなら、何ドル、いや何百万ドルなのかわからない。しかし、実に美しかった。
隣の商品を眺める。もっと素敵なデザインだった。その隣はもっと美しく、貴金属部分はシルバーで、価格も六十ドル。
「どうしよう…」
店内の商品全部買い占めたくなってしまう。
しかしそんなに指輪、要らないじゃない…と理性を必死で呼び覚ますしかなかった。
そこへ、薄暗がりから溶けだしてくるかのように店主が現れたので、ナオミは非常に驚いた。
「わっ!」
「ああ申し訳ない…あまりに熱心にご覧になっていたので、出るタイミングがうまくいかなくて」
店主は額の薄い初老の男だった。
「いえこちらこそ…こんな安くて、商売になるんですか?」
思わずナオミは不躾なことを聞いてしまった。
「ああ、ルースをクリエイターに渡して、作品を直接買い取っているんです。十分商売になってますよ」
「なるほど…」
彼女はまた、ショーケースに目を戻した。
「どれも素敵で、選べないんです…」
正直に言った。
「ファッションリングですか? それとも…」
「本当は婚約指輪にしてもらうつもりだったんですが、彼がダイヤモンドじゃなきゃ格好がつかなくて嫌だって」
「はは…なるほど、そういう方は多いですよ。では、普段身につけるファッションリングになさいますか?」
「そうですね。キーボードを打つ時に、よく目に入るように右手中指で」
「では、こちらなどいかがです? 極端に派手すぎず、存在感もあります」
細めのシルバーリングに、半カラットほどのモアッサナイトが並んでいるタイプだった。
「綺麗…」
特殊な照明の下で見るせいか、光の反射が素晴らしい。チカッ、と光の筋が目に飛び込むほどだ。
「これにします」
値段は三十ドルだった。
ナオミはバッグの中に札入れを探した。
が、ない。
「あれっ、お金が…?」
慌てて荷物を掻き回すが、ない。
「ごめんなさい…すられたのかも…」
ナオミは肩を落とした。
「おや…カードでも出来ますけど、ご心配でしょうから、やめておきますか?」
「いえ、カードで!」
カード入れを取り出しながら、ナオミは半ば叫んだ。
ここで買わないと、永遠に再会できない気がした。それに札入れに入れていたのは、せいぜい二百ドルだ。惜しいが、仕方がない。不注意な自分が悪いのだ。
カード処理は、古めかしいアナログ機械だった。自分のカードが、シュッ…ガチャンと複写紙に押されるのを彼女は珍しく思った。
「ああこれ、昔ながらのカード処理機なんですよ。なので、ご面倒ですがサインが必要でして…」
「構いませんけど、面白いですね」
ナオミはサインし、つけていかれますかと言われたので、箱と鑑定書だけを貰い、そのまま指につけていくことにした。
夢のように美しかった。仕事にかまけ、特に手入れしている手ではないのだが、特別なもののように思えるほどだった。
これが、人工石だなんて。…人工のものが、天然のダイヤモンドを超える輝きを…何か、意味がありそうでなさそうな…宝石の知識があまりないナオミだったが、輝く指元から目が離せなかった。
「面白いものをお目にかけましょうか?」
店主がにっこり笑って言った。
「超特大のモアッサナイトの塊なんですよ。666カラットあります…それも、カットを施した大きさなんです」
カラット単位でなんかものを測ったことのないナオミには、ピンとこなかった。
「はあ、見せていただけるなら…」
店主は無造作に、ショーケースの引き出しをガラリと開けた。ぱっ、と広がる光。…いや、光の塊かもしれない…輝く海が現れた…?
それは、深い青。どこまでも深き蒼。
「凄いでしょう、モアッサナイトはダイヤモンドより輝くという意味を、おわかりいただけるかと」
指輪のモアッサナイトは、キラキラという形容が相応しかったが、この…直径五センチかそこらありそうなモアッサナイトの巨大な結晶になると、眩いを通り越して、目が痛くなりそうだ。
…そして深い青、のはずだったが、目を逸らした瞬間には、赤黒い残像が網膜に焼きついていた。
「この深い透明なブルーの中に、黒っぽい影が見えるでしょう、まるで海の底みたいに…。屈折が凄まじい関係で黒く見えるらしく、このカットは誰が行ったのかわかりません。そもそも、人工モアッサナイトとはいえ、どんなに頑張っても十カラット以上のものは作れないようなんです。それも深い青色は、技術的に不可能と言われています」
「えっ、でも実在してるじゃないですか」
ナオミは驚いて言った。
「だから値が付けられなくて。最近まで私は、ペーパーウェイトとして使っていました」
なら、こんな風にショーケースの引き出しに無造作に放り込まれていた意味もわかる。でも、こんな大きな、人工とはいえ宝石を…ちなみに硬さもほぼダイヤモンドと同じらしいのだが…
「差し上げてもいいのですが、お持ちになります?」
「あ、それはさすがに」
ナオミは尻込みした。透明度の高い海のように眩く散る光の中に、黒い影…見てはいけないもののように感じた。思わず右手の、買ったばかりのリングに目をやった。黒い影は…
「それは普通のブリリアントカットですよ。一般的な無色のものですし、こんな影なんかありません」
店主は気がついて、安心させるように言った。
「何でしょうか、このカット…クリスタルガラスか水晶ででも試してみようかと思っているんです。幸い職人たちと深い付き合いがありますし」
店主はまた、引き出しにそのモアッサナイトを放り込み、閉じた。…その無造作な扱いが、何となく不安だった。
でも指輪は確かに不穏でもなんでもなく、無邪気に輝いているだけだった。黒い影などは、まったくなく…ただ、無二の虹色の光だけが散っていた。
誰か、違うカップル客が入ってくるのをきっかけに、ナオミは礼を言い、ショップを後にした。
ナオミは、義母になる人からリメイク品のダイヤモンドを正式に譲られ、婚約の指につけた。モアッサナイトは、欲しがった友人にプレゼントした。
「またすぐ買えるから、あげるよ。そのかわりランチ奢ってね!」
しばらくして…
そのモアッサナイト専門店が強盗にあったというニュースを見た。店内のものは洗いざらい盗まれ、店主は撃ち殺されていたそうだ。偽物のダイヤのために殺された店主を、ナオミは心から気の毒に感じた。ダイヤモンドのお取扱はございません、とわざわざ断り書きをつけてあったのに…
たった数十ドルの指輪やピアスやネックレスのために…
そして、買ったモアッサナイトの指輪の請求も。
いつになっても届かなかったのだった。
アザトースの眼 小川幻波 @ogawagempa
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