依存の先
リート
あなた方はそれでいいの?
古代の偶像崇拝の代表格が「仏教」だとするならば現代は「アイドル」である。人間は生きる上でのお手本を掲げることでひたむきに努力することができるのだ。
都心のアパートに住んでいるとある男性も例外ではなかった。彼はある意味被害者である。真面目に働くも何もかも上手くいかず腐っていくだけの日々。妻も子供もおらず、仕事帰りに飲む一杯の缶ビールが唯一の楽しみだ。
そんな彼に転機が訪れたのは三十代半ばの頃である。動画投稿サイトを見ていた時にたまたまアイドルのバラエティー番組が流れてきたのだ。動画の再生後、彼はアイドル、所謂推しを見つけるに至る。
以来充実した毎日を送っていた男性であったが、別れはいつも突然である。推しが引退したのだ。しかも事件性を抱え込みながら。
男は道標と活力を失った。仕事は本格的に手詰まりとなり、両親は他界。人間関係は拗れ、貯金は砂時計のように減っていく。
気が付けば彼は脚立と縄を持って深夜の森に繰り出していた。動物の鳴き声が暗闇に響く中、彼はスマホの灯りを頼りに安寧の地を目指して歩き続ける。
皺だらけの背広を着ている男はやがて一本の巨木を見つけた。彼はスマホを胸ポケットに入れると脚立を利用して輪状にした縄を幹に吊るす。
一度脚立から降りた男は乾いた瞳で天を仰ぐ。雲一つない美しい星空であったが彼の眼には映らなかった。
暫く経ってから視線を前方に向けた彼は絞首台の頂に上った。そして悴んだ両手で縄を掴んだ時だった。
「ねぇねぇおじさん。どうしてこんな処にいるの?」
聞こえてきたのは少年の声だった。縄の輪の中にいた昔の自分にそっくりな少年は純粋な瞳を宿して佇んでいた。
「......」
「ねぇねぇなんでこんな場所にいるの? 寒くて遊ぶ場所もなくてあったかいお布団もないのに。ねぇねぇなんで?」
今の季節にそぐわない半袖短パンを着た少年は体を振り子のように動かしながら問い続ける。
「......人生に疲れたからだよ」
男は嗄れた声で呟いた。
「え~そうなの? 僕は毎日が楽しいよ! お友達と公園で走ったり家でゲームして競ったり! 毎日が新しいことだらけでわくわくするんだ! おじさんもそういうことあるでしょ?!」
「......生きる糧を失った俺に心躍るような出来事は起こらない......もういいんだ......未来なんて......彼女の居ない世界線に用は何一つ無いんだ......」
男は頭部を輪の中へ通す。
「おじさん言ってること難しくてよくわかんない! もっと気楽にいこうよ! 僕ね? 『おし』がいるんだ! 5人組のアイドルなんだけどいつも元気と勇気をくれるんだ! 転んで怪我しちゃった時もお母さんに怒られて凹んじゃった時もその人達を見ると不思議と気持ちがパーってなるんだ!!」
少年は無垢そのものだった。言葉一つひとつが混じり気のない本音の羅列。少年の憶いは寒冷の要塞と化した男の心に僅かな風穴を開ける。
「それは......素晴らしいことだな」
男は推しを全力で推していた頃の琥珀の日々を思い出していた。彼にとって彼女は生きがいそのものであり、現実で辛いことが起きてもあのひと時だけは何もかも忘れ去って楽しむことができた。
男の中に微かながら負の感情に抗う勢力が現れる。推しを最後の最期まで支え続けると誓ったあの日の自分であった。
「でしょでしょ?! おじさんもそうなればいいんだよ! 僕と一緒にアイドルを推そうよ!!」
少年は興奮気味に語った。吹き続ける冷風にも負けない太陽のようなものがそこにはあった。
男にも込み上げてくるものがあった。推しへの敬愛や崇拝が脳裏をよぎる。しかし、将来への恐怖、躊躇い、後悔、未練といった災禍の海が彼の精神を脅かす。
首元にある刃が星の光を反射して今か今かと唸りを上げている中で男は倦ねた。
一歩を踏み出さんとする蛮勇が蛇のように彼の心に絡みつく。
男の額に汗が浮き出し始める。少年は彼の顔をじっと見つめた。先ほどとは打って変わって神妙な面持ちをしており、何もかも見透かしたような双眸であった。
「ねぇねぇ。おじさんはどうしたいの?」
少年の言葉を受け少々考え込んだ男はその後自分にできる最大限の笑顔をした。
「俺はやっぱり推しが好きだ。太陽のような彼女が好きだ。俺は......自分の信念を貫き通していきたい」
男はそっと目を閉じる。瞼の裏には去ってしまった推しの姿が。心には推しに対する純然たる敬愛があった。
男の覚悟を受け止めた少年は両足の踵を綺麗に揃えると敬礼のポーズを執る。
「あなたの行く末に幸あれ!!」
少年の雄々しい一言に合わせて男は脚立を蹴り飛ばした。
数日後、都内某所にある焼却炉に一人の男性の遺体が運ばれてきた。
依存の先 リート @fbs
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