予習は大切です。

後藤 蒼乃

第1話

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 やばい。英語の授業の予習をしていなかった―――

 慌てふためく、ベッドの上の私。

 前日、部活で疲れて帰宅していた。お風呂に入った後、仮眠のつもりが朝まで寝てしまった。

 窓のカーテンから透ける、明るい陽射し。

 目覚まし時計に手を伸ばし、時間を見る。

 朝の7時をゆうに過ぎている。

 予習はおろか、朝食の時間さえ難しい状況だ。

 高校の制服(黒のセーラー服)を急いで着て、2階の部屋から階段を駆け下りる。

 台所で、若々しい母が何か言っている。

 聞いている暇はないので、適当に返事をする。玄関で靴を履き、走って家を出る。

 電車通学だった。駅まで歩いて30分。途中、信号のある交差点が2か所ある。

 走っても、赤信号に引っかかってしまえば、ロスタイムができる。

 その日の運任せであっても、はやる気持ちは抑えられず、私は走った―――


 スマホのアラームが鳴って、目を覚ました。

「またかよ……」

 私は最近、毎日のように高校の時の夢を見ていた。

 いつも決まって、英語の予習忘れの事態に陥っていた。

 他の科目はどうにかなったが、英語だけは予習していかないと授業についていけなかった。そんなトラウマが、まだ頭の中に残っているなんて。


 理由は、わかっていた。

 私が看護師として勤務する病院に、高校時代の恩師、青木先生が入院したのである。

 12年ぶりに見た先生は、病気の為少しやつれていたが、あまり変わっていなかった。相変わらずの、白髪交じりのボサボサ頭で、やや猫背、蟹股で歩いていた。


「やあ、南野君。久しぶりだな」

声も変わっていなかった。私を君付けで呼ぶところも変わっていなかった。


 先生は、英語の教師だった。

 でも、発音は故郷の方言が滲んでいた。


 入院の日、手には荷物をぱんぱんに詰め込んだ大きな紙の手提げ袋を持ち、肩から使い古したショルダーバッグを掛けて、先生は一人でやって来た。

 着ていたジャージの上下も、以前見たことがあるようなものだった。

 長年連れ添った奥さんと3年前に死別し、子供もいなかった。

 ずっと一人暮らしをされていた。


 私は、先生にどんな風に話したらよいか悩んでいた。

 今の仕事モードの私と、高校時代の学生モードの私があまりにもかけ離れていたからだった。

 高校生の私は、はっきり言って暗くて変だった。悪い意味で目立っていた。

 先生は、そんな私のことを嫌っていると思っていた。


 高校2年生の時、先生の英語の授業に、予習を忘れて出席したことがあった。

 授業中、先生にさされなければ、無事やりすごすことが出来ただろう。

 しかし、私は当たってしまった。

 答えられずもごもごしている私に、先生は糾弾を落とした。

 そこから、公開処刑が始まった。

 先生は、私の生活態度、言動、すべてが、良くないと言い放った。

 クラスメートもそれに賛同するかのごとく、静まりかえっていた。

 私は、ショックで立ち尽くしていた。

 そして、寂しく授業終了のチャイムが鳴った。


「先生、私のこと嫌いでしたよね」

 入院9日目の先生に、勇気を出して言ってみた。

「え、そんな言ったことあったか?」

 先生は、着崩したパジャマの袖を掻いて、とぼけたように言った。

 長い教師生活の中で、あのことは、先生にとって大したことではなかったのかもしれない。

「南野君。君は相変わらずマイナス思考なのかい」

「人はそんなに変われません」

「昔、南野君は笑わなかった。だけど、今はよく笑っているじゃないか。先生は安心しました。君は、仕事もきちんとしているし、立派になりました。こうして、君の世話になるなんて夢のようですよ」

「そんなことありません」


 先生は、笑顔で私を見ていた。

 私は、潤む目をぐっとこらえるのでいっぱいだった。

 

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予習は大切です。 後藤 蒼乃 @aonoao77

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