夢告の家 —九回目の選択—
黒蓬
夢告の家 —九回目の選択—
あの夢を見たのは、これで9回目だった。
深い青の海。どこまでも続く水平線。そして、その中に浮かぶ一軒の小さな家。僕、佐々木陽太は、ベッドから身を起こし、額に滲んだ汗を拭った。窓の外は、まだ夜明け前の闇に包まれていた。
「また、あの夢か…」
声に出してみるが、部屋の静寂を破るだけで、答えはない。携帯を手に取ると、時刻は午前4時27分。あと2時間ほどで目覚ましがなるはずだが、もう眠れそうにない。
夢の中の家は、僕が子供の頃に過ごした祖父母の家によく似ていた。でも、そんな家が海の上に浮かんでいるはずがない。最初にこの夢を見たのは、祖父が亡くなった日の夜。そして、今日で9回目。
ベッドから立ち上がり、キッチンへ向かう。温かい緑茶でも飲めば、少しは落ち着くかもしれない。
「おかしいな…」
湯気の立つカップを前に、僕は考え込んだ。夢の中では、いつも家の前まで行くのだが、ドアを開けることは一度もなかった。開けたくても、何かに阻まれるような感覚があって。でも、今回は――
「確か、ドアノブに手を…」
突然、スマホが震えた。画面を見ると、母からのメッセージ。
「陽太、起きてる?祖母の容態が急変したの。今病院に向かっているところ」
胸が締め付けられるような感覚に襲われた。祖母は先月から入院していたが、状態は安定していると聞いていた。急いで服を着替え、家を飛び出す。
病院に着くと、母が待合室で俯いていた。
「母さん、祖母さんは…?」
彼女は顔を上げ、僕を見た。目は少し赤く腫れていた。
「今、集中治療室にいるわ。先生は…」
言葉を詰まらせる母を見て、最悪の事態を覚悟した。でも、次の瞬間、彼女は微笑んだ。
「安定したって。奇跡的だって言われたわ。朝方、急に意識を取り戻して」
安堵のため息が漏れる。そのとき、医師が近づいてきた。
「佐々木さんのご家族ですね。おばあさまは今、意識がはっきりしています。短い時間ですが、面会できますよ」
集中治療室に入ると、祖母は弱々しくベッドに横たわっていたが、僕を見るとかすかに笑顔を見せた。
「陽太…来てくれたのね」
震える手を差し伸べる祖母の手を、そっと握った。
「祖母さん、よかった…」
彼女は弱々しく笑い、そして不思議なことを言った。
「あの家…見えたでしょう?海の上の…」
僕は言葉を失った。祖母は続けた。
「あれはね、あの世とこの世の境目にある家なの。祖父さんが待っていてくれたわ。でも、まだ行かないって言ったの。あなたに会いたかったから」
僕の頬を熱い涙が伝った。
「祖父さんは…元気だった?」
祖母は優しく微笑んだ。
「とても。でもね、あの家のドアを開けるのは、9回目で最後なの。次に見たら、もう戻れなくなるわ」
その言葉に、僕は彼女の手をもっと強く握った。
「だから、今日で最後なの。陽太に会えて、本当に良かった」
祖母の言葉に、何かを悟った気がした。9回の夢は、祖母の命の灯火が消えかけるたびに見ていたのかもしれない。そして、今回が最後の別れになるはずだった。
「でも、祖母さん、まだ行かないで」
僕の言葉に、彼女は優しく笑った。
「そうね。もう少し、皆と一緒にいたいわ」
その日から、祖母の容態は徐々に回復していった。そして、僕はあの夢を見ることはなくなった。夢の中の家は、祖母が選んだ道によって、海の彼方へ消えていったのだろう。
ただ、時々、深い青の海を思い出す。そこには、いつか僕たちが帰るべき場所があるということを。そして、その時が来るまで、大切な人たちとの時間を、一瞬一瞬、心を込めて生きていこうと思うのだ。
夢告の家 —九回目の選択— 黒蓬 @akagami11
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