影の彼方に
@HARURUKI
第1話
夜の帳が降りた静かなホテルの一室。
薄暗い照明の下、琥珀色の液体がグラスの中で揺れる。
「……こんなこと、していいのかな。」
彼女はシーツを握りしめながら、隣に座る男の横顔を見つめた。その目には、かつての思い出がきらめいているようだった。彼の手がゆっくりと彼女の顔に近づき、指先が軽く彼女の頬を撫でる。
「……こんなこと、してもいいのかな?」
彼女の心臓は激しく鼓動していた。答えを出す前に、彼の唇が軽く彼女の唇に触れた。その瞬間、時間が止まったかのように感じた。
彼の温かい唇に触れると、彼女の体が少し震える。まるで、過去と現在が交錯する瞬間だった。彼の手が背中に回り、彼女は思わずその手を感じ取った。甘い余韻が二人の間に漂う。
彼の唇が離れた後、彼女は少し驚きながらも、しばらくその温かさを感じていた。何も言わず、ただお互いの存在を確かめるように。
「いいさ。今夜だけのことだ。」
そう言って微笑む男は、どこか懐かしい面影をしていた。
──彼女が大学時代、密かに想いを寄せていた人。
「偶然って、あるんだな。」
バーで再会した時、彼はそう言って笑った。
20年ぶりの再会。かつての初恋の人は、歳を重ねても変わらぬ優しい雰囲気を纏っていた。聞けば彼は既婚者だという。
「……奥さんは?」
「心配いらないよ。」
どこか遠くを見るような目をして、彼はそう答えた。
酔いの勢いもあった。懐かしさと、甘い後悔に突き動かされるように、彼女は彼の手を取った。
そして——朝を迎えた。
ホテルを出た後、彼と並んで歩く。
「また、会える?」
彼女の問いに、彼は少し寂しそうに微笑んだ。
「そうだな……もし、また会えるなら。」
曖昧な言葉に胸がざわつく。
「変なこと、言わないでよ。」
そう言いながらも、彼の姿がどこか儚く思えた。
別れた後、彼女はどうしても彼のことが気になった。
20年も連絡を取っていなかったのに、なぜ突然彼は目の前に現れたのか?
そして、なぜ彼のことを誰も気にかけなかったのか?
「……彼に、会ったの?」
電話の向こうの友人が、震えた声で問いかける。
「ええ、昨日偶然。飲みに行って、それで……」
「嘘……だろ……?」
「どういうこと?」
沈黙。
そして、低い声で友人が言った。
「彼は……10年前に亡くなってるよ。」
「……え?」
一瞬、意味がわからなかった。
「嘘……そんな……だって昨日……」
「事故だったんだ……俺たち、葬式にも行ったじゃないか……。」
その瞬間、彼女の頭の中で錆びついた記憶が軋みを上げる。
黒い喪服。白い菊の花。泣き崩れる友人たち。
忘れていた。
いや——忘れようとしていた。
彼の死を。
彼のいない世界を。
彼のいない現実を。
震える手で携帯を握りしめたまま、昨夜の記憶を必死に辿る。
確かに、彼の温もりを感じた。
彼の声を聞いた。
けれど——
彼の足音は、一度も聞こえなかった。
ホテルの受付の人は、彼のことを一切気にしていなかった。
その時、冷たい風が背筋を走った。彼女は慌ててその記憶を整理しようとするが、どうしてもひっかかるものがある。
「本当に、いいのか?」
彼が何度もそう問いかけた意味を、今になって理解する。
まるで、それが最後であることを知っていたかのように。
そして、突然、ホテルのロビーのあの薄暗い空間が一気に現実から切り離されたかのように感じた。
彼の存在は、まるで霧の中に溶け込んでいくようだった。
彼は、本当にいたのだろうか?
それとも——
――振り返ると、ホテルの廊下にただならぬ気配を感じた。何もなかったはずのその場所には、今、彼女の足音しか響かない。
彼女は背後から響く足音を聞き、恐怖が一気に胸を突き上げた。振り返ると、そこには誰もいない。
「……また、会えるかな。」
彼の最後の言葉が、耳の奥でこだまする。
彼女は目を見開き、背後に何かがあるような気がして、恐る恐る振り返る。だが、視界に何も映らない。
それでも、彼女は確かに感じた。
何かが、まだ後ろに存在していることを。
「……もう、会えないわね。」
その言葉を呟きながらも、彼の面影が消えることはなかった。
あの夜の温もりが、今もなお彼女を支配している。
そして——その温もりが消えた瞬間、彼女は背後の空間に不気味な冷気が広がるのを感じ取った。
彼のいない現実が、今でも彼女を追い詰める。
――それが、最初で最後の、一夜の過ちだった。
影の彼方に @HARURUKI
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