第5話 その後の二人

「だっ、ダメですっ……!」


 一日の業務終わりのオーナー室で、私はソファーに座りながら必死にオーナーの胸を押し返していた。


「なんでだよ? 別にいいだろ」

「ダメったらダメですってば……!」


 確かに私とオーナーは恋人同士だし、これまで何度もデートだってしてきているし。


(き、キスだって初めてじゃないけどっ……!)


 それでも、今のこの状態でだけはどうしてもキスしたくなかった。だって……。


「わ、私お化粧とかしてないんです……! なのに、変に唇に色がついちゃったら……!」

「……あぁ、そっか。口紅か」


 そう。今のオーナーの格好は、まだ仕事中の姿そのままで。あり得ないこととはいえ、知らない人にこの状況を見られてしまえば、おかしな誤解を生むに違いない。

 そうでなくとも、オーナーは私よりもずっと綺麗な顔をしていて。女性の格好をしてお化粧までしていると、女として負けているような気がしてならないのに、なんて考えていると。


「じゃあ、ちょっと待ってろ。着替えてくるから」


 そう言って、オーナーはすぐに私から離れて。なぜか、部屋の鍵を内側からしっかりかけて、外から扉を開けられないようにしていた。


「……え?」

「帰るなよ。化粧も落としてくるから、ちゃんと待ってろよ」

「え、っと……」

「もし帰ってたら、次からは化粧してても遠慮えんりょしないからな」

「ま、待ってます……! ちゃんと待ってますから……!」


 おどしのような言葉についそう答えてしまった私を見て、オーナーはしたり顔で笑う。


言質げんちは取ったからな。ちゃんと待ってろよ」

「っ……」


 そう言いながら、着替えのために作業部屋に入っていってしまったけれど。そこまでされてようやく、私はオーナーのわなにはまってしまったことに気付いた。


(こ、このあとの展開が分かってるのに、一人で待たされるなんて……!)


 あまりにも恥ずかしくて、思わず両手でおおってしまった顔を上げられない。体中が熱くて、どう考えても今は顔どころか首も耳も、全部真っ赤になっていることだろう。


「うぅ~~……」


 そうして動くことすらできないまま、ただ言われた通りにオーナーが出てくるのを待つしかなくて。その間の時間は思っていた以上に長く感じられ、時が経てば経つほど恥ずかしさが増していくという、どうしようもない状況だった。

 そのせいで、ようやくオーナーが作業部屋から出てきた時には、扉が開くその音だけで体が跳ねてしまって。思わず膝の上に置いていた両手で、スカートをギュっと握り込む。


「ライラ?」

「~~~~っ」


 声にならない声で、私は必死に羞恥心と戦う羽目になっていたというのに。どこか楽しそうな声で、小さく笑いながら近付いてきたオーナーは。


「ライラ、顔上げて」


 そう優しい声で私の名前を呼びながら、両手ですくい上げるように頬を包み込んで、簡単に私の顔を上げさせてしまうから。


「本当に、可愛いな」

「っ……!」


 思わず直視してしまった、その綺麗すぎる顔が幸せそうに微笑む瞬間は。あまりの破壊力に、完全に私から思考を奪っていってしまって。

 結果、簡単に唇を重ねられてしまった。


「んっ……」

「緊張しすぎ。もう慣れただろ?」

「な、慣れてませんっ……!」

「へぇ? じゃあ、慣れるまで続けるか」

「なっ!?」


 宣言通り、何度も何度もキスされて。時折唇じゃなく、頬や額やまぶたにまで降ってくるそれは、ただひたすらに優しくて。でも同時に、容赦ようしゃがない。


「ふっ、ぁ……ちょっ、まっ……」

「だーめ」

「ま、って……」

「やだ、待たない」


 決して強引ではないけれど、だからこそ優しすぎてとろけてしまいそう。

 先ほどまでの緊張と、与えられる際限のない優しさと甘さに、頭がおかしくなってしまいそうで。このままでは色々と限界を迎えてしまう気がして、私はもう一度その胸を押し返した。


「ま、待ってください……! 私、オーナーほどこういうことには慣れてないんで――」

「はいダメー。素の状態の時は、名前で呼ばないとだろ?」


 それは、これまで外でデートをする際に何度も言われた言葉だった。確かに外で男性に対して私がオーナーと呼びかけるのは、知り合いに見られたら正体を教えているようなものでしかない、というのは正論ではあるのだけれど。急に言われても、簡単に変えられるわけがない。


「で、でも……」

「それと、別に俺だって慣れてるわけじゃないからな。ライラだから、こうしたいんだ」

「っ……!」


 それなのに、不思議な色合いをした瞳は熱っぽい視線を私に向けてきていて。それだけで心臓が大きく跳ねてしまうから、もうどうしようもないのだ。


「中途半端に呼び方だけ変えようとするから、難しいんじゃないか?」

「え、っと……?」

「俺が『スノードロップ』のオーナーとは完全に別人だと認識させるなら、いっそ名前だけじゃなくて敬語もやめるのがいいのかもな」

「なっ!? む、無理ですよ!」


 そうなってしまえば、今までとは全く違う接し方をしなければならなくなってしまう。そんなことをいきなりやれと言われても、急にはどうやったって変えられない。

 けれど、オーナーの考えはそうではなかったようで。


「そもそも、見た目に合わせて完全に意識も変えればいいだろ。ライラにとって、女装してる時の俺はただの上司、素の状態の俺は恋人だって認識してれば、問題ないはずだ」

「無理です無理です! そんな簡単じゃないですって!」

「……へぇ? 挑戦もせずに、否定だけするんだな」

「っ!?」


 無理難題を口にしたその直後、なぜか冷たく笑ったかと思えば。


「んんっ……!」

「じゃあ、まずは俺の名前を呼べるようになるまで、続けるか」

「なっ!? んむっ」


 何度も何度も、優しく唇を重ねるだけのキスをしてきて。


「ぁ……」

「ほら、ライラ」

「ん……」

「呼んで、ライラ。俺の、名前は?」


 完全に思考する能力を奪われてしまった私は、何一つ考えることもできないまま。重ねられた唇が離れるわずかな間に、ただ素直にその言葉に答えることしかできず。


「ス、ノウ、さん」

「違う。呼び捨てでいい」

「ふ、ぁ……スノウ……」

「……あぁ」


 結局本当に、自然に名前を呼べるようになるまでキスの雨は止まなかった。

 ちなみに。


「じゃあ、次回は敬語をやめる練習、だな」

「……ふぁい」


 完全に思考も体もとろけきってしまった私は、よく分からないままそんな返事をしてしまっていたようで。後日、言質を取ったからと同じようにキスの雨を降らされたせいで、しばらくの間立ち上がるどころか、ソファーに横になって起き上がれないほど力が入らなくなってしまうことを、この時の私はまだ何も知らずにいたのだった。



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ヒーローは、オネェさん。 朝姫 夢 @asaki_yumemishi

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