第4話 オーナーの名前
「じゃあ、行くか」
「はいっ」
今日はオーナーと恋人同士になって、初めての休日デート。特別オシャレに気合いを入れられるわけではないけれど、それでも淡いグリーンのワンピースと、オーナーからプレゼントされたハートのシルバーアクセサリーの組み合わせは、私にとって今一番のお気に入りの組み合わせだった。
実は想いが通じ合ったあの日、食事のあとに少しだけ街を散策していたりもしたけれど、あれは最初はデートのつもりではなかったし。仕事が忙しくない日は、終業後二人で少しだけオーナー室でおしゃべりしてから、家まで送ってもらったりすることもあったけれど。ちゃんと約束をして待ち合わせをしてというデートは、今日が初めてになる。
差し出された手に自分の手を重ねて、二人並んで歩く、なんて。少し前までは考えられなかった。
「髪留めが見たいんだったよな?」
「そうです。あと、最近ハンドオイルが少し気になっていて」
「あー。紙を
「そうなんですよ! そのせいで、指先が荒れやすくなってるんです」
とはいえ会話の内容は普段とあまり変わらないので、恋人同士に見えるのかどうかはよく分からないけれど。ただありがたいことに、オーナーは私よりも女性が好きそうなお店をたくさん知っているので、今日は色々とお任せして案内してもらうことにしたのだ。
「ライラは今まで、あんまり長時間街に出たことはなかったんだろ?」
「はい。どうしてもヴェルの体調が心配で、楽しむどころではなくて……」
「ってことは、今はかなり調子良くなってきてるのか」
「そうなんです! 本当にオーナーのおかげです! ありがとうございます!」
私が事件に巻き込まれて丸一日眠っていた間ですら、ヴェルは倒れることがなかった。そのくらい急速に体の調子が良くなっているのだと、この間お医者様からも言われていたし。自由に外に出られるようになるのも、時間の問題かもしれない。
そんなことを考えながら、オーナーに手を引かれて歩いていると。
「なぁ、一つ気になってたこと言ってもいいか?」
少し遠慮がちに、そう問いかけられたので。
「はい、もちろんです」
当然のように頷いた私は、続いて出てきたオーナーの言葉に、思わず足を止めてしまった。
「そのオーナーって呼び方、今はやめないか?」
「え……」
それは、私にとってはあまりにも衝撃的なことで。出会ってからずっと、オーナーはオーナーでしかなかったから。今さらなんと呼べばいいのか、すぐには思いつかない。
ただ、そんなことをオーナーが突然口にしたことにも、しっかりと理由があったようで。
「いや、ほら。今の俺の姿は、どう考えても『スノードロップ』のオーナーとは結び付かないだろ」
「……あ」
言われてみれば、確かにそうだった。そして私がオーナーと呼ぶ存在は、ただ一人。
「なのにライラの呼び方がそれだと、知り合いに会ったらバレるよな。俺がそのオーナー本人だって」
「そ、そうですね……」
二人だけの秘密のはずなのに、こんな街中で堂々と呼んでいれば、秘密も何もあったものではない。けれどだからといって、どうすればいいのか。
立ち止まったまま悩み始めてしまった私を見かねたのか、オーナーは小さくため息をついて。
「別にそんな考えなくても、普通に名前を呼んでくれればいいんだけどな」
そう、簡単に言うのだけれど。
「な、まえ……?」
そもそもオーナーを名前で呼ぶなんて考えたことすらなかったので、一瞬戸惑ってしまう。けれどそんな私の様子に、オーナーはその綺麗な顔を少しだけしかめて。
「まさか、俺の名前を知らないわけじゃないよな?」
なんて口にするので、焦った私は必死にそれを否定するのだ。
「そんなことないです! ちゃんと知ってますよ!」
「じゃあ言ってみろ。俺の名前は?」
「スノウさんです!」
胸を張って当然ですと言わんばかりにそう告げた私に、オーナーはそれはそれは嬉しそうに笑って。
「よく言えました。じゃあ、今日から俺がこの姿をしてる時はそう呼ぶように」
そう、自然な流れで言うから。思わず頷いてしまいそうになって、私は慌てて否定した。
「は……い!? いやいや、無理ですって! そんなに簡単じゃないです!」
「でも、バレたら困るんだよ」
「そ、それは……」
とはいえそう言われてしまうと、私としては言い返しづらくなってしまうのも事実で。私のせいでオーナーの秘密が知られてしまうのは心苦しいし、何より今はもう誰にも知られてほしくないと、私自身が思うようになってしまっている。
「別に、仕事中は今まで通りでいいんだよ。ただ素の状態の俺を呼ぶ時だけは、ちゃんと名前にしてほしい」
「うっ……。が、頑張ります……」
「じゃあ、今呼んで」
「えぇ!?」
無理難題だとは思うものの、確かにこの先うっかりオーナーと呼んでしまったら、大変なことになるかもしれない。そう考えると、必要なことだと理解はできるので。私は勇気を振り絞って、覚悟を決めた。
「す……スノウさん……」
「いや、さんはいらないだろ」
「む、無理です! 呼ぶことにも慣れてないので、今はこれ以上は無理ですって!」
それなのにまだそれ以上を要求してくるオーナーに、さすがに無理だからと今回は許してもらって。呼び慣れるまでという条件付きで、しばらく素の状態のオーナーのことは「スノウさん」と呼ぶことで落ち着いたのだった。
そのあとは、あちらこちらの雑貨屋や露店を見て回って。途中で露店の店主に少し高価な服を売り込まれた時には、オーナーから「今後ライラが着る服は全部俺が作るから、買う必要なんてないんだよ」なんて言われてしまって。嬉しい反面、売れっ子デザイナーの服しか着ることが許されていないという事実に少しだけ恐ろしくなってしまったのは、私だけの秘密だ。
そうして一日デートを楽しんだあとに、今日の最後の目的だった我が家へとオーナーを招待して。
「あのね、ヴェル。え、っと……」
お付き合いを始めたのだと、ヴェルにだけはしっかりと報告しようと思っていたのに。いざその時がくると、どうしても真っ直ぐ目を見て言えなくなってしまう。
そんな私を見かねたのだろう。オーナーが私の頭を抱き寄せて、頭頂部にキスを一つ落とすと。
「ま、こういうことだ。前に聞かれた質問の答えも、これで十分だろ?」
そうヴェルに向かって、宣言するのだけれど。後半の「前に聞かれた質問」というのが、私にはよく分からなかった。
ただ、そこは二人だけで理解し合っているようで。なぜか視線の先のヴェルは、今まで見たことがないくらい目を輝かせて。
「やっぱり! うわぁ、やったぁ! ありがとうオーナーさん! 姉さんのこと、よろしくお願いします!」
それはそれは嬉しそうに、オーナーに向かって笑顔を向けながら頭を下げているから。私は意味が分からなくて、一人会話についていけないままだった。
「ま、そうだよな。たった一人の家族なら、そう考えるよな」
「もちろんです。姉さんはいつもボクのことばっかりで、自分のことは全部後回しにしてたから」
「それを間近で見てきたら、幸せになってほしいって思うのは当然だよな」
「そうなんです! そうなんですよ!」
そうして、二人だけで盛り上がる会話。それはそれで、別に私としてはいいのだけれど。たった一人の大切な弟に、オーナーとのお付き合いを否定されなかったというだけでも、とても大きな意味があるから。
ただ、少しだけ納得いかないのは。
「しっかり動けるようになったら、まずはウチで試しに働いてみればいいさ」
「いいんですか!?」
「そのほうがライラも心配事が減るだろうし、ウチは割と仕事の種類は多いから、得手不得手を知るにはちょうどいいんじゃないか?」
「ぜひ! ぜひお願いします!」
以前に少しだけ話した覚えはあるけれど、どうしてそんな大切なことが、こんなところで簡単にまとまっていってしまうのか。しかもあの時の言葉が、まさか本気だったとは。驚きでしかない。
とはいえ残念ながら、これに関して決定権を持っているのはオーナーだけなので。
(まぁいい、かな。それに、私がヴェルのことが心配で仕事が手につかなくなるかもしれないって、考えてくれたのかもしれないし)
実際その時になってみなければ分からないけれど、心配にならないという保証は一切ないので。もしかしたらオーナーのこの選択は、最も正しかったのかもしれない。
その答えが分かるのは、まだ何年も先の話にはなるのだろうけれど。その頃には、仕事中のオーナーの格好をちゃんとヴェルに話せていたらいいな、なんて。そんなことを考えながら、私は盛り上がる二人の様子を眺めていたのだった。
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