小説「伏見」

伏見翔流

第1話「夜の中」

(あなたはきっと、この物語が事実ということを、知らない…。)



どんな風に生きてきたのか。

それを語り始めれば果てがなくなるから、今は控えておく。

眠れなかった私は、ベッドの上で、無音を聴こうとしていた。特別何かしようとする気力も起こらないままで、ただこのどうとも言えない夜の時間の中で息をしていた。

無音に化けはじめたような錯覚に陥る深夜には、こう、香りのあるものを近くに置いておきたくなる。

私は明かりの灯っていない暗い部屋の中で手探りに煙草とライターを拾った。そして一本を咥え、そっと手元に温度を灯した。何もかもが仄暗いこの空間の中でも、朧げな輪郭を持った煙のうねりは視認できる。それが艶やかに、右左とくねらせて静かな室内を漂って、何処へとも告げないまま虚空に溶けていく。

口から吹かされた副流煙は、柔らかく輪郭を一時的に作ったあと、何もなかったかのようにすうっと、静かに影も形もなく消えていく。

それを機械的で、少し退廃的な溜め息を交えながら、繰り返している。この暗闇の中で唯一私とその身近に光をくれるのは、寂しそうに朱色に小さく灯っている煙草の火種だけだった。

「こんなに静かな夜は久しぶりだな。ほんの少し前までは忘れていたのに。」

煙草のほろ苦い味にも飽きてきた私は、水が溜まったペットボトルの中に燃え途中の煙草を落とし、火を消した。ジュ…という儚げな音が、微細ながらも存在感を持って鼓膜に響いた。

「…どうしようかな。」

私はこのあとのことを考えていた。何も予定がないのなら、再びベッドに潜って目を閉じればいい。そう、考えるのが一般的なのだろう。

けれど、眠ろうにも眠れなかった私には対処法が思いつかず、眠気のままにゆっくりと流れる時間の中にいる町を窓から眺めていた。

考えていた時だった。初めて静寂を搔き消すように、小さなメッセージの通知音が鳴った。

充電されているスマートフォンを拾い上げると、通知画面には見覚えのある、久しい名前があった。

「…レイカ?」

それはもう、何年と会っていない人の名前だった。

「今から会えない?昔一緒に歩いた歩道橋にいるね。」なんて、身勝手な。ふつうこんな時間に連絡を寄越すなんて、非常識この上ない。だが、私だからそれは許される。感謝してほしいものだ。

人はおろか、車や野良猫の気配すら失せ、眠りに落ちた町には、まるでフィクションの世界みたいな自由度、想像の解像度の高さ、誰かに指摘されることもないような、束の間の自由が得られたような解放感に脳内が楽しくなるんだと刺激を出す。

私はそっとドアを開けると、ゆっくりと時間が止まったような空間に躍り出た。

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小説「伏見」 伏見翔流 @Fushimi_Syouri

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