KAC20253 妖精

小烏 つむぎ

妖精

「あ、ママ……妖精が、いる」


 リビングに敷いた布団で寝ていた娘の安優香あゆかが、寝ぼけた声で呟くように言った。


安優香あゆか、目が覚めた? 喉かわいてない? 何か飲む?」


 「なんだ、花瓶に光が反射してただけか。あー、コーヒー飲みたい」

「授乳中にコーヒーって大丈夫なの?」

「どうだっけ?」

「ココアは? ココアならいいんじゃない?」


 安優香あゆかは隣に寝かせている生まれたばかりの小さな美羽みうを起こさないように、そしてまだ痛む腰を庇いつつそっと起きるとうーんと伸びをした。


 大きな窓から部屋の中へと柔らかな陽の光が差し込んでいる。それを見て安優香あゆかは口を開いた。


「昔さ、わたしこの窓から差し込む光に妖精を見たことがあったんだよね。」

「妖精を?」

「なんかね、ちいさくてトンボみたいな羽をつけた光のつぶ。みたいな」

「そうなの? 子どもの頃?」

「うん。このうちに引っ越して来たばかりのとき。まだ小学校に馴染めなくて、ママは新居の巣作りに忙しくてさ」


 台所で牛乳を温める母親の背中に安優香あゆかが言った。


「巣作りって」


 確かにあれは巣作りだったなと思いつつ、母の有希子ゆきこが笑った。


 子どもの頃からずっと賃貸暮らしだった有希子ゆきこが初めて手にした自分の、自分たちの家だったのだ。テレビや雑誌で見る素敵な家を参考にして、家具も少しずつ増やし庭の木や草も植えてきた。


 南向きに大きく取ったリビングの掃き出し窓からは日差しも風もよく通る。有希子ゆきこはこの部屋のカーテンには風で気持ちよく揺らぐようにごく薄手のものを選んだ。


 家族の居心地がいいようにと選んだ大きめのソファーは安優香あゆかのお気に入りで、せっかく作った個室よりもソファーでごろごろしていることが多かった気がする。娘にソファーを取られた格好の夫はソファーに背を預けてローテーブルで新聞を読むのが日課だった。


 そんなテーブルもソファーも、安優香あゆかが結婚してこの家をでたタイミングでリフォームのために処分した。しかし窓から入る風と光は以前と変わることはない。

 

 コトリと軽い音がして、食卓に淡く湯気をたてるマグカップが置かれた。


 有希子ゆきこ安優香あゆかはカップを手にカーテンの揺れる居間のほうにぼんやりと目をやった。


 風に揺れるレースのカーテン越しに、陽の光がキラキラと差し込んでいる。光は窓の正面にある飾り棚のカットグラスを煌めかせ、花瓶に反射して床に星屑を撒いていた。


「あの頃さ、あのキラキラの一つ一つが妖精に見えたんだよね」

「へぇ、安優香あゆかってロマンチックだったんだね」


 懐かしそうに話す安優香あゆかに、有希子ゆきこはそう答えた。


「あ、安優香あゆか秀司しゅうじさんが昨日、会社で貰ったってクッキーを持って来てくれてるけど食べる?」

「食べる! あれ美味しいんだよね。出産祝いなんだって。そっか、しゅうさんここ寄ってくれたんだ」

「せっかく仕事帰りに寄ってくれたのに、アンタも赤ちゃんも爆睡してて起きないだから。可哀想だったのよ」



 カーテン越しの光は布団で寝ている美羽みうの近くまで届いていた。キラキラとした光が一瞬、美羽みうの顔を撫でるように横切った。


 美羽みうはその眩しさにうっすらとまぶたをあげた。目の前に小さな光のつぶが薄い羽を羽ばたかせて飛び回っている。美羽みうの小さな耳にはその羽が羽ばたくごとに澄んだ音をかすかにたてるのが聞こえた。


 

「あら、美羽みうちゃん。起きたみたい」


 美羽みうが両手をバタバタと動かし始めたのを見た有希子ゆきこが言った。

「えー、もう?」

「まぁ、でも泣いてないから大丈夫じゃない?」


 カップを置いて立とうとする安優香あゆかを母が止めた。


「ほら、妖精さんに遊んでもらってるのかもよ」

「もう、ママ。やめてよ。恥ずいじゃん」

「けど、案外そうなのかもよ」

 

 日差しと遊ぶように手足をバタつかせる美羽みうを眺めて、有希子ゆきこが笑った。

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