第1話 田舎の死角

 北関東の片隅、見渡す限りの山と田んぼに囲まれた小さな村。僕はそこで生まれ、自由気ままに育った。空はどこまでも広がり、風は澄み、季節が変わるたびに景色は大きく表情を変える。春には梅の花が甘い香りを漂わせ、夏の夜には無数の蛍が闇の中で淡く瞬いた。秋が訪れれば柿の実が枝に重そうに揺れ、冬の朝には霜柱が立ち、踏みしめると繊細な音を立てて崩れた。


 そんな場所だからこそ、社会の目が届かない「死角」が無数にあった。人の気配が消えた林道、学校の裏手にある雑木林、川沿いの茂み、長らく放置されて荒れ果てた神社の境内。日常のすぐそばにあるのに、誰も立ち入らない場所。ひとたび姿を隠せば、そこはもう別世界だった。


 小学一年生の僕にとって、それらは最高の遊び場だった。木々の間を縫うように走り、じっと息を潜めて気配を消す。誰にも見つからずにいられるというだけで、胸が高鳴った。そんなかくれんぼは、まるで神隠しのようなスリルに満ちていた。友達と遊んでいても、ほんの一瞬の隙をついてどこかへ姿を消す。僕にとって、それはただの遊びではなかった。まるで異世界の入り口を自分だけが見つけたような、そんな高揚感があった。


 けれど、田舎の死角はただの遊び場ではない。ときには、不思議なものを目にすることもあった。誰もいないはずの山奥で、はっきりと足音が聞こえることがある。廃屋の影に、ふと誰かの気配を感じることもある。遠くの森から聞こえる風の音が、誰かが何かを囁いているように思えることもあった。僕はそれを単なる気のせいだと思っていた。けれど、ある日の裏山の探検で起きた出来事が、その考えを少しだけ揺るがせた。


 その日、学校から帰ると、ランドセルを放り出し、靴ひもを結び直す間も惜しんで裏山へと駆け出した。今日は、一人きりの探検の日だった。友達と遊ぶのも楽しいけれど、一人での探検はまた違う。誰にも邪魔されずに、好きな道を進み、好きな場所で立ち止まり、好きなものを拾い集める。まるで自分だけが知る秘密の冒険に出るような、そんなワクワク感を胸に家をあとにする。


 裏山といっても、小さな丘のようなものではない。奥へと進めば、昼間でも木々が生い茂り、陽の光が遮られて薄暗い。地面は木の根が絡まり合い、まるで自然が迷路を作り出しているかのようだった。足元には鹿やイノシシの足跡が残り、ときおり風に乗って鳥の羽ばたく音が響く。どこまでも続く獣道は、まるで見えない誰かに導かれているようにすら思えた。


 秋が深まると、この裏山はハンターたちの狩場になる。山の景色に溶け込む服に身を包み、猟銃を構えた男たちが獲物を追い、時折、遠くで銃声が鳴り響く。彼らが残していく薬莢は、僕にとって宝物だった。


 それは金属ではなく、プラスチック製の軽い殻だった。落ち葉の上に転がるそれは、赤や青、緑、黄色と、まるでおもちゃのカプセルのようにカラフルだった。薬莢の底には金属の弾底がついていて、光を受けると鈍く光る。拾い上げると、指先にひんやりとした感触が伝わり、手のひらに収まるその軽さが妙に心地よかった。


 中でも、僕のお気に入りは赤い薬莢だった。鮮やかな色のそれは、まるで戦士の残した証のように感じられた。拾い集めてポケットに詰めるたびに、まるで冒険者が秘宝を手に入れたような気分になった。


「今日はどんなものが見つかるだろう?」


 期待を胸に、さらに奥へと進む。踏みしめた落ち葉が柔らかく沈み、ふと風が吹き抜けると、木々の間で光と影が揺れた。知らない人から見れば、ただの林にしか見えないかもしれない。でも僕にとっては、そこには無数の秘密が眠っていた。


秘密の場所

 家の裏から小さな獣道が続いている。草が踏みならされていて、野生の動物が通る道なのだろう。僕はそこを抜け、山の斜面を登る。子どもの足でも十分ほど歩けば、そこにたどり着く。


 僕の秘密の場所。


 その存在を知っているのは、僕だけだった。いや、もしかすると昔誰かが見つけたことがあるのかもしれない。でも今は、ここは僕のものだった。


 そこには、不思議な植物が生えていた。植物の名前には詳しくないが、それはまるで意図的に作られたかのように、環状に生い茂っていた。中心を囲むように草や低木が並び、その内側はぽっかりと空間になっている。まるで巨大な球体の一部を地面に埋めたような、不自然な形。


 入り口らしきものはなかったが、枝葉の隙間をかき分けて奥へ進むと、そこには小さな空間が広がっていた。


 外からは完全に見えない、植物の中の世界。


 枝葉が絡み合い、光を遮っているせいで、昼間でも薄暗かった。それなのに、不思議と息苦しさはない。葉の隙間からこぼれる光が、地面にまだら模様を作り、風が吹くたびにその光と影が揺れる。周囲の音はほとんど聞こえず、まるで外の世界から切り離されたようだった。


 僕はここが気に入っていた。隠れ家にも、秘密基地にも、あるいは異世界の入り口にも思えた。誰にも見つからない、誰にも邪魔されない場所。


 体をその空間にねじ込むことで、僕の心身は解放される。枝葉に囲まれた小さな世界。その中に入ると、外の世界は完全に消え去る。木々のざわめきも、鳥のさえずりも、風の音すらも、どこか遠くでぼんやりと響くだけだった。


 体をその空間にねじ込むことで、僕の心身は解放される。枝葉に囲まれた小さな世界。その中に入ると、外の世界は完全に消え去る。木々のざわめきも、鳥のさえずりも、風の音すらも、どこか遠くでぼんやりと響くだけだった。


 ここでは、僕だけしか存在しない。


 誰にも見つからない。誰の目にも触れない。まるで世界から切り離されたかのような感覚。ここにいる限り、学校のことも、家のことも、友達のことも、何もかもが遠ざかり、ただ僕自身だけが残る。


 僕はゆっくりと深呼吸をする。冷たい空気が肺に満ち、体の中を巡るのを感じる。全身の力を抜いて、ただそこにいる。


 やがて、手がシャツの裾をつかんだ。


 いつの頃からか、僕はここで裸になるようになっていた。


 最初はただの思いつきだった。誰にも見られることのないこの場所で、服を脱いでみたらどうなるだろうか、そんな単純な興味だった。けれど、一度やってみると、それは思いのほか心地よかった。


 服を脱ぐたびに、何かが剥がれ落ちていくような気がした。窮屈だった心がほどけ、体が自由になる。葉の隙間から差し込むわずかな光が肌を撫で、そよ風がむき出しの体を優しく包む。その瞬間、僕は本当に一人きりになれる気がした。


 誰にも見られない場所で、誰の目も気にすることなく、ただ僕でいることができる。


 それが、僕の秘密の日課だった。

 最初の頃は、シャツを脱ぐだけだった。


 この場所に足を踏み入れ、誰にも見られないことを確かめてから、恐る恐るシャツの裾をたくし上げた。肌に風が触れる感覚が新鮮で、くすぐったいような、妙に心地よいような、不思議な気持ちになった。


 それだけで十分だったはずだった。

 けれど、いつの間にか、僕はすべてを脱ぐようになっていた。


 靴を脱ぎ、ズボンを滑らせ、最後の一枚をゆっくりと取り去る。一糸まとわぬまま、裸足で地面を踏みしめる。土のひんやりとした感触が足裏に伝わり、風が直接肌を撫でる。その瞬間、僕は完全にこの空間の一部になったような気がした。


 服を脱ぐことは、ただの動作ではなかった。

 それは、世界との境界を消し去る行為だった。


 普段は当たり前のように身につけている布の感触がなくなると、自分の体がどこまでが「僕」で、どこからが「世界」なのかが、曖昧になっていくような気がした。風の流れが、まるで僕の輪郭をなぞるように動く。光が肌を染め、葉の影が揺れるたびに、僕自身も森の一部になっていくようだった。


 この場所にいると、すべてのものが遠ざかっていった。


 学校も、家も、友達も、大人たちの目も。誰も僕を見つけることはできない。ここでは、僕は僕だけだった。何にも縛られず、誰にも指図されない。ただ、存在しているだけの自由。


 この裏山に隠された秘密の場所は、そんな僕を迎え入れてくれる唯一の世界だった。


 僕が自然と一体になっていたその瞬間、ガサガサッと草が揺れる音がした。


 一瞬、風か何かかと思った。でも、違う。風ではない。これは確かに足音だった。


 しかも、動物のものではない。


 この山で幼い頃から走り回ってきた僕は、足音の違いを聞き分けることができる。鹿ならもっと軽やかで速い。イノシシなら地面を力強く踏みしめ、乾いた枝を折るような鈍い音を立てる。でも、今聞こえた音は、それらとは違った。人間の足音だ。


 誰か来た!


 心臓が大きく跳ねた。


 ここは誰にも見つからないはずの場所だった。僕しか知らない、僕だけの秘密の空間。そのはずなのに、今、すぐそこに誰かがいる。


 どうする?


 服を着るべきか? でも、シャツを掴んで頭からかぶるだけでも、草が擦れる音が出る。ズボンを履こうと足を動かせば、落ち葉が鳴る。そんな音を立てたら、確実に気づかれてしまう。


 僕は一糸まとわぬまま、息を殺した。


 耳を澄ます。


 ガサ……ガサガサ……


 足音はすぐ近くにあった。この秘密の空間の周りを、誰かがゆっくりと歩いている。それも、一人ではない。


 二人……いや、もっといるかもしれない。


 僕の胸の奥で、何かが強く締め付けられるような感覚がした。冷たい汗が背中を伝う。まるでこの空間全体が、何者かに包囲されているような、そんな気さえしてきた。


 彼らは誰なのか? なぜ、ここに来たのか?


 恐怖と緊張の中で、僕は微動だにせず、ただじっと息を潜めていた。


 ガサ……ガサ……


 足音はしばらく僕の周りを彷徨っていた。しかし、やがてそれは少しずつ遠ざかり、森の奥へと消えていった。


 ホッ……


 胸を撫で下ろし、張り詰めていた息をゆっくりと吐き出す。心臓がまだ少し速く鼓動しているのを感じながら、慎重に首を巡らせた。


 ここは、僕だけの空間。


 外の世界と完全に切り離された場所。ここにいる間は、誰にも見つからないはずだった。なのに、今確かに人がいた。そして、その「誰か」は、確実にこの空間のすぐ近くを歩いていた。


 風が葉を揺らす音だけが響く。鳥のさえずりが、さっきまでの緊迫した静寂を埋めるように、再び森に戻ってくる。


 まるで何事もなかったかのように。


 でも、本当に何もなかったのだろうか?


 僕は、ふと背筋を冷たいものが駆け上がるのを感じた。


 あれは偶然だったのか? それとも、僕の存在に気づいていたのか?


 そんな疑念が頭をよぎる。


 この場所は、僕だけの秘密のはずだった。誰にも知られず、誰にも邪魔されない、僕と森だけの世界。


 けれど――本当にそうなのか?


 慎重に息を整えながら、枝葉の隙間からそっと外を伺った。


 風が木々を揺らし、また鳥の声が響き始める。まるでさっきまでの緊迫した空気など、最初から存在しなかったかのように。


 けれど、僕の心はまだ落ち着かない。


 さっきの足音は、本当に去ったのだろうか? それとも、僕が隠れていることに気づいて、どこかで様子を伺っているのではないか?


 そんな疑念を振り払うように、もう一度周囲を慎重に見回す。


 その時だった。


 視界の端に、妙なものが映った。


 最初は何かの見間違いかと思った。けれど、目を凝らしてみると、それは明らかに――人だった。


 しかも、二人。


 そして、彼らは――


 裸だった。


 僕は息を飲んだ。


 遠くに見える二人の大人。男か女か、それすらはっきりと分からない。けれど、確実に衣服を身に着けていないことだけは分かった。彼らは静かに森の中を歩いていた。まるで何かを探しているような、あるいは目的もなく彷徨っているような、奇妙な歩き方だった。


 なんで?


 森の中で裸の大人が歩いているなんて、普通じゃない。


 彼らは何者なのか? なぜこんな場所にいるのか?


 僕の胸の奥で、じわじわと恐怖が広がっていった。


 この森は広い。人が通ることはあるかもしれない。でも、裸で? それも二人一緒に?


 僕の脳は、目の前の異様な光景を理解しようと必死に動いていた。でも、どれだけ考えても、納得のいく答えが出てこない。


 その時、彼らの一人が、ふと立ち止まった。


 そして、こちらを向いた。


 見つかってはいけない。


 直感がそう告げていた。

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僕がハッテン女装になるまでに経験したたくさんの出来事 なお @naocd

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