2月25日 横浜市西区みなとみらい

 些細な気まぐれだが、その日は海を見たくなった。


 待ち合わせには早すぎる時間に元町・中華街駅行の地下鉄に乗車する。各線の乗り入れが増えて随分と便利になった。電車や飛行機などの交通機関を嫌う血族は少なくないが、私にとっては便利なだけでなく、世間との接点を感じられる場だ。人間達が積み込まれて粛々と運ばれていく。空いていても混んでいても同じだ。車両に乗ると、煩わしさを含め、日常、そして社会を生きているという実感が得られる。

 動く死体リビング・デッドとなっても社会からの断絶を気にするのは滑稽なことだと思うが、それに縛られている限りは人と共に生きていけると儚くも信じてきた。


 社会。そう、社会だ。


 邑、市、県、州、国。なんでもよい。人は生きるために群れ、群れるが故に軋轢を生み続けている。今でもなお互いの死体を数え合い、積みあがった高さを競い合うようなことが当たり前に起きている。其処そこ彼処かしこで。

 だが、それは不死者ノスフェラトゥとなった我々も同じなのだろう。

 自分のことすらよくわからず、他者のことはそれ以上にわからない。信頼と疑念と希望と絶望の重なり合ったこの世の中。

 全ての者が互いを信じ、愛する。その一方で互いを嫌悪し、殴り合いながら、緩やかに死に向かって進みゆく。それこそが生だ。私も死に向かって歩き続ける矮小な独りに過ぎない。早いか遅いかの違いだ。


 元町・中華街駅を出て山下公園へ。すっきりとしない天候だが、曇天の下の海のほうが今日の気分には合っているように感じられた。

 親子、カップル、一人。若い者、老いた者。男性に女性、日本人に外国人。様々な人とすれ違いながら、西に向かう。


 平山紬の処遇についてはそれなりに揉めたそうだが、結局、本部バチカン送りとなった。評議会カウンシルへの受け入れを行うのと同時に、議定書プロトコル違反の審議を行うとのことである。御大層なことだ。


 歩くことそのものが楽しいといった様子の幼児。それを見守る母親。


 事前にジョバンニから聞いていた様子から、もっと非人道的な処遇も想定はしていたが、思っていたよりもよほど真っ当な対応となった。行った先でどうなるかは私にもわからないが、取り敢えずは安心できる。


 しかしながら、それに付随した面倒事については皆が頭を痛めることとなった。

 平山の闇の子ゲット達は、当然に全員が転化したばかりの新生者ニューボーンである。闇の母から物理的に引きはがすことは、彼らの精神に強烈な負荷をかけるどころか発狂させてもおかしくない。その為、総勢二十名以上の吸血鬼を何らかの方法でイタリアに送り届けなければならないことになった。


 評議会カウンシルの基本的な活動方針として、人間にとっての違法行為をできる限り避けるというものがある。協力者ネットワークに限らず、吸血鬼の存在に気が付いている者は少なくないとは言いつつも、それでもほとんどの人間が触れることなく生きていく話だ。寄生虫がわざわざ存在を主張する道理はない。闇の者は闇に生き、夜の者は夜に生き、そして灰になるべきだと思う。


 平山の血統の特性だが、闇の子ゲット達はカメラなどの光学機器に姿が映らない。その為、多くの交通機関の利用に制限がかかる。一般的な客として紛れ込むのは絶望的だ。

 吸血鬼たちが隔てた土地に移動する為の手段、ノウハウは長年にわたって蓄積され、アップデートされ続けている。諸々は安全に運用されているが、その前提はあくまで数名単位だ。いかんせん今回は人数が多い。偽装は重ねれば重ねるほど面倒事とリスクが増える。合法なのは前提として、合理的な手段が求められた。

 日本本部からの依頼により、協力者ネットワーク達の中からプロジェクトチームが結成されて検討がなされた結果、として送るのが良かろうということで落ち着いた。もとより手段はそう多くはない。

 平山紬、阿蔵英雄、九石一慶、そしてその他の吸血鬼たちはおとなしくその提案を飲んだ。その結果、現在、横浜港で船に積み込まれている。鎮魂たましずめによって眠りにつき、特製のコンテナ内に積み込まれた吸血鬼たちはおよそ一か月後には異国の地を踏むことになる。


 ふと思い立ち、赤レンガ倉庫経由ではなく、桜木町駅経由で目的地に向かうことにした。私にとってはあまり面白味のない市街地を歩き続けると、遠くに帆船が見えてくる。

 日本丸の凛とした姿を目にしたことで、少し気分が晴れた。帆は畳まれているが、「海の貴婦人」と呼ばれていた頃の美しさには陰りが無い。

 そのままぶらぶらと歩き、白い帆を象ったホテルに向かう。ちょうど約束の時刻となった。


 ホテルのロビーに入ると一人の男が近づいてきた。洒落たスーツに身を包んだ中東系の顔。柔和な笑みは多くの者を安心させるだろう。

「お待ちしておりました。ネーヴェ様から申し付かっております」

 爽やかなイタリア語に私が無言で頷くと、「こちらへ」と促してきた。男はエレベーターに乗ると29階のボタンを押した。


 廊下の先を行く男が吸血鬼ヴァンパイアであるのは間違いないが、長生者エルダー新生者ニューボーンかというと微妙に判断できない。動きに過不足はなく、雰囲気も堂々たるものだ。だが、記憶にはない。

 私が知らない長生者エルダーはそう多くはない。

 「こちらでございます」

 男がノックし声をかけると、すぐにドアが開いた。今度は東南アジア系の女であった。こちらの顔も記憶にはない。

「お待ちしておりました。リビングにいらっしゃいます」

 女から自然に流れ出た言葉もイタリア語であった。


 部屋に入ると眼前に横浜港が一望される。窓から陽の光が差す中、座っている女性が視線を上げる。

「ごきげんよう。いぬい。久しぶりね」

「久しぶりだな。白雪ネーヴェ。元気そうでなによりだ」

 磁器人形ビスクドールのような滑らかな白の肌。軽くウェーブのかかった髪は、陽の光を通し金色に揺らめいている。

 月白げっぱくのワンピースは影のような装いの私と対照的だ。落ち着いた声は若さと老いの双方を併せ持つ不思議な雰囲気を持っている。

 優しく届くイタリア語は、彼女から名を呼ばれていた日々を呼び覚ました。微かに香る白檀。


「君が来るとは思わなかった」

 ネーヴェの向かい側に座る。

「髭の所為よ。本当に嫌味ったらしいこと」

 ネーヴェはわざとらしく渋面を作る。

 先ほどの男がワインのボトルとグラスを持って来た。ネーヴェと私の前にグラスを置き、ワインを注ぐ。洗練された動きだ。

 紅玉色の液体がグラスに流れ落ちていくその後ろに見えた微かな視線の動き。

「貴方達の主によく言っておいて頂戴。ネーヴェ様はご機嫌を悪くされてらっしゃいますよ、とね」

「承りました」

 男は微かに笑みを浮かべ慇懃に礼を残し退出する。

 葬送局レクイエムの者であれば覚えがないのも不思議ではない。ジョバンニは局員たちの全容を決して明かさない。想定通りだが、この部屋での会話は全て聞かれているだろう。聞いている連中はわからない。思い当たる先が多すぎる。


「これはジョバンニの描いた絵か」

「概ねそうよ。でも、今回は感謝もしている。ちょっとだけよ。末の妹が非道ひどい目に合うのは望まないもの」

「意見は割れたそうだな」

 ネーヴェはこくりと頷きグラスを手に取った。

「向き合おうという者が半分。これまで通りに流して終わりにしようという者が半分。でも、どちらもの様子に興味はあったようね」

 ネーヴェはワインを一息に飲み干した。喉の動きは可憐でありながら煽情的でもある。シェムハザの最初にして最古の闇の子ゲット。我々とは異なる出自の吸血鬼。百年紀を幾度も超えた真に古き者。

 シェムハザの血統の長姉ちょうしはグラスを卓に置きながら、舌で唇を舐めた。十代の娘の外観にはそぐわない官能のしぐさ。私はからかいの意図を受け流す。

 一瞬の後、にこりと見せた笑顔はどうみても純真な娘の表情だった。膝の上でゆるりと手を組むと、ネーヴェの視線がすっと鋭くなった。


「狂った父親がそこかしこで蒔いた種から芽が出てくるのよ。面倒を見きれるものではないわ」

 ネーヴェは微かに疲れたような表情を見せる。暫しの間。ネーヴェは顔を上げ右手をひらひらと振った。先ほどの男がやってきてネーヴェのグラスにワインを注ぐ。

「聞かれて困ることはないから、此処にいて。よろしいかしら。ハーリド」

「承知しました」

 非の打ち所のない物腰。私もグラスを呷る。

「”永遠のハーリド”とはいかにも我々らしいな。ジョバンニによろしく伝えてくれ」

 ハーリドは軽口を爽やかに受け流し、私が乾したグラスにワインを注ぐ。


 改めてネーヴェと向き合う。

「ジョバンニが問題としていることは結局何なんだ」

「あれが考えているのは、常にバランスよ。その点については極めてフェアね」

 ネーヴェはグラスをくるくると回し、紅玉色の渦に目を向けている。

「シェムハザの血統を恐れている、あるいは危険視している連中がいると聞いたが」

「その通りよ。私たちに全くその気が無くても、それを証明する術はないわ。それは貴方も同じ。感情以外で私の言葉を信じられないでしょう。そうではなくて? 乾」

 ネーヴェは私を真っ直ぐに見る。

「あの狂った父親の所為で私は多くの弟、妹たちに恵まれた。でも、その恵みが増えれば増えるほど私たちは心無い言葉を投げられ続けてきたわ。勝手な思い込みでね。何十年、何百年。千年を超えても、なお」

 ネーヴェはグラスを傾ける。

「私は望まないのに吸血鬼に成った。。生き延びることで精一杯だったあの頃。貴方に育ててもらったあの頃。そしてシェムハザの血統を束ねることにならざるを得ない今。私はただそっとしておいてほしいだけなのに。誰もそれを聞いてはくれない。私は何の為に吸血鬼になり、何の為に生きていると思うの? 乾。貴方はそれがわかる?」

 ネーヴェから滲みだした感情は床にこぼした水のようにじっとりと床を這い進み、私やハーリド、そして別室に控えている女に届いた。足先から上へ上へとにじり上がってくる。じわりじわりと絡みつきながら。

 ハーリドが苦しそうな息を漏らす。ドアの向こうで、どさりと何かが倒れ込む音が聞こえてきた。ほどなくハーリドも床に膝をつき、次の瞬間には倒れ込んでいた。


 ネーヴェと私はゆっくりとグラスのワインを干す。

「情けないことだな」

 私の言葉にネーヴェは頷き、グラスを傾けた後に言葉を発した。

「乾。紬への獄鎖チェインズの件は素直に礼を言うわ。本当にありがとう。私たちの妹を守ってくれて」

「誤解だ。見張る者エグリゴリの降臨があったからそうするしかなかった」

 ネーヴェは視線を外し、軽くため息をつく。

「そういうことにしておくわ。貴方の鎖は私でも切れない。あの子達があの子達であるために。自分が自分であるために……」

 ネーヴェがゆっくりと右手を伸ばしてきた。無言の時間。ネーヴェの掌に私の掌を合わせる。絡み合う指。込められた力を素直に受け取る。

「状況は動いた。私は、妹たち、弟たちのために生きるわ。貴方もいろいろとを考えるべきではなくて」

「そうだな。だが、なかなか他の方法が思いつかない」

「馬鹿じゃないの。恰好ばかりつけて」

 ネーヴェの口元の浮かぶ笑みは優しかった。


 私は、死した後にその先を生きることとなった二人のことを思う。平山紬が望んだ生と、阿蔵が叶えようとした平山の生に差があるのだろうか。

 差があったところでどうなるものでもない。起きるべくして起きたことは、なるべくしてなるところに至るしかない。それが道理というものだ。


 起きてしまったこと、起こしてしまったこと。彼女と彼はそれに向き合い、自らの生を選ばなければならない。死してもなお。

 それこそが亡き二人が果たすべきことなのだから。


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亡き二人のためのパヴァーヌ 夔之宮 師走 @ki_no_miya

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