1月31日4:50 那須高原

 榊と並んで歩を進める。一歩、また一歩と見張る者エグリゴリに近づく。


 榊が歩みを止めた。床を見ると横真一文字に穿たれた跡があった。

「ここを超えると対象として認識されます」

 二階に向かう階段の前で微動だにしていない見張る者エグリゴリまで、およそ五十メートル程度。

「そしてそこです」

 榊が剣先で示した場所。二十メートルほど先にも床を削り取ったような跡がある。

「そこを超えると動き出します」

 改めてロビーを眺めるとテーブルやソファの類は残骸だけとなっており、そこかしこに動きを止めた天使アンゲロイが倒れ込んでいる。屍食鬼グールのような死体そのままの姿ではなく、どことなくミケランジェロの彫刻のような清らかさを持ちながら、生物と無機物のはざまのような不安を呼び起こす姿を晒していた。


 ロビーの外周にそって何体もの吸血鬼が倒れているのが目に入る。鎮魂たましずめによって深い眠りについている者達だ。新生者ニューボーンの身体は降臨の器にはならないが、戦いの邪魔になるので端に追いやっていたのだろう。乱雑に重ねられている身体もある。


 二本目の床の印の前で私は歩を止める。

「確認したいことがある。ここで待て」

 無言で頷く榊を残し、見張る者エグリゴリに向かう。私の歩みに合わせるかのように、見張る者エグリゴリの身体に力が漲っていくのが知覚された。人の笑顔を模した金のマスクの目の奥は黒く、視線は見えない。だが、確実に私を見ているのがわかる。


 私は恐怖テラー能力ギフトを顕現する。私の不識インヴィジブルは、他の血族のように物理的に透明になったり姿を消すものではなく、恐怖テラーの領域や出力を調整しているに過ぎない。

 些末な恐怖ではちょっと見てみようといった感情も湧くだろう。怖いもの見たさというものだ。だが、真なる恐怖。確実な死ならばどうか。

 勿論、死を直視できる者もいる。だが、それは見たくて見ているのではなく、視線を外すことができないだけだ。その者は恐怖に絡み取られ、視線すら自らの意思で動かせない。

 脳では理解できるかもしれない、理屈は受け入れられるかもしれない。だが、本能はそれから逃れようとする。生きとし生けるものの本質として、避けられるとわかっている死を自ら受け入れられるものではないのだ。

 私の不識インヴィジブルは、死から目を背けさせるだけの能力ギフトだが、抗える者は極めて少ない。

 さて、見張る者エグリゴリはどうだろう。聖別された無垢なる精神を器に降臨する御使い。シェムハザの血統から引き出された我々の認識外の


 見張る者エグリゴリは四本の腕で槌鉾メイスを振り上げるが、困惑したかのように落ち着きのない動きを見せている。先ほどまで私を見ていた金のマスクの奥の闇は、もう何も見えていないかのようだ。


 そうか。お前も死は怖いのか。


 私は見張る者エグリゴリの背後に回り込む。何かを感じ取ったのか見張る者エグリゴリ槌鉾メイスで周囲を薙いだり、床に叩きつけ始めた。そして、手ごたえがないことに怯えているように見える。


 この化け物の身体構造がどうなっているかはわからない。だが、受肉しており物理的に稼働しているならば、まずは中心を狙うのが常套だろう。首から上のない背を眺めるとおおよそ三メートル程度といったところか。動きに合わせて筋肉のようなものが躍動しているのが見える。ならばも効くだろう


 右手は拳を握り腰溜めに。左手の平を前へ上げる。左の足を前に。膝を少し緩め、腰をやや落とす。息を吸い、止める。

 右から一歩進み、左脚を上げ、下す。

 震脚。

 ずしんという音と共に床が割れる。


 見張る者エグリゴリが音に反応し振り向きざまに叩き込んできた槌鉾メイスが届く前に、踏みしめた左脚と身体を蹴り出した右脚によって発せられた力が、脚から腰へ、そして背中を伝って右の拳に届く。

 極めて理想的に身体の中を伝わり、吸血鬼の筋力によって増幅されたけいは、見張る者エグリゴリの、人で言えば脊椎にあたる内骨格を完全に粉砕し、周囲に張り巡らされた筋肉と思しきものを霧に変えた。背の中に埋まった右拳の周辺は消し飛び、クレーターのような有様を晒している。身体の中から、何らかの体液がぼたぼたと垂れ、肉の塊のようなものがどさりと落ちた。紅い体内がひくひくと蠢いていた。


 右腕を引き、構えを整える。観察する。刹那の思考。


 振り下ろすような左脚の蹴りで見張る者エグリゴリの左脚をし折った。倒れ込むのを防ごうと、バランスを崩した見張る者エグリゴリが手を伸ばす。その肘に向かって右脚を一閃した。折るつもりだったが、存外に弱く、断ち切られた肘から先が床をごろごろと転がっていく。


 私は榊を呼ぶとともに、傾いだ見張る者エグリゴリにぴたりと背を合わせる。膝を抜き、一瞬の後、床を踏みしめ、けいを背中から発し、榊に向かって見張る者エグリゴリの身体を弾き飛ばした。


 駆け込んできた榊は、左手に持った大量オオハカリを逆袈裟に斬り上げる。咄嗟に身体を庇った見張る者エグリゴリの三本の腕の内、一本は落ち、二本に深い傷跡が残った。榊はそのまま一歩踏み込み、右手に持った粟田口国綱あわたぐちくにつなを上段に構え、教本のようなすっきりとした自然体で振り下ろす。微かに風を切る音。遅れて二本の腕が落ちた音が聞こえる。


 その時。床に落ちていた天使アンゲロイ達の身体が白く霧散し、見張る者エグリゴリに向かって集まり始めた。

「先ほどまでは見られなかった現象です」

 榊の言葉が追撃の為に近づいた私に届くのと同時に見張る者エグリゴリの四本の腕と脚が一瞬にして復元し、振り向きざまに掴みかかってくる。

 勢いのまま伸ばされた腕に手を添え、体を捌きつつその勢いを乗せて巨体を床に転がした。綺麗に一回転した見張る者エグリゴリは立ち上がりながら拳を振り上げてくる。

 一つ目の拳は空を切る。だが、それはフェイントのつもりだったようだ。体を引いた私を追って拳が突き出されてくる。

 動きが粗い。

 腕が伸ばしきられた瞬間を狙って肘を下から蹴り上げると、簡単に折れる。背後から掴みかかってくる手を宙返りで躱し、がら空きになった相手の左わき腹、金色の仮面のすぐ横に手刀を撃ち込むと肘近くまで埋まった。

 指の先に何か固いものが触れる。復元した骨だろうか。それを握りしめ、恐怖テラーを流し込む。見張る者エグリゴリとそこに集まっている天使アンゲロイ達の魂が声にならない悲鳴をあげた。

 嘆きの妖精バンシーのごとき叫び声は、彼の者達の死の予告。見張る者エグリゴリの復元に使われるはずだった魂が、片端から消えていく。


 私は骨を手放し、鷲掴みをしようとする形のまま薙ぎ払う。柔らかさをもった何らかの器官がぶちぶちと切り離されている感覚が指に残った。金の仮面がロビーの先まで飛んで行き、からんからんと乾いた音を立てて転がっていく。


 見張る者エグリゴリの仮面の下には、西瓜ほどの大きさの眼球があったようだ。今は空洞となった部分に、だらだらと血のようなものが流れて落ちている。


 榊は見張る者エグリゴリの正面から大量オオハカリを突き入れ、左に向かって回転しながら十束剣を振るう。私が内から薙いだ傷と対象の位置が切り裂かれた。榊が垂直に飛び上がって後ろ蹴りを放つと、見張る者エグリゴリの上半身が吹き飛んで行く。

 着地し、大量オオハカリを手放した榊は、粟田口国綱あわたぐちくにつなを両手で正眼に構えた後、振り上げ、そして振り落とした。縦に真っ二つとなった見張る者エグリゴリの下半身は、糸が切れた人形のように倒れる。


 私がロビーの奥まで飛ばされた見張る者エグリゴリの上半身に追いつくと、残り香のような白い霧が集まってくるが、先ほどのような密度も力も感じられなかった。見張る者エグリゴリの身体は一向に復元しようとしていない。


 思い出したかのように舞う雪と漂う白い霧が混じり、優しい吹雪となっていく。


「もう夜が明ける。そろそろ終わりにしよう」

 私に向かって力なく伸ばされる腕を押しのけ、金のマスクのあった箇所。しゅうしゅうと煙のようなものを立てている眼球の残骸に向き合う。

「その残骸の奥に魂の心臓アニマエ・コルが見えます。白い球が」

 背中に届く榊の声が無くても知覚できた。

 儚き魂の核。


 私はゆっくりと膝をついた。右手を見張る者エグリゴリの身体に差し入れ、心の中で祈る。そして、無垢なる魂をそっと握りしめた。


 硝子の割れるような音は幻聴だっただろうか。急速に灰になり、風に巻かれていく見張る者エグリゴリを見ながら、私は立ち上がる。

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