勝負!

明弓ヒロ(AKARI hiro)

一本!

「はじめ!」

 審判の掛け声が、静かな闘技場に響いた。


 相手の右手が俺の左袖を掴もうとしたが、俺は難なくそれを振り払った。

 いや、振り払えてしまった。一昨年までは振りほどこうとしても、絶対に振りほどけなかった右手だ。


 逆に俺が相手の奥襟を掴もうとすると、相手はのけぞって避けた。

 俺が一歩間合いを詰めると、相手はすかさず距離をとる。


 俺は相手の表情を敢えて見ないようにした。

 見なくても、かすかに怯えたような表情が俺の目の端に映る。決して、見たくなかった表情だ。


「まて!」

 審判が試合を止める。


「指導!」

 消極的な相手の態度に審判がペナルティを与えた。指導が3回与えられれば柔道の試合では反則負けだ。そんな後味の悪い結末は真っ平ごめんだが、そうなる可能性は濃厚だった。


「はじめ!」

 再び、試合が再開する。相手は、俺の袖を掴もうとするが、気迫は全く感じられず、指導を受けないための素振りであることは明らかだ。


 試合開始直後の観客席の興奮も、いつの間にやら、しらけムードが漂い、ブーイングが出てくるのも時間の問題だ。


「はぁっ!」

 俺は気合を発し、相手に組みかかった。礼を重んじる日本柔道では試合中の掛け声はマナー違反だが、オリンピック代表を決める大舞台で不甲斐ない試合など見せられない。この気合は自分だけでなく、相手にも喝を入れるための気合いだ。


 あんたも昔はそうだったろう。俺は逸らしていた目を、しっかりと相手の顔に向けた。


 そこには、おれの憧れた顔があった。だが、今は、そこにあるのは俺の観たくない顔だった。


 はじめて、この顔を見たのは今から十年前。俺が中学一年生のときだ。俺の通っていた学校は、必ずどこかの部活に入らなければならないという決まりがあり、半ば無理やり入れられた柔道部だった。そして、この人は柔道部の部長の三年生だった。


 中学一年生にとって三年生は、わずか二歳の差だが、大人と子どもの違いだ。どの三年生も大きく、強く、怖そうに見える。だが、この人は素人目に見ても、他の部員たちとは雰囲気が違った。一見、物静かな佇まいだが、内側から溢れるようなオーラが目に見えるようだった。そして、中学生の全国大会で3年連続優勝という、前人未到の記録を打ち立てていた。


 部活動でも、その圧倒的な強さで他の部員と組み手をしても練習にならず、新入部員の指導を一手に引き受けていた。柔道初心者の俺は、まさに手取り足取り、受け身のやり方から始まり、立ち技や寝技の基本から、丁寧に教えてもらった。


 最初は嫌々で始めた柔道で、試合をしてもすぐに負けていた俺だが、部長の丁寧な指導のおかげで少しずつ上達し、卒業してからも時々部活に顔を出しては稽古をつけてくれて、中学3年では県大会ベスト4まで勝ち進めるようになった。


 そして、進路に迷っている俺に、自分のいる高校に来いと誘ってくれた。来年は俺の高校最後の全国大会、団体優勝にはお前が必要だと、最初で最後のチャンスに力を貸して欲しいと。俺なんかには無理ですと断ったが、お前は自分の才能をわかっていない、絶対にお前にはできる、自分が責任をもって鍛えるから、いっしょに優勝旗を持ち帰ろうという熱い言葉に、子どもだった俺は感動し、この人を信じてついて行こうと決心した。


 そして、入学した高校では、まさに地獄の特訓が待っていたが、血反吐を吐きながら耐え、先輩は俺を皆の反対を押し切って副将に抜擢し、見事番狂わせの団体優勝を勝ち取ったのだ。


 俺は先輩の後を追って必死に食らいつき、いつしか国内の有力選手となり、先輩とともにオリンピック出場候補と見られるようもなった。


 あこがれの人に追いつきたい、ただ、それだけが俺の目標だった。しかし、それは残酷な目標だった。


 去年の全国大会決勝、俺と先輩と組み合わせとなり、薄々恐れていた予感が現実のものとなった。


 普段の練習中から、いつしか俺は先輩との組み手に違和感を感じていた。技の切れも今一つ、力も以前ほどの強さがない。以前なら、払えるはずのない手を払い、昔なら決まることのなかった技が決まるようになった。


 最近のお前は強くなったと最初は先輩も余裕があったが、いつしか俺を後輩として見る余裕は完全に無くなり、本気でライバル視するようになった。やがて、練習中での戦績は五分五分となり、大会前には俺の方が勝るようになった。


 そして、決勝戦、試合開始わずか1分たらずで、俺の一本勝ちとなった。


 その後も、俺と先輩との差は開いて行った。今年に入って、先輩は俺に一度も勝てていない。それどころか、他の選手も勝てなくなり、マスコミからも終わった選手扱いだ。


 今大会も辛うじて勝ち上がってきたが、準決勝では不戦勝、それ以外は判定勝ちと、一本勝ちは一つもない。


「指導!」

 二回目の指導が、消極的な攻撃をする先輩に与えられた。あと、一回で俺の判定勝ちだ。


「はじめ!」

 俺が先輩の袖を取りに行くと、先輩は後ろに下がって避けた。


 練習中、先輩は俺にオリンピックの夢を語ってくれた。自分は絶対に日本代表に選ばれる、必ず金メダルを勝ち取って日本にもってかえる。そのときはお前に真っ先に見せてやると。


 二人でオリンピックの中継を見ていて、決勝で金メダルは間違いなしと言われていた日本人選手が負けたとき、あんなに強い選手が負けるなんてと、先輩は号泣して悔しがっていた。


 だが、運命は残酷だ。オリンピックの夢は先輩から離れようとしていた。そして、その夢を打ち砕くのは俺だ。


 だが、勝負は勝負だ。


――先輩の夢は俺が叶えます

 俺は心の中で呟き、一気に先輩との距離を詰めて右手で奥襟を取った。


 右手を一気に引き寄せ、先輩のバランスを崩したところで、右足で大外刈りにいく。

 先輩が必死にこらえて、重心が前に出た瞬間、大外にいっていた右足を外した。


 両者の力のバランスが崩れ、先輩の体がさらに前のめりになる。


 その一瞬の間に、俺は先輩を背負い、投げをうった。


 勝利を確信した瞬間、俺の体は宙に舞った。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 一年後。オリンピック柔道決勝戦。


 先輩は指導を2回取られ後がない。積極的に攻めているが相手が組み合おうとしない。にも関わらず、なぜか攻めている先輩に指導が入っていた。


 相手が苦し紛れに投げを打ち、両者の体が崩れる。


「ワザアリ!」

 審判が相手の技ありをとり、地元の観客席が沸いた。当然、日本人応援団の俺たちは、露骨に地元選手に有利な判定にブーイングの嵐だ。


「ハジメ!」

 先輩は相手と組み合おうとするが、相手は戦うそぶりすら見せずに逃げる。


「汚えぞ!」

「審判と二対一かよ!」

 試合時間は残り30秒。このまま逃げ切れば相手の勝ちだ。皆、涙目と怒りと入り混じった決死の表情で、試合場に立つ先輩を応援している。


 しかし、追い詰められた先輩は無表情で冷静だった。


――オリンピックは特別だ。

 代表に決まったあと、先輩は俺に言った。


――去年、お前に負けて、自分にはまだまだ足りないと思い知った。

――今のままではオリンピックに出場することはできても、金メダルを取れる保証はない。

――徹底的に自分を追い込む必要がある。

 試合ではあえて指導を2回受け背水の陣で戦う、試合前日は徹夜で睡眠不足の状態で戦う、時には自分の得意な技を封じるなど、先輩は意図的に自ら不利な試合状況を作っていた。


 スポーツマンシップには反する行為であり、反則負けになるリスクも高い。そもそも、国内の選考試合で勝てなければオリンピックに出場することすらできない。だが、何としてもメダルを取りたい、どんな状況でも勝てる実力が無ければ、オリンピックでメダルを取ることなど、夢のまた夢だと。


 先輩が強引に相手の袖を取り、不利な体勢から力づくで投げようとした。だが、相手には技がかからない。

 

 それでも、さらに強引に技をかけると、先輩の体のバランスが崩れた。


 絶好のチャンスに、逃げていた相手が技をかける。


 だが、それは先輩の罠だった。


――未熟な奴だ。

 最後まで逃げていれば判定で勝っていたものを。だが、他人のことは言えない。


「イッポン!」

 投げられたはずの先輩が、なぜか相手を投げ飛ばしていた。


 自国の選手の勝ちを確信していた開催国の観客席が、一瞬にして静かになった。


 俺たちのいる観客席は、会場が震えんばかりの歓声を上げた。


 皆が興奮し、落胆している空気の中、先輩が礼儀正しく、審判と、観客と、対戦相手に礼をした。


 そして、試合場を降り、俺の目の前でガッツポーズをした。


―了―

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