青春の墓標

まいこまき

青春の墓標

 きっと、とても長い夢を見ていたのだ。


 いつも思うことがあった。夢が覚める時は、優しくあって欲しい。優しく終わった夢ならば、きっと思い残すこともないだろうから。それが無理ならば、覚めないで。永遠に夢の中にいさせて。そう思ってしまうのは、我儘だろうか。


 まるで祈りだ。都合のいいことにここには礼拝堂があるし、神様に祈ってみようか。なんて、馬鹿なことを考えている。


 だが、今の私はそんな馬鹿な考えに縋ってしまいそうになるくらいには限界だった。私はどこで間違えてしまったんだろう? 


 いいや、きっと、何も間違えてなんかいなかった。ただ当たり前に、私の恋が終わろうしているだけ。それだけのことだ。


「涼、どうしたの?」


 隣にいた逢が心配そうに覗き込んでくる。その大きな瞳から逃げるように目を逸らした。


「ううん、なんでもない」


 誤魔化すように口にすると、彼女は心配そうな顔をする。こういう時の逢は妙に勘が鋭い。ずっと変わらない。


「ほんとに? 体調悪いならさ、無理しないほうが良いよ。顔色、悪い」

「大丈夫だってば!」

「なら、いいんだけど……」

「あ、ごめん……、やっぱりちょっと疲れてるのかも」


 つい、大きな声を出してしまった。


 ああ、駄目だ。今日はこんなにも素敵な日なのに。私は、どうしても親友の結婚を祝う気にはなれなかった。


「なんだか、変な気分なの。逢が結婚するなんて」

「だよねー、私もびっくりだよ」

「……なんで他人事なの、もう」


 私に比べて、逢は驚くほどにいつも通りだ。いつも通りにけらけらと笑っている。


「まあまあ、そんなに緊張しないで」

「逢はもうちょっと緊張感持ったほうが良い……」


 完全に逢のペース。私はこの子には勝てないのだ。いつも私を振り回して、連れ出して、楽しそうにしている。


「それにしても、ゆうくん遅いなー」

「式場の人と打ち合わせしてるんだっけ?」

「そうそう、こっちは準備オッケーだってのにねえ。あ~早く見てもらいたいなぁ」


 退屈そうにぼやく逢は、純白のドレスに身を包んでいる。白く清純なウエディングドレスは逢によく似合っていて、とても綺麗だ。


「仕方ないよ、結婚式なんだから入念に準備しないと」

「そうだけどさ~、……あ、涼もごめんね、待たせちゃって」

「ううん、私は大丈夫」

「いやーそれにしても、涼に撮ってもらうのほんと楽しみだなぁ……」

「もう、あんまり期待しないでよ」


 逢には結婚式の写真撮影を頼まれている。今日は朝から式場に入り、ヘアメイク中の逢や親族の控室でスナップを撮っていた。予定ではこの後スタジオでの親族一同での記念撮影になっているはずだ。


「いやいや、期待しちゃうよ。だって涼が撮った私が一番綺麗だもん」

「……なにそれ、ばか」


 まずい、この流れは。


「ちょっと新郎側の写真も撮ってくるから、逢はここでおとなしくしててね」

「はーい」


 胸が苦しかった。これ以上この場にいてはいけない。私は、逃げるようにその場を離れる。いっそ、このまま帰ってしまいたい。それはなんだかとても魅力的な考えだ。


「駄目でしょ……」


 誰もいない廊下で独り言を言った。声に出さないと楽な方へ逃げてしまうから。春のぽかぽかした陽気はまるで私を追い詰めるようだ。


 ああ、本当にどうしてこんなことになったんだろう。 


 私は、不器用な子供だった。自分の思っていることを口に出すのがうまくできず、いつも周りから浮いていた。友達は、いない。いなくたって構わない。そう思っていたし、これからもそうやって生きるつもりだった。 

 だが、その生き方は苦しかった。生きることは、まるで溺れることに似ていた。もがけばもがくほどに、深い海の底へ沈んでいくような感覚。


 いつの間にか、季節は巡っていく。気づけば、高校二年生になっていた。校庭の桜は満開となり、新入生たちを祝っているかのよう。


 学年が変わろうと、私の世界は変わることはない。きっとこのまま、自分の学生生活は終わるのだろう。そんなふうに考えていた。


「ねえ、宮本さん」

「……え? な、なに? えっと、葉山さん」


 休み時間、自分の机で暇を持て余していた私のもとに、彼女はやってきた。


「今日さ、一緒にお昼食べない?」

「いい、けど……」


 思いがけない提案に私は目を白黒させてしまう。

 葉山逢。彼女は明るくて友達も多かったから。私とは、違う世界の人間なんだと思っていた。


「やった! じゃあお弁当持ってくる!」


 次の日もその次の日も、逢は私のもとへやってきた。逢はよくしゃべる子だったが、私の話にもちゃんと耳を傾けてくれた。


 友達が、できたと感じた。初めて、教室で呼吸ができた気がした。この息が詰まりそうな場所の隅でうずくまっていた私を、逢だけが見つけてくれた。

 

それからは……まるで夢心地の日々だった。昼休みの楽しさも下校途中の寄り道も全部、逢が教えてくれた。




「ねえ逢、前から気になってたんだけど……」


 一緒にいることも恒例になってきたある日、私は思い切って逢に訊いてみたことがある。どうして、私に話しかけてくれたのか。逢はクラスでも人気者だったから、私になんか興味がないと思っていた、と。


「んー? だってずっと涼と話してみたかったんだもん」


 お弁当の卵焼きをパクつきながら、ことも何気に答える逢。


「そ、そうだったの……? でもどうして……?」

「そりゃ、単純に見た目がタイプだったし」

「……はい?」

「去年から仲良くなりたいなーって思ってたけど、クラス違ったし中々ね。まあ、でも確かに今考えると、結構突然だったかなあって思うよ」

「……本当だよ、あの時すごいびっくりしたんだから」


 なんだか拍子抜けしてしまった。別に何かを期待していたわけではないんだけど。


「でも、こうやって涼と話すようになって、なんていうのかな……、見た目だけじゃなくて、他にも涼のこと知れてさ、話しかけてよかったなあって思うよ」

「……そりゃどうも」


 唐突に殺し文句だ。照れ臭くなって目を逸らす。人タラシとでも言うのだろうか。逢の笑顔は不思議だ。何でも許してしまいたくなる。


「それにしても、髪とかもほんとキレイだよねえ、こんなに長いと手入れとか大変じゃない?」

「ちょっ、ちょっとっ……なにするの」


 いきなり髪に触れられる。逢の指が私の髪を梳くように撫でていく。心地よい感覚だった。


「わあ、さらさらだ。ふんふん……、しかもなんかいい匂いする」

「や、やめてよ……」


 髪の匂いを嗅がれる。そんなこと、今まで一度だってされたことがなかった。もしかしたら、女の子の間では当たり前のコミュニケーションなのかもしれない。いや、今考えればそんなわけないんだけど。


「んっ……」


 髪の匂いを嗅がれるという気恥ずかしさとくすぐったさに思わず声が漏れた。


「あっごめん、ちょっと調子乗っちゃった。でさでさ、涼はシャンプー何使ってるの? この匂いめっちゃ好き~」

「ほんと、バカ……!」


 この匂いが好きと君が言ったから、7月7日は『TUBAKI』記念日。



「それじゃあ、今から写真撮影に入ります。宮本さま、お願いします」


 式のリハーサルを終え、いよいよ私の出番が来た。スタッフに呼ばれ、私は逢のもとへと向かう。大丈夫、大丈夫だ。


 自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返す。私は、いつも通り。いつも通りにやれる。


「えへ、それじゃよろしくね、涼」

「宮本さん、引き受けてくださって本当にありがとうございます」


 新婚夫婦は二人そろって幸せそうに私に向かって微笑むと、どちらともなく手を繋いだ。二人の周りには親族たちが、みんな祝福するように笑顔を浮かべている。幸せな空間とはこういうことを言うのだろう。私だけが、異物だった。……仕事を、しなければ。二人に指示を出し、ベストな立ち位置を探す。


「それじゃあ、その位置で腕とか組んでみましょうか」


 できるだけ、平静を装って作り笑いを浮かべる。この空間に馴染もうとした。指示したとおりに逢は腕を組む。胸を刺す痛みは無視した。


「じゃあ次は……少し自然な感じにしてみましょうか。カメラから視線外してもらって……、そう、お互いを」

「こう? へへ、なんか恥ずかしいね」


 逢は少し照れながら彼を見てはにかんだ。


 ねえ……、そんなふうに笑わないでよ。お願いだから、その人の隣で、私が見たことない顔をしないで。


「うん、ばっちり。リラックスできましたか? それじゃ、もう一回こちらに目線をお願いします」

「はーい!」

「逢、もうちょっと落ち着けよ……」

「落ち着いてるよ~、ていうか、ゆうくんはガチガチになりすぎ」

「う、うるさいな」

「はいはい、いちゃいちゃするのは後にしてください」

「ちょっと、涼~……そんなんじゃないって!」


 親族たちが笑う。それにつられて、二人も笑いだす。笑い声に溺れそうだ。この場所は孤独だ。あの頃の孤独よりもずっと深い孤独。


「それじゃあ、ご両親もご一緒に」


 私はきっと、ここにいてはいけないんだ。どんなに自分を騙そうとしても、騙せるわけがない。この時間が過ぎるのをやり過ごすほかにできることはなかった。




「すーずっ!」


 撮影終わりに一人でデータの確認をしていると、後ろから逢がやってきた。撮影終わりだからかやけにテンションが高い。


「逢? ちょっと、花嫁が何やってるの……」

「ちょっと休憩していいって言われたんだよ~」

「だからって……、もう、ドレス着てるんだからじっとしてないと」

「いいの! 涼と一緒にいたいもん」


 逢はへらへらと笑い、後ろから私の肩に腕をまわして抱きしめてきた。……暗い喜びが私の中を満たす。我ながら悲しいくらいに単純だ。


「もう……しょうがないんだから」

「へへ~、やっぱ涼いい匂い」

「……変態」


 髪を嗅がれると、懐かしさが込み上げる。肩に触れる逢のぬくもりに、幸せを感じる。

 このまま、時が、止まってしまえばいいのに。世界に私たち二人だけになって、他のどいつもいなくなって、逢といつまでも一緒にいられたら。他に望むものなどあるだろうか。


「涼、どしたの?」

「え?」

「変な顔してるから」


 逢の表情はなぜかとても優しくて。とても大人だと思った。


「……そろそろ、戻らないと。招待した人来ちゃうよ」


 絞り出すように告げる。本心とは裏腹の言葉は、思ったよりも上手に響いた。


「そうだね~……ね、いっこだけ、我儘言っていい?」

「我儘?」

「うん、今からここでさ――」



 その日は二年生の冬、期末テストの最終日だった。これを乗り切れば冬休みということもあり、テストが終わった午後はクラス中がなんとなく緩んだ空気になっていた。


「やっと全部終わったよ~、もう一生分べんきょーした……」


 逢は机に突っ伏しながら大きく息を吐く。私も解放感からほっと一息ついた。勉強が苦手な逢にしては今回のテストはよく頑張っていた。期間中は二人で図書室に籠り、教科書とにらめっこをしたものだ。


 逢は典型的な文系で、現代文だけは勉強しなくても異様にできるものの、理数系はからっきしだったので、公式を覚えさせるのに何度説明したか。


「おーい、お二人さん。テストお疲れ」


 背後から声を掛けられ振り返ると、逢の友達のりょうちゃんが晴れやかな顔で立ってる。


「あ、りょうちゃん、お疲れ~。もうくたくただよ」

「逢~、よろよろじゃん~。いや、今回範囲広すぎな、赤点とりそう」

「私も~……」


 仲良さそうに笑い合う二人。なんとなく会話に入れずに曖昧に笑っていると、りょうちゃんは私の手を取ってくる。


「涼、逢に勉強教えてたじゃん? 学期末は私にも教えてよ~、ね、私を助けたくはない? 次も赤点取ったら進級ヤバいんだよ~」

「ちょっと! 涼は私のなんだけど~!」

「え~、良いじゃん。独占禁止!」

「えっと、私は別にいいけど……」


 りょうちゃんは陸上部で高跳びの選手をしてるスポーツ少女で、私ともよくしゃべってくれるとてもいい子だ。その明るさが、とても羨ましい。


「あ、この後さ、どっか遊びいこうよ」


 逢は身体を起こしながら提案する。ようやく勉強から解放されたわけだし、今日くらい遊びまわっても誰も文句は言わないだろう。


「いいね、久々にカラオケとか行く?」

「お、いいねいいね~。涼はどこか行きたいところある?」

「私は……逢が行きたいところで……」

「そっか! じゃあ――」


 結局、その日はカラオケにゲームセンター、クレープ屋さんと三人でずっと一緒にいた。そういった娯楽施設に縁のない私にとってはいろいろと新しい経験で、とても楽しかった。


 だから、その時に思ったのだ。この瞬間を切り取って、大切に形にして取っておきたいと。


 人は忘れていく生き物だ。誰かがそんなことを言っていた。でも私は、忘れたくなかった。楽しい時間も、愛おしい時間もずっと手元に置いておきたい。そうしないと、不安になってしまう。あんなに楽しかったのに、忘れてしまうということは、それほど大事な思い出でもないということになってしまいそうで。


 それはとても悲しいことのように思えてしまってならない。だから私は、写真を撮り始めたのだ。



 私たち二人以外に誰もいない部屋。逢は私だけに向けて、優しく微笑んでいる。私はその姿をこの世界のどこかに留めようと、ひたすらにカメラのシャッターをきる。


「……逢」

「ん……、なに?」

「すっごく綺麗」

「ちょっと、やめてよ……照れる」

「ほんとだもん。本当に綺麗だよ」

「……ありがとう」


 逢は照れ臭そうに笑って、私の隣にやってくる。逢の甘い香りが鼻先まで漂う。


「ねえ、一緒に写ろうよ」

「……うん」


 身体を寄せ合い、カメラを高く掲げる。自分を撮ることなんて滅多になくなっていたから、少し恥ずかしい。


「あ、涼変な顔~」

「うっさい、逢だって目つむってる」

「あ、ほんとだ……!」



 何気ない言葉を交わし合う私たち。この時間は永遠で、今だけは私たち以外に世界には誰もいない。なんて素敵なことだろう。


 私たちはどちらともなく手を繋いで、指を絡める。今日、逢は他の人のものになる。それはもう、変えることのできないことだ。


 それでも、この瞬間は、私だけのものだ。


「好きだよ」


 声に出して言ってみた。ずっと胸に抱き続けていた感情。


 逢は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。よく知ってる笑顔だ。なにをしたって、私にあの顔を見せてはくれないんだ。


「私も、涼のこと大好きだよ」

「……だよね、知ってる」

「ちょっと、なにそれ~」


 私たちの口から出た言葉は同じだけれど、意味は全く違う。でも、私の恋はこれでいい。


 一瞬を切り取る魔法が使えたって、どうすることもできないことがある。


「幸せになってね」

「うん、涼も。いつか絶対幸せになって」

「……私は幸せだよ」

「そっか、なら……よかった」


 逢は微笑むと私に背を向けて、部屋を出ていく。私は拳を握り締めた。そうしないと死んでしまう気がしたから。


 私の前から去っていく逢に、


「やっぱりさ、このまま二人で抜け出して、どっかに消えちゃおうよ」


 なんて、そう言えたらどんなに良かっただろうか。


 掌に爪が食い込む痛みで涙が出そうだ。夢なんて、とっくに覚めていたのだ。



「おーい、涼~~、どした~?」


 逢の呼ぶ声に意識がまどろみから掬い上げられた。暖かくそよぐ春風に髪が揺れるのを感じる。どうやら、うたた寝をしていたみたいだ。目を開けると、逢は私の膝に頭を乗せ横になってこちらを見上げていた。


「ん、寝ちゃってた」

「ありゃ、寝不足?」

「んー、そうかも、昨日あんまり寝てないんだよね」


 卒業式の終わった昼下がり。私は逢と二人で中庭の木陰にいた。ぽかぽかとした陽気がとても気持ちがいい。教室での最後のHRの後、二人で何を話すわけでもなく、ただおしゃべりをして校舎内をぶらぶらと歩き回った。


 教室の思い出、音楽室の出来事、理科準備室でのハプニング。そこであったことを懐かしむように、二人で記憶を共有させていく。


 そして、ここに辿り着いた。逢は私に甘えるように身体を寄せ、膝枕をせがんだ。


 ……逢は東京の大学に進学する。私は地元の専門学校への進学が決まっていた。


 まあ、そういうことだ。4月になれば、私たちは別々の場所で生活することになる。


「逢……」

「ん~?なんだよ~」

「……やっぱり、なんでもない」

「なんなんだよ~~」


 言葉が出てこない。逢に今のうちに伝えたいことは山ほどあるはずなのに。頭の中はかつてないほどの速さで回転するのに、浮かんでくるのは意味のない空っぽの言葉ばかりだ。


「……寂しくなるね」


 ぽつりと、逢がつぶやいた。


 視線を落とし、逢の顔を見やる。ふへへと悲しそうに笑う姿が目に入った。


「うん……、寂しいよ。電話、たくさんするから」

「ほんと? 約束だよ?」

「うん、約束」


 言葉が口をついて出てくる。離れたところにいても、楽しいことも悲しいことも全部逢に伝えよう。


 思わず逢の手をとり、強く握った。二人の体温が混ざり、言葉にはできないいろんな感情が形にならずに溢れ出しそうだ。


「……でも涼すごいよね。写真の専門学校行くんでしょ? やりたいことあって進学先決めるなんてさ。私はほら……、就職のこととか親の視線とか気にしちゃって」

「そんなことないよ、逢は……すごいよ。私、逢がいなかったらなんにもできてない。友達だっていなかったし、写真だって逢が褒めてくれたから続けてきただけで」

「涼は優しいなぁ。でも、ずるいよ……」


 逢は一層悲しそうに微笑む。私はその顔を見て、何も言えなくなってしまったことを覚えている。


「……ごめん」

「えっ、なんで謝るの~。私こそごめんね、なんか変な空気にしちゃって」

「全然、気にしてないよ」

「……そろそろ、帰ろっか!」


 逢が誤魔化すように話を切り上げ、身体を起こす。


「待って逢、一個だけお願いしていい……?」

「うん? なになに、いいよ」

「あのね、目を閉じて」


 逢は素直に目を閉じて私に身体を預ける。私は無防備な逢の唇に、自分の唇をそっと押し当てた。


「んっ……」


 柔らかい感触と温かい息遣いに脳が甘く痺れる。数瞬の後、私は逢から唇を離した。なぜこんなことをしたかは自分でもわからない。きっと頭で考えてすらいない。


 永遠よりも短いこの瞬間のことは、写真には残せなかったから。きっといつか忘れてしまうだろうけど、それでも。独りよがりな幸福に心が満たされるのを感じた。


 春風はもう一度、私たちの頬を撫でた。



「悠斗さん、逢さん、ご結婚おめでとうございます。今日の日が来るのをとても楽しみにしていました。すみません…、緊張してちょっとうまく話せなさそうなので、いつも通りに逢と呼ばせてもらいます――」


 あらかじめ用意していた原稿に目を落としながら、りょうちゃんがたどたどしく友人代表スピーチをする様子を、披露宴に参加する人々の丸テーブルの一角で目を細めながら眺めていた。


 二人は神の御前で誓いの言葉と口づけを交わし夫婦となった。


 健やかなる時も病める時も、喜びの時も悲しい時も、富める時も貧しい時も、その命ある限り。その瞬間の逢は、世界で一番美しい女の子だった。


「私と逢と、あともう一人。今、この会場にもいる宮本涼は高校の頃ずっと一緒にいました。逢はちょっと抜けているところがあるから、私たちがフォローすることが多かったけど、今日からは、悠斗くんが逢を助けてあげてください――」

 

 こっそりと机の下に目をやり、さっき二人で撮った写真を見返す。写真の私たちはやっぱり変な顔をしている。くすりと笑い視線を上げると、りょうちゃんの話を幸せそうに聞く逢がいた。


 ねえ、この想いが伝わることはないとわかっているけれど。それでも、もう一度だけ言わせて。


 私は、ずっとずっと……





「逢のことが好きだよ」


 私の告白は誰の耳にも届くことなく、ただ喧騒に溶けていった。

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