レール

心星 文琴

レール


『皆さん、卒業おめでとうございます』



パイプ椅子の冷気、窓から差し込む斜陽の筋、等間隔に並ぶ制服。

胸に挿したカーネーションがゆらゆらと揺れている。



『皆さんのこれからの人生に、レールはありません』



ハウリング交じりの宣告に春樹はるきはため息をついた。彼の斜め右前の席では、数人の女生徒たちが肩を寄せ合って泣いていて、それにつられるように周囲の生徒も同じように目頭を熱くしている。


春樹はその生徒たちを見ていた。あるいは彼女を見ていた、という方が正しいだろうか。女生徒の中でひと際鮮烈に泣いていた彼女は、女生徒に肩を抱かれ慰めの言葉をかけられている。


彼女の名前は高島渚たかしまなぎさ、春樹の初恋の人だ。



『……高島渚!』

『……はい!』



そうはっきりと返事をして立ち上がった彼女を、春樹はひどく呆けた顔で見つめていた。


証書の筒も、体育館に響き渡る賛歌も、全てが遠い昔に起こったことのように時間は実感を持つことを許さず、しかし確実に進んでゆく。歩幅の違う少年少女たちはいつの間にか互いの姿が見えなくなる程に遠ざかっていた。


手を伸ばせば届きそうな距離がどうしようもなく遠い。そう思うのは僕だけだろうか。

そんな少年の問いは、肌を刺す春疾風に乗って窓の外の彼方、車止めのその先へと運ばれていった。



『只今より、卒業生が退場します』



ひどく機械的に告げられたその言葉に従うように、卒業生は立ち上がり体育館の外へと歩き出した。涙を流す者、笑顔で後輩に手を振る者、その様相は様々だったが、春樹のように苦虫を噛み潰すような顔で前へ進むものはいなかっただろう。


式典の幕が下ろされると教室の緊張は解けたが、喧騒には普段の何倍もの寂寥が漂っていいた。

そこにいる誰もが最後の学び舎に思いを馳せながら、僅かに残された青春の香りを噛み締めるように過ごしている。


今日が終われば、僕たちはもう同じ場所に集まることはない。


はっきりと目の前に横たわるその事実に、春樹は机に伏して小さくため息をついた。



ああ、渚……。このレールに限りがあるように、この想いにも等しく限りがあればどれほどよかっただろう。



少年の願いは、無情にも時の扉に阻まれてしまった。期限付きの感情を味わうには少し時間が遅すぎたようだ。



『では皆さん、どうかお元気で! またいつか、さようなら!』


ホームルームを終え、それぞれが帰路に就き始める中、既に西に傾いて校舎の影を縦長に伸ばす太陽から逃れるように春樹は校舎裏の人目が付かない場所に向かった。

少し冷たい空気がほんのりと、この特別な一日の終わりを予感させるように漂っている。


まるで厳冬を越す桜の蕾のように、春樹はその時が訪れるのをただじっと待っていた。



春なんて来るはずがないことは、彼が一番解っている筈なのに。



「ごめん! 待った?」



少し冷たい風に乗ってその声が聞こえてくる。少し息を乱し、校舎裏の静けさを割るようにして渚はやってきた。



「ううん、大丈夫。僕も今来たところだから」



春樹は震える声でそう告げると、渚は安堵にも似た笑顔を浮かべた。



「よかった! あ、そうだ春樹、卒業おめでとう!」

「ありがとう、渚もね」



全身の紅潮を悟られないように春樹は短く呟いた。目の前の少女の透き通った瞳が彼の心を射るように注がれていて、いたたまれなくなった彼は伏し目がちにこう続ける。



「こうして二人で話すのは随分久しぶりだね」

「そうね、確かに久しぶりかも。春樹ちょっと身長伸びた?」



渚はそう言って随分小さくなった体で春樹の傍へと体を寄せる。鼻先が髪に触れそうなほどに、遠かったはずの二人の距離は瞬く間に近づき、彼の心臓は遠くを走る電車の音よりも大きく、早鐘を打つように鼓動する。



「うん、三センチくらい。渚も大人っぽくなったね」

「そうかな? あんまり実感ないけど、そうだったら嬉しいなぁ」



そう言って笑う渚の長くなった髪が風に靡く。笑顔は昔のままだ。



「……それでさ、今日はどうしたの? 改まって話がしたいなんて」


少しの沈黙のあと、渚が切り出した。不安とも期待とも言えない表情を浮かばせながら、しかしどこか確信めいたものを持っているような様子で、彼女は腕を後ろに組んでいる。



「……」


今、言わないと。これが最後のチャンスなのに。これを逃せばもう二度と彼女と同じレールの上を走ることは出来ないし、走れなくともこの感情は路傍に捨てられるほど安いものでもない。


きっと永劫求めてしまうのだろう。見えない君の姿を追い求めて、君が幸せになった時も、君が老い死に伏して、それを知りもしなかったとしても、僕はきっと君の幻影を求め続け、車止めの先の荒野を、君を求めて歩き続けてしまうのだろう。


それならば、終わらせられるうちに終わらせてしまえばいい。



彼は存外、盲目だった。



「あの……何と言うか、その……」


それなのに、春樹の体はひどく震えていた。これから行うことへの恐怖か、溢れそうな涙を堪える為なのか、あるいはその両方か。ともかく彼は雨に濡れた仔犬のようにひどく震えていた。


こんな儀式には何の意味もないことを、彼は知っている。


旅立つ彼女を静かに見送ることも出来ず、乖離する現実が彼女との縁と再び交錯することもなく、これからも変わらず日々は無情に過ぎてゆく。そのくせ自身のエゴを彼女に押し付けようとして、挙句それにすら踏み込む勇気も持てず、未だに彼女の轍の上で足踏みをすることしかできない。



この先の結末を受け入れるには、彼の心はあまりにも幼すぎた。


春樹が言葉を失い、茫然とその場に立ち尽くしていると、突然彼の手を握り渚は優しく微笑みながらこう告げた。



「大丈夫だよ……。ゆっくりでいいから」


渚がそう微笑みかけた時、春樹の中にある一つの記憶が呼び覚まされ、瞳から大粒の涙がとめどなく溢れだした。



「春樹……?」


「……あ、あれ? ごめん。泣くつもり、なんて、無かったんだけどなぁ……」



彼女はずっとここにいた、春樹はそう直感した。互いに見えている世界が少しずつ変わっていっただけで、心の根元の部分は彼が思うよりもずっと近くにあったのだ。



「……そっか。君はずっと……ここにいたんだね……」

「え?」



怪訝そうな顔をする彼女とは対照的に、春樹の表情は晴れやかなものになった。制服の袖で涙を拭いながら、春樹は笑って彼女にこう伝える。



「渚のおかげで、前向きな気持ちでこの言葉を伝えられるよ、……本当にありがとう」


たとえこの想いが彼女の胸に届かなかったとしても、悲しくなんてない。どれだけ離れようが、どれだけの時間が過ぎようが、彼女と過ごしたこれまでの時間が消えることはないのだから。


たとえもう二度と逢えなくなるのだとしても、過去を美化できるのは今の僕だけだ。

それならば今この瞬間をいつか振り返った時に、素敵な思い出であったと思えるように。



「渚、君が好きだ」



春樹は大きく息を吸い込み、震える体を律しながらそう言い放つ。



レールなんて無くたって、君との繋がりを感じられる。



だからきっと、大丈夫。



少し冷たい春疾風が、二人の間を通り抜けた。

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レール 心星 文琴 @mikoto_polaris

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