ヒロイズムの証明

雪乃兎姫

第1話

 人はみな、誰かにしらにあこがれるときがある。それは尊敬の念や妬みなどの感情を生み出し、そしてまたそんな感情を抱えたまま現実という海へと旅立つ。結果として、誰も彼もが徒労や無へと帰する。


 だがしかし、そうした物事であっても世の中には必需とも言える。それはある業種や業界を盛り上げるという性質上、必要不可欠なのだ。例えば、野球においても、打つ、投げる、守る、走る、いずれかの才能があれば長きに渡り活躍することできるわけだ。そうした中、子供たちは夢を語る際に彼らの名を挙げることで具現化した、目標を立てるのだが、ほとんどの人間は夢半ばで朽ち果てる。


 甲子園に行く……それは男子高校野球部員ならば、一度は夢に抱くはずだ。しかし、仮にそこで優勝したとしてもプロになれるのはほんの一部。また、全国大会の前予選、甲子園に行くことすら叶わぬことがほとんどなのだ。割合だけで言えば、都道府県内で割ると、50校に1校。下手をすれば、それすらも下回る選ばれたものしか行けないはずだ。その他は別の道を模索するしかない。


 例えばそう、野球部員としてではなく、選手を指導するコーチ・監督などの立場で、甲子園に行ったとしても、それは果たして夢を叶えたことになるのだろうか? これはある番組の弁護士が実際に数十年後に「甲子園で野球をする」という夢を叶えた内容であったが、括りとしては目標は達成していても、当時の野球部員としては夢を叶えたことにはならないのではないか? 少なくとも、私はそのように考えている。


 あこがれとは、それ即ち諦めのはじめの一歩でもあるのだ。


 またそれは人だけでなく、動物も等しい。鳥、豚、牛などを始めとした食目的で飼われている動物たちは、自らの食を探す必要はないのだが、狭いゲージや檻の中という自由なき自由のみで、自ら陽の目すらも拝めることはないことだろう。それこそトリの降臨でさえも同じこと。神ならざるものの、人という家畜に飼われ、子孫を育み、その後はただ食されるのみ。彼らにとって、あこがれは外の世界への自由なのか? それとも短き生を無知にも望むものか? 逆に自由や外の世界を知ることにより、自らの定めを呪い、やがては諦めへと通ずることだろう。

 

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