礼節の書き方【月】
固定標識
【月】の姿勢
物語とは、日常の粉砕破片の反射光である。
E君が取り憑かれたのは、日常の粉砕破片のうち、特に取るに足らないものでした。彼は【月】に心酔し、憔悴していたのです。しかし彼が爪と牙を誇る狼人間であったとか、そういう事実はございません。彼は【月】という漢字にのめり込んでいたのです。
彼の日々に【月】が亀裂を起こしたのは、なんてことの無い尋常の一瞬でした。彼は大学講義のレジュメに記された文字を、暇にかまけて一文字ずつ余白に書き写していました。特に格好の良い文字を見つけては、意気揚々とインクペンの尻を押し、一画に膨大な時間を掛けて書き上げるのです。彼は『止め』『はね』『はらい』の全てに夢幻の拘りを敷いて、丹念に写しました。その瞬間彼は、まるで自分が高名な水墨画家であるかのように錯覚し、気に入らない出来栄えには容赦なく斜線の罰を与え、気に入ったものにうっとりと目を細めては爪の先で柔らかく愛撫してみたりしていたのです。
そんな彼の何処へも終着しない情動を、勇んで受けたのは誰よりも【月】でした。【月】という、尋常小学一年生で習う文字に、彼は完全なる敗北を喫したのです。
彼はレジュメに映し出された黒文字の群れの中に【月】を見つけてしまうと、まず頭蓋の中に埃のような点々を作り出し、それらに対して整列するよう命じました。自らの思い描く、美しき月華の表象を命じたのです。
次第に影の群れは一つの感動的な風景を導き出しました。彼の想像上に、月は光景として屈服し、その感動は彼だけの虜となったのです。浜に松の木。細雲が月光に掛かる。しかしその金色とは遠い燦然が、彼の脳裏を支配しました。
彼はにんまりと口角を持ち上げ、続いて字としての【月】を支配しようと試みました。そして一画目である左方上部の『はらい』に手を付けた瞬間、肺を固められてしまったかのように動けなくなったのです。
彼はまず、左方上部の点から始めて、直角に降りようとしました。そしてするりと風が転ぶみたいに左にはらって見せれば、一画目は完成であったはずなのです。しかし彼の指先はそんな夢想とは異なって微動だにせず、あまつさえ額は汗を生み出しました。彼には、落下してゆく直線の、自然にも左方へと吹かれてゆく様子が、まるで想像できなかったのです。直線と曲線の中間地点というものが、彼には理解できませんでした。
彼は嘔吐の妄想に背中を引っ掻かれながら、もう投げやりなくらいにペン先をはらいました。それが彼にとって充分な一筆であったかは定かではありませんが、E君は多大に降りかかる重圧を、文字通り払いのけて見せたわけです。
しかし続いての二画目もまた、彼の首を締めました。
彼は二画目の、二度の右折を行う道程を、無限の迷路のように感じました。遠く長い旅路が、極小の手元に転がっていたのです。生唾を呑み込みながら見下せば、野蛮な鍵のような星座が瞳を焼きました。
一度目の右折は、絶対的に直角でなければなりません。彼は右利きでしたから、左方上部の二画目開始地点から右方への旅路は、自らの右手が重なるが故に不明瞭なのです。地図無き道を、彼は恐れながら進みました。一画目の『はらい』の優雅さを破壊しない丁度の位置を、彼はさながら目を瞑りながら目指したのです。
そうして断崖に架かる細い橋を渡り終えた先で、彼は息を吐く間も与えられずに新たな絶望と邂逅したのです。直角を為す真下へと下る行程に、危険な落下の幻影を見たのです。此処より先は、やはり絶対的に直線で無くてはなりませんから、彼はその時になってやっと、定規を用いない直線というものが、とんでもなく頼りないことに気付いたのです。彼は白紙を削る様に、ペンを突き立てました。彼の夢中のイメージでは、戦士の長剣が怪物の鱗を縦に裂いていました。堅く険しい、生命を守護するための鱗を、満身の力を以て削り続けたのです。
骨を噛むような細い音が、かり、かり、と彼の鼓膜を引搔きました。
そんな些細な想像上の戦争が在って、漸く彼は、一画目の『はらい』の先端と同じ高さの位置へと、決死の亡命を果たしたのです。
怯えと感動に似た波が、ペン先を軸に、右手を所在なく震えさせました。しかし滲み出すインクは彼に時間を与えません。彼は今直ぐにでも、その真っ直ぐな落下を、全く異なる方向へと蹴飛ばさなければなりませんでした。圧縮された一瞬の中に閉じ込められた彼は、無限の想像の過程を踏みました。角度にして三十度ほど、鋭角的に飛ばして見せるべきか、それとも六十度ほどに留めて落ち着きを見せるべきか、はたまた息をフッとやるように、直角に跳ねて遣れば穏やかな丸さが表現できるやもしれない──
彼はその瞬間、悪魔とすれ違う十字路に立っていました。来た道を戻る術は持たず、ならばどの道を選ぼうか。太陽の昇る道、頂点に至る道、沈む道という三つの在り方が彼の目の前には創造者の当然の権利として横たわっていました。彼には選択の自由が在り、同時に大いなる逡巡の権利が与えられていたのです。【月】の印象を大きく左右する彗星の尾のような一撃は、たかが彼の指先で決まるのです。
彼は無我夢中でペンを奮いました。彗星の尾っぽは天高く帰ることを望み、元来の開始地点であった一画目、二画目の重なるあの地点へと昇ってゆきました。そして彼は愕然としたのです。
これで漸く、自分は【月】の内面に触れる権利を得たのだと、これだけの工程を踏んでやっと理解しました。今までで成した偉業は、たった四画で完成する【月】という存在の、更に半分のことでしかなかったのです。上っ面の外周をなぞるだけで彼は鈍るほどに疲弊し、呼吸は短く連続するばかりに成り果てました。
汗を拭ってから、彼は三画目の水平を描いて見せようと試みて、何度かペンの尻を押し、子気味の良い音をたててやりました。
しかしどうも、ペン先を地に触れさせることすら出来なくなっていたのです。彼には、掲げた剣を何処へと突き立てればよいのか、まるで灯りを失った夜のことのように判然としませんでした。
一画目と二画目の開始地点は全く同じでしたから、それまでは威勢さえあれば【月】に挑むことは容易だったのです。しかし三画目はどうでしょう。
一画目が示した直線と曲線の融合という、確かな変化を持つ線の内、どの部分を三画目の足掛かりとして踏むことが正しいのか、彼にはまるで見えませんでした。直線の腹から顔を出せばよいのか、直線と『はらい』の分岐点に筆を置けばよいのか、それとも滑らかな『はらい』から進みだすべきなのか? 彼は歯を噛みました。目玉をぐりぐり動かして一画目を観察しました。直線と『はらい』の分岐点を見つけようと努めて、努めて、その努力の全てが水泡へと帰りました。文字が傾いているのか自分が傾いているのかがわからなくなり、指先で弄んでいたはずのペンが直線物体である実感が溶け去ってゆきました。手の中のペンでさえ、被造物であるのだから完璧な直線であるとは限らない。もう随分と使ったものだから、ひょっとしたらプラスチックの持ち手には知覚の及ばない圧力故に歪曲が生じているのかもしれない。彼は世界を水平に見ることが出来なくなってしまったのです。
E君はもう殆ど無気力でした。壮絶な戦争を二つ終えて疲弊した彼には、【月】が越え得ぬ壁のように思えて仕方ありませんでした。彼のインクペンを支える、親指、人差し指、中指の持つ三つのバネは所在なく弾みました。支えるべきものを見失って、指たちは困惑しました。
彼はその無気力のままに、三本の指に力を込めました。彼の生涯において、指先の力と角度に自覚的になりながらペンを持つことはありませんでした。彼はその瞬間、やっと自らの指とペンを接続させたと言っても過言ではないでしょう。未熟な三点倒立が、ペンの身体を支えるに至ると、彼の中で一つの妄想が再び息を吹き返しました。それは【月】を描くと決めた瞬間に、脳内で支配した月の光景でした。
彼は浜辺に残る松の木と、そこに現れる瞳のような光の円と、更にもう一つの想像を果たしていたのです。
それは光の円に掛かる細雲でした。
その瞬間、彼の中にあった【月】の三画目と四画目は、掛かる細雲として目覚めたのです。彼は明確な景色を見ました。脳に直結する器官であるところの瞳が、在らぬ物を、しかし光明と断言して後悔無き地平を見たのです。彼は素早く残り二画を書き上げました。
ただし、停止と停止の狭間において。
【月】を書き終えた彼は、自然背を預けて、天井へと息を吹きました。それは意識外に長い吐息で、歯の隙間を通る笛のような音を高らかに鳴らしていましたから、教室の視線をにわかに集めることとなりましたが、その全ての外様からの横槍は、広大な旅情を描き終えた彼の疲弊した心地には刺さり得なかったのです。
酷く長い水中遊泳を終えた後の安らかな呼気が、彼の体中を満たしていました。その時ばかりは、彼には自分が風船やゴムボートのように思えて、これから空でも海の果てでも、何処へだって行ける気がしていました。
そうして勝利の凱旋として自分の画いた【月】を見下ろして、彼は気付くのです。
白紙上の【月】が酷く不格好であることに気付くのです。
彼の脊椎が鉄の棒であったならば、体温を吸い込んだまま何処かへずるりと抜け落ちて、伸ばす手すら凍り付いたことでしょう。
彼の躊躇がもたらした点の滲みが、【月】に泥をひっかけていました。撓んだインクは斑の線となって【月】を穢していました。そこに直線はまるで無く、はらいも無ければ跳ねもありません。ただ、ところどころ鱗を剥がれた蛇のような数奇者の歩法が、所在なく逃げ回っているだけだったのです。
以来E君は文字を書くことが出来なくなりました。そして【月】を想起させる全てに対して、異常なほど過敏に成り果てました。まぁるい円が肌を刺し、目玉を焼くのです。衰弱し痩せてゆく彼に、我々がしてやれることは何もありませんでした。私は彼を医院に連れて行こうとしましたけれども、彼は子どものように首を振りながら昼の空を指差して、乾いた唇で幽かな声を漏らすばかりでした。
彼の周りからは次第に人が消えてゆきました。それは私も例外ではありません。今、こうして回想しながらお話しているのは、今宵が悍ましくも満月であるからに他なりません。
私の中の月及び【月】のイメージも、今では著しく正常性を失っています。かつてあの円形に馳せていた神秘性と魔力は、今では誘う白き触手が、貪婪にも蠢いているように思えて仕方が無いのです。
現在E君が、何処でどのようにしているのかは不明です。しかし私は、あの白き魂の塊を通して、何となくE君の波長を感じることが出来ます。月面に反射して、稀に彼の姿を見るのです。
彼は忘然と月を見上げて、今宵もこのように呟きます。
「帰してくれ」と。
礼節の書き方【月】 固定標識 @Oyafuco
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
自己紹介的なもの!/天野 狼 #SZRの森管理人
★15 エッセイ・ノンフィクション 連載中 3話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます