ひなまつり

クロノヒョウ

第1話




 残業を終え帰宅した俺は、誰もいない静かな家の明かりをつけた。

 ひと息ついて部屋を眺める。

 娘が亡くなってもうすぐ一年。

 まだ部屋を片付ける気にはなれなくて、娘のオモチャも洋服も何もかもそのまま置いてあった。

 まるでまだ娘が生きているかのように思えてきた俺は立ち上がると娘の部屋へ急いだ。

「そんなわけ、ないか」

 肩を落としながら誰もいない部屋の娘が使っていた小さなベッドに腰を下ろした。

 脱ぎっぱなしのパジャマ、ハンガーに吊るされた幼稚園の制服。

 ひときわ目立つのは棚の上に置かれたままの、ガラスケースに入ったお雛様とお内裏様の雛人形だ。

「痛っ」

 また始まった。

 割れるような頭の痛み。

 先月あまりの痛さで病院に行くと、脳腫瘍の疑いがあるからおそらく手術になるだろうと医者に言われていた。

 明日にでも検査に行くか。

 そう思いながら俺は娘の部屋を出てドアを閉めた。



「おかしいと言うか、不思議ですね。見てください。先月ここにあった影。これが綺麗になくなっているのですよ」

 医者がずっと首をかしげていた。

「と言いますと?」

「腫瘍も何もない、どこにも異常はありません。しばらく様子をみてみましょう」

 昨日もあんなに頭痛がしたというのに、どこにも異常はないらしかった。

 まったく不思議な話だが、医者がそう言うのだから間違いないのだろう。

 とりあえず、ひとまず安心しながら家に帰った。

「ただいま」

 久しぶりの有休だ。

 娘を失ってからは死にものぐるいで働いた。

 朝から晩までへとへとになって、そうすることで何も考えずに死んだように眠れるからだ。

 それが自分の体を傷つけていたのかもしれない。

 俺はいつものように娘の部屋へ入った。

 カーテンと窓を開け、空気の入れかえでもしようとした時だ。

「ん?」

 飾ったままの雛人形に違和感を覚え、近づいて目を凝らした。

「なんだよこれ」

 お内裏様の頭が取れて、今にもちぎれそうな首がだらんと垂れ下がっているのだ。

 昨夜見た時は確かに綺麗なままだった。

 気味が悪いと感じたのは一瞬で、すぐに俺の頭の中に娘の声がよみがえってきた。

『パパ、あのね、雛人形はね、身代わりになってくれるんだよ』

『身代わり?』

『うん。あのね、悪いことがあったらお人形さんが代わりになってくれるんだって』

『そうかそうか、だったら大切にしないとな』

『うん!』

 そうだ、確かに雛人形は昔から厄災を引き受けるといわれてきた。

 まさか、俺の頭の痛みをこのお内裏様が引き受けてくれたというのか。

『わたしがね、このお雛様を大切にするから、パパは大丈夫だよ』

 この雛人形を買ってあげた時だ。

『わたしがパパを守ってあげるね』

 そう言った時の娘の笑顔がよみがえる。

 男手ひとつで育ててきた娘。

 寂しかっただろうに泣きごとひとつ言わなかった。

 いつも笑顔でいてくれた俺のお雛様だ。

「ありがとう」

 俺は泣きながら家を飛び出した。

 そうだ、今日は三月三日、ひな祭りの日だ。

 桃の花とひし餅と、それから娘の大好きだったちらし寿司も買おう。

 甘酒もお供えしないといけないな。

 気のせいなのかどうなのか、頭の中はすっきりしていて清々しいとさえ思えた。

 娘と、それに雛人形に感謝します。

 今日はきっと娘が近くにいてくれる。

 泣いている場合じゃないと、俺は涙をぬぐった。



           完




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