帰還

大塚

第1話

 煙草に火が点かない。手の中の百円ライターが仕事をしていないのだと、しんにオイルライターを差し出されて気が付いた。


砥我とがさん、あのジッポは? 前使ってたやつ」

「……さあな」


 都内でも珍しい、ほとんど絶滅危惧種と称しても正しいような喫煙可能喫茶店で、俺と申は向かい合っていた。

 求龍きゅうりゅうしん。俳優。最近の映像業界──劇場映画、民放の連ドラ、それに各種配信サービスのオリジナル映像作品ではちょっとした顔だ。映像デビューした当時はモデル上がりの大根役者と雑に扱われていたものの、あれから僅か10年で申は大きく成長した。若手の名脇役筆頭と称されるようになり、さらに10年。俳優業を始めて20年が経つ最近では主役級の役柄を演じることもある。

 その申が、俺を呼び出した。珍しいこともあるものだ。別に申との関係が良くないわけではない。逆だ。彼を俳優としてスクリーンに放り出したのは、当時映画監督だったこの俺だ。デビュー後の申は、何度も俺が脚本を書き、メガホンを取った映画に出演した。それこそ俺が──映画監督を辞めるまで。申は、誰よりも俺の側にいた。

 砥我とが密目みつめはもはや映画監督ではない。現役時代に使用していたジッポなどとうの昔に手放している。映画監督を辞めるまでに、俺の身の上にはさまざまな災難が降り掛かった。俺自身に原因があるものもあったし、俺には何も関係ないのに半ば巻き込まれる形で撮影予定だった作品を諦めざるを得ないような事件もあった。そうして俺は、大好きだった映画を辞めた。辞めてしまえば気軽なもので、世間はすぐに俺を忘れたし、俺もすぐに映画を忘れた。忘れたのだ。そのはずだった。それなのに。


「ジッポは……まあいっか。それよか砥我さん」

「待て。待て申。おまえ今日オフなのか? 撮影は?」

「あーっ、夜ね。23時スタジオ。今はまだ時間ある」


 右手に巻いた腕時計をちらりと見て、申が応じる。今は──17時。こんな中途半端な時間を指定してきたということは、俺に会う前に申は何某かの仕事をしてきたのだ。


「当ててやろうか」

「うん? 何を?」

「番宣。次の映画の。バラエティ番組の収録かなんかに参加してきたんだろう、おまえ」

「……砥我さあん」


 困り果てた様子で眉を下げ、申は空気が抜けるように笑う。ついでみたいに紫煙を吐いた彼は、


「なんでそういうの気付いちゃうかなぁ。ああ、はいはい、その通りですよ。クイズ番組にね、なんかあのー。チーム戦のやつ? スタジオで参加してきた」

「優勝した?」


 100万だかの賞金が出るのではなかったか、と思いながら尋ねると、


「まっさかぁ。俺んチーム、俺も含めてアホばっかりで。クイズで正解なんか全然出せなくて」

「ふーん」

「ていうか俺ああいうバラエティ得意じゃないし……俺ん出演箇所はカットされるんじゃねえかなぁ。なんとなくだけど」


 そんなことはないだろう、という俺の予想はきっと当たる。バラエティが得意じゃない申がクイズ番組で右往左往している様を「可愛い」といって愛でる層がいるのだ。申の女房もたしかそういうタイプの女性ではなかったか。


「いや、クイズ番組のことはどうでもいいのよ砥我さん。それよりほら、持ってきてくれた? 例の」

「……持ってくるはずないだろ」

「えええ!!!」


 申の濁声が店中に響き渡る。幸いにも俺と申以外には店員と思しき男性がカウンター内で洗い物をしているだけだったので特に迷惑をかけはしなかったが──いや、それなりの有名人である成人男性が静まり返ったカフェの中で大声を出したら、迷惑ではあるか。「すみません」とカウンターの方に頭を下げると「いえいえ」と俺より申よりだいぶ年下であろう男性は柔和な笑みを浮かべてくれた。良かった。


「なん……なんで……持ってきてくれるって……」

「検討するって言っただけだ。持ってくるなんてひと言も言ってない」

「そんなぁ……あのねえ砥我さん。何度も言うけど俺は本気なのよ。伝わんないの?」

「伝わんねぇなぁ」

「嘘だ。伝わってる。それなのに知らん顔してるだろ、ひどいよ砥我さん……」


 見るからに意気消沈する申の姿を見ていると、多少は罪悪感が湧いてくる。だが、俺は申の泣き落としに応じるわけにはいかないのだ。

 申が欲しがっているのは、俺が書いた脚本だ。映画監督としての砥我密目を葬る前に、最後に書いた脚本。映像化されずに箱に封じられた、砥我密目のひと欠片。


 求龍申は、その脚本を引っ張り出して、映像化したいと言い張っている。


 彼はもう、同世代のプロデューサーに声をかけている。申が主演を務めるとなれば、スポンサーもそれなりに付くだろう。共演したいという俳優も既に少なからず集まっているはずだ。

 だが。脚本を書いたのは俺だ。今はもう死んでいる、砥我密目という監督の亡骸。

 死体が書いた脚本を、今をときめく俳優である求龍申に渡すことなんかできない。彼のキャリアに巨大な傷を付けることになりかねない凶器を、俺は絶対に差し出せない。


「ねえ砥我さん。半端な気持ちじゃなくて俺は……」

「ああ何度も聞いたよ。あのな申。おまえの気持ちは嬉しい。嬉しいのは本当。マジ。でもな俺は。もう」

「もう監督じゃないって言うんだろ。監督としての砥我さんは死んだって言うんだろ。……それだったら、今目の前にいる砥我さんは誰なの?」


 砥我さんじゃないなら──誰なの?


 切々と訴える申を、心の底から振り払うことができたらどれほど良いだろう。俺と彼がこのやり取りをするのは、今日が初めてではない。申は何度も俺を呼び出し、俺は繰り返し彼の期待を裏切った。これからも裏切り続ける。申が俺を諦めるまで。映画監督砥我密目は死んだのだと、認めるまで。

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