花篝
雨水 音
花篝 前編
花篝
それは、とある少女二人の物語。そして、愛とは何かを問う物語。
あぜ道を歩く、ショートヘアの少女がひとり。紺色のブレザーの胸元には、傷一つない校章がきらりと輝いている。まだかかとの硬いローファーを鳴らして歩くその少女の名は璃子。今日この日から高校一年生として生きる璃子は、胸を高鳴らせながら通学路を歩いていた。
無人の小さく古びた駅から、住宅街と畑を抜けて新たな学び舎へと向かう。まだ少し冬の香りを孕んだ風が吹き付けた。真新しい紺色のボックススカートがはためく。その艶のあるショートカットが僅かに揺れる。璃子は小川の向こう側にある校舎を眺めながら、少し塗装の剥げたコンクリートの道を歩いた。
ホームルームが始まる八時四十五分まで、残り一時間。気が向いたからと早く家を出て、こうしてまだ空の低い位置にいるお天道様の光を浴びる高校生は、璃子以外に見当たらない。もう少し遅くてもよかったなあ、なんて、璃子は頭の中でぼやいた。
住宅街を抜け、校門を通った璃子は「H」の形をしたそこそこ新しい校舎の前に立つ。
――今日からあたし、高校生なんだ。
急に実感が湧いてきて、口元が緩む。璃子はふわふわと浮ついた心持ちで花壇に植えられたパンジーを横目に、教室へと歩いた。先程よりも温かい、春を象徴するような風が吹いていた。
一年B組の教室は、「H」字の校舎の右下側の、一階に位置している。全く人の気配も音もない廊下を進み、璃子はB組の教室の扉を開いた。
「……あ、おはよぉ」
廊下からは死角となる、廊下側二列目の席に、一人の少女が座っていた。真っ黒で長い髪を下ろした可愛らしい少女。大きくくりくりとした目の上に乗せられたコーラルピンクのアイシャドウに、ふわりと垂れたアイライン。目尻に入れられたグリッターがさり気ない甘さを醸し出している。彼女は同性の璃子から見ても、「可愛い!」と思う少女だった。
「え、あっ、おはよう。めっちゃ早いね」
自分が一番早いであろうと思っていた璃子は動転し、教室に入ることも忘れて、扉の前に突っ立ったままそう言った。すると、少女はふにゃん、と気の抜けた笑みを見せる。
「実はさあ、今日最寄りの駅まで親に送ってもらったんよねー。そしたらこんなに早くなっちゃった。まだまだ誰も来ないと思ってたから、来てくれて嬉し。ね、名前なんていうの?うちは紗良!」
紗良と名乗った少女に笑いかけられて、璃子も頬を緩めた。
――ああ、良かった。この子とは、うまくやっていけそうな気がする。
「あたしは璃子。よろしくね、紗良ちゃん」
「え〜、へへ、紗良でいいよ!呼び捨て全然おっけー!うちも呼び捨てで呼んでいい?」
なんてフレンドリーな子だろう、と璃子は微笑ましく思いつつ、頷いた。
「うん。じゃあ、紗良って呼ぶね」
「はあい。そんじゃ、仲良くしようね、璃子!」
そう言った紗良は、花が咲くような、周りのすべてを一瞬で幸せにできるような、そんな笑顔だった。
そんな、卒業式の翌日から早三ヶ月。季節はすっかり夏。外にいるだけで何もしなくても汗が滲み出すような、嫌な暑さの夏だった。クラスメイトともすっかり打ち解けて、放課後に最寄りの無人駅でアイスを食べたり、カラオケに寄って帰ったり。同じ部活に入った璃子と紗良は、殊更隣にいることが多かった。
「……あれ、紗良、リップ変えた?色いつもと違う」
「え、よくわかったね!これ、この前話してた新作。いいでしょ」
「うん、似合ってる。紗良可愛いし、なんでも似合うけど特にいいね。」
「へへ、嬉しいこと言ってくれんじゃん?てか、璃子もネイル変えたよね?その青、璃子って感じして好き〜。うち、よく璃子のこと見てるっしょ?」
得意げにふふんと笑った紗良の表情があまりにも眩しくて、璃子は目を細める。今日も紗良の笑顔は、璃子と紗良が初めて話した日のときのような、周りのすべてを一瞬で幸せにできるような笑顔。璃子はその笑顔が、時が立つにつれて更に綺麗に、可愛くなっているように感じていた。
紗良の笑顔が好き。紗良の声が好き。紗良があたしを呼ぶ声が好き。遅くまで漫画を呼んでいて、次の日の授業で居眠りして怒られる紗良の、「やっちゃったー」って思っているときの表情が好き。紗良の書く文字が好き。紗良の指先のネイルが好き。
――どうしてだろう。最近、紗良のことばっかり考えてる。
璃子の趣味は、小説を書くことだ。ミステリーやSFものばかり書いていた璃子が最近書いているのは、恋愛小説。珍しく恋愛小説を書きたくなって、主人公の女の子をどんな子にしよう、と思ったとき、真っ先に思い浮かんだのは紗良だった。紗良みたいな主人公を書きたいと、直感的に思った。そうして璃子が書き始めた物語は、面白いぐらいに筆が進んだ。紗良のことをもっと知りたいと、そう思ってしまうほどに。もっとこの主人公を幸せにしたい。いや、――紗良のようなこの子を、全力で愛してみたい。
――ああ、そっか。紗良って、漫画や小説の主人公みたいなんだ。
心のどこかで得心がいった。まるで、パズルのピースがかちりとぴったり嵌まるような、ぽっかりと空いた隙間が埋められるような、そんな感覚。
璃子がいつだって憧れていた、物語の「主人公」。紗良は、まさに主人公のような人間だった。その明るさも、周りもつられて笑顔になってしまうような笑い声も。ぜんぶぜんぶ、彼女をこの世界の主人公足らしめている。
――あたし、紗良のこと、好きなんだ。
璃子はこの日、人生で初めての恋をした。恋い焦がれるという感情を得た。国語の授業やよく読む漫画や小説などでしか知らなかった、未知の感情を、得た。璃子が読んできた物語の中の恋は、きらきらして眩しくて、何もかもが今までよりも美しく見えるみたいな、そんな恋々だった。けれど、今、璃子が直面している「恋」は、そんな生易しいものではなかった。好きという感情の苦しさ。紗良の笑顔を見るだけで高鳴る鼓動。紗良に近づく人間への嫉妬。
――ああ、あたしの恋って、なんて醜いんだろう。
璃子は自分の席に座って上機嫌に推しを眺める紗良をこっそり見つめるたび、そんなことを考えた。綺麗で可愛い紗良に、そんな感情を向けてはいけない。そうわかっているのに、気持ちは膨らんでいくばかり。「好きがあふれる」なんて言葉を自らが書いた小説で用いたとき、璃子は誇張しすぎたか、なんて思っていた。けれど、今になってようやくわかる。ああ、誇張なんかじゃなかった、と。むしろ、足りないぐらいだ、と。
「紗良が好き」という気持ちに押し潰されて、溺れそうになって初めて、璃子は恋を理解した。これが、恋なんだ、と。
璃子は、咄嗟に隠さなくては、と思った。こんな醜い感情を、表に出してはいけないと。ともすれば紗良を汚してしまいかねないこの感情なんて、段ボールの中に入れてガムテープで蓋も底も引っ付かせて、そのあとぐるぐるに縛って絶対に誰にも気付かれないようにしなくては、と思った。
「――璃子ってば、聞いてる?」
駅まで歩く帰り道、急激に溢れてきそうになった「好き」を押し込めようと、自分の内側に籠もっていた璃子を引き上げる声がした。
「うぇ、あ、ごめん聞いてなかったかも……」
「大丈夫?体調悪い?」
その顔にありありと「心配……」と書かれている、紗良の初めて見る表情。きゅん、と胸が締め付けられるような感覚。
――だめ。だめだってば。抑えておかないと。こんな気持ち、外に出しちゃだめ。
「……大丈夫だよ。心配かけてごめんね?さっき、なんの話してたっけ」
ぎゅうぎゅうに心の内側に押し込めた「好き」が、開けて出してと璃子の心を叩く。胸が痛いって、こういうことなんだ、と璃子はどこか他人事のように思った。
「そう?大丈夫ならいいけど。カラオケ行こって話!璃子、明後日行ける?部活ないからちょうどいいかなって思っててさぁ」
「行けるよ。紗良、最近ずーっとカラオケ行きたいって言ってたもんね」
璃子は、デートだ、なんて思ってしまった自分を恨んだ。紗良にはそんな気持ちがないことなんてわかりきっている。自己嫌悪に支配されてしまいそうで、ぐっと唇を噛んだ。
「へへ、楽しみだなあ。璃子と二人でカラオケとか、久しぶり!やっぱり璃子の隣が一番落ち着く気がする!いつもありがとね、璃子!璃子と仲良くなれて、うちってば幸せ者すぎ〜!」
――あ、やば、あふれる。
「……すき」
「……え?」
――ああ、言っちゃった。だめなのに。こんな汚い、醜い気持ちなんて、どこにも出す予定、なかったのに。取り消す?ごまかす?どうしよう、だめだ、混乱しちゃって、頭がうまく働かない。
「……へへ、うちも璃子のこと好きだよ!なんか照れんね」
――違う。違うんだよ、紗良。――あたしのこの「すき」は、紗良が言ってる「好き」じゃないんだよ。あたしのこれと、紗良のそれは、全く別物なんだよ。
「……紗良」
「ん?どしたん?」
「……あたし、が。紗良のこと、その、恋愛的な意味で、すきって言ったら……どうする?」
長い、長い沈黙。一瞬、二人の間だけ、音が途切れた。その場だけまるで時が止まったみたいだった。夏の生ぬるい風が、璃子と紗良、それぞれの夏服のスカートを揺らす。じわじわ、太陽とコンクリートが熱を発している。
――言わなければよかった。こんな風に、関係が壊れてしまうぐらいなら、言わなければよかった。なんで、完璧に隠せなかったんだろう。
「……ぁ、ちがくて、ごめ、やっぱなしに」
そこまで、璃子が言いかけた、その瞬間だった。
「――いいよ」
「……え、紗良、……それ、意味わかって、言ってんの?」
「そりゃ、ね。うちは、璃子のこと、友達として大好き。他の誰よりも、大事な友だちだと思ってる。でも、璃子がうちとその、恋人的なものになりたいんだったら、うちは全然いいよ。璃子とおんなじ「すき」は返せないかもだけど、それでもいいなら、うちは、嫌なんかじゃないよ」
うちら、付き合っちゃう?なんて、紗良が笑って言った。その笑顔は、璃子が初めて見る表情だった。いつもの、周りのすべてを幸せにするような、あの笑顔ではなかった。慈愛に満ちた、すべてを包み込むみたいな、無条件にすべてを肯定してしまうような、そんな笑顔だった。
璃子のスカートの裾を、西日を反射した幾つもの雫が濡らした。16年の人生の中で、初めて流した、幸せから来る涙だった。
――ああ、あたし今なら、隣に紗良がいれば、空だって飛べそう。
「紗良、――あたしと、付き合って」
花篝 雨水 音 @Amamizuoto
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