雨詩
しゆ
side:花織
雨は良い。
音は全て雫の中に飲み込まれ、傘に隔てられて誰の視線も届かない。
傘を差して歩いている。それだけで
今この時、世界は僕1人だけのものになる。
まさに至福の時だ。
下を向いて、水溜まり越しに世界を見ていると、不意に目が覚めるような紅色が視界を灼く。
驚いて目を上げると、1人の少女がいた。
なるほど、さっきの紅色はこの子のものだったか。
紅い靴がよく似合っている。
「ごめんね、危うくぶつかるところだった。良い靴だね」
外面だけは完璧に、キラキラとした顔を浮かべて笑う。
「ううん、ぶつかっていないから大丈夫」
鈴を転がすような声とは、こういうのを言うのだろうか。
雨音に掻き消されそうなくらいか細くて、弱々しい声だったけど、僕はその美しさに心を奪われる思いだった。
僕が惚けていると、彼女はもう用はないとばかりに踵を返して歩き去ろうとする。
それを見て、僕は慌てて彼女を呼び止める。
「ね、ねぇ!キミ、名前は?僕は花織。花を織ると書いて花織って言うんだけど……」
彼女は困惑したような、おかしなものでも見るような目で僕のことを見る。
当たり前だ。
道端でぶつかりかけた相手に突然名前を聞かれれば、こんな反応になるのは当然だろう。
いったい僕は何をしているんだ。
これじゃまるで不審者みたいじゃないか。
少女に謝ってその場を去ろうとした時、彼女は小さく口を開いた。
「一途。一途と書いていと」
名前……、教えてくれた。
一途…………か。へぇ。
僕が無言のままでいると、彼女は不思議そうに首をかしげる。
「あぁごめん。一途、一途か……。うん」
それはとても
「良い名前だね」
綺麗な名前だ。
その瞬間、彼女の顔が、ボンッとでも音を立てそうなくらい真っ赤に染まった。
「えっ!?ど、どうしたの?」
「な、なんでもない」
僕が慌てて顔を覗き込もうとすると、彼女はふいっとそっぽを向いてしまった。
そのままの勢いで歩き去ろうとする彼女に、僕はみたび声をかける。
「ねぇ、少しだけ一緒に歩かない?この傘の中でさ」
「ちょっとだけ。付き合ってよ」
彼女は自分の傘を持っている。
それを閉じて、自分の傘に入れと。
普通に考えればわけがわからない誘いだ。
この時、僕がなんでこんな行動に出た
のか、今でもよく分かっていない。
ただ、この紅い靴の少女との出逢いをなかったことにしたくないと、なぜだかそう思ってしまったのだ。
「ダメ……かな?」
縋るような声で問う。
自分のこんな情けない声、生まれて初めて聞いた気がする。
「良いよ」
そう言って柔らかく笑うと、彼女は傘をたたんで、僕の傘の下に入る。
無駄な音のない世界で、僕の鼓動だけが大きく響いている気がする。
誰の視線もない傘の下で、2人寄り添って歩く。
雨はきっとまだ止まないだろう。
世界に2人きりっていうのも、案外悪くない。
雨詩 しゆ @see_you
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